まいどの昔話で恐縮なのですが、二十歳過ぎまで私は厚揚げを食べたことがなかったのであります。もちろん、その時点ですでに二十年以上の歳月が過ぎているわけで、当然その中では厚揚げを好むと好まざるとにかかわらず食膳にそれが登場することはもちろん幾度となくあったわけなのですが、なぜかそれに箸をつけることはなかったのであります。
べつに明確に嫌いな理由があったわけではないのですが、あえていえばあの表面のごつごつとした感じと、色合いがちょっと”キモ”だったのだとおもっているのです。
そうです、私は食わず嫌いの権化なのであります。
いまだにその基本属性は変化することが無く、ごくごく最近でしたらゴーヤがあきまへん。理由はやはり、あの表面のごつごつとしたあの感じが堪らなくいやいやなのであります。
さて、そんな私が厚揚げを食すに至ったのは、しばしば「社」に居候させていただいていたのですが、ここでの食事には頻繁にこの厚揚げが登場したのであります。なぜかといえば、この「社」のすぐ近くにお豆腐屋さんがありまして、いかなる縁か、いつからのお付き合いかは知らないのですが、世間で白い目で見られることがとかく多かった私たちに、とても好意的なお豆腐屋さんだったので、こちらとしても大変贔屓にしていたわけなのであります。
私はこの目で見たことはないのですが、聞いた話によると店の中にマルクスの肖像画がかかげてあるとかないとか、「社」内的な公称は「マルクス豆腐店」、ちょっとレアなお豆腐屋さんなのでした。
てなわけで、実に頻繁に厚揚げがお膳に上がったのであります。当時極貧だった私が、好き嫌いいえるような立場ではなかったので、かなりの抵抗をこえて、きざみネギと鰹節ののった厚揚げを箸でつまんでくちにいれて思ったこと、「うっうまぁあい!」。
と同時に、長年にわたってコイツをスルーしてきたことをあらためておもうと、とっても損をしたようなネガな気分になったものでした。
それからは、強火でチョット焦げ目をつけ、きざみネギをのせた厚揚げはすっかり好物にランクアップし、炉端焼き屋や、飲み屋の定番メニューとなったのであります。
今日はお仕事のお付き合いで小一時間ほど、一杯飲み屋で生ビールをいただきながら、厚揚げ君を箸でつまんでいてふとそんなことを思い出したという、たわいもないお話でありました。お粗末!
すっかり夏バテの三毛猫みこ 夏本番はこれからだぞ!
一丁焼き鰹でもふるまって精をつけてもらうか。

べつに明確に嫌いな理由があったわけではないのですが、あえていえばあの表面のごつごつとした感じと、色合いがちょっと”キモ”だったのだとおもっているのです。
そうです、私は食わず嫌いの権化なのであります。
いまだにその基本属性は変化することが無く、ごくごく最近でしたらゴーヤがあきまへん。理由はやはり、あの表面のごつごつとしたあの感じが堪らなくいやいやなのであります。
さて、そんな私が厚揚げを食すに至ったのは、しばしば「社」に居候させていただいていたのですが、ここでの食事には頻繁にこの厚揚げが登場したのであります。なぜかといえば、この「社」のすぐ近くにお豆腐屋さんがありまして、いかなる縁か、いつからのお付き合いかは知らないのですが、世間で白い目で見られることがとかく多かった私たちに、とても好意的なお豆腐屋さんだったので、こちらとしても大変贔屓にしていたわけなのであります。
私はこの目で見たことはないのですが、聞いた話によると店の中にマルクスの肖像画がかかげてあるとかないとか、「社」内的な公称は「マルクス豆腐店」、ちょっとレアなお豆腐屋さんなのでした。
てなわけで、実に頻繁に厚揚げがお膳に上がったのであります。当時極貧だった私が、好き嫌いいえるような立場ではなかったので、かなりの抵抗をこえて、きざみネギと鰹節ののった厚揚げを箸でつまんでくちにいれて思ったこと、「うっうまぁあい!」。
と同時に、長年にわたってコイツをスルーしてきたことをあらためておもうと、とっても損をしたようなネガな気分になったものでした。
それからは、強火でチョット焦げ目をつけ、きざみネギをのせた厚揚げはすっかり好物にランクアップし、炉端焼き屋や、飲み屋の定番メニューとなったのであります。
今日はお仕事のお付き合いで小一時間ほど、一杯飲み屋で生ビールをいただきながら、厚揚げ君を箸でつまんでいてふとそんなことを思い出したという、たわいもないお話でありました。お粗末!
すっかり夏バテの三毛猫みこ 夏本番はこれからだぞ!
一丁焼き鰹でもふるまって精をつけてもらうか。

ちょっと難解なお話が続きましたので、園芸ネタいきます。というか、どうしても花はいちどに開かないし、開いてしまったらそれでネタは尽きてしまいます。
そんなわけで、つまらないお話にお付き合いいただいている間に、またまた花は開いておりました。
さて、話はかわり日々の雑感ですが、すっかり季節はかわり暑い日々が続いております。そうなるっていうと暑中見舞いの一枚でも書かねばなりません。昔の友(とも)、盟友(とも)、強敵(とも)との交通はいまはすっかりかりに切断されおりますが、ほんのわずかながらもつながりがのこっている友もございます。
そんな友たちへここ数年の園芸趣味を葉書にのせておくると、かならず返ってくる返事には、「おまえが園芸なんて・・・絶対に信じられない!ウソだろぉお」と書かれてくるのであります。なかには、「おまえがそんなことをするから北極の氷がとけてシロクマさんが絶滅の危機にひんするのだ!」と訳のわからない”声援”をおくってくれる友もおります。
まあ、人も年をかさねると趣味もかわるものであります。そやつはいまだにメカニカルなもの系趣味の王道全力疾走しているようであります。私もかつてはその路線だったのですが、つぎつぎと貨幣を投じなければならないバリバリの工業製品系にはすっかりつかれてしまいますた。
それにしても花を咲かすこと、咲いた花を愛でることがかくも楽しいことであるとは思いませんでした。今日はなきに等しき知性の働きがさらに著しく低下しているもようなので、めんどくさい能書きの類はあっさりパスして、すでに梅雨があけ、毎日、灼熱の太陽にこんがりと焼かれている方々へ、暑中見舞いにかえてバラを貼らせていただきます。
まだ、暑さに体が慣れておりません。熱中症になどならぬようご注意くださいませませ。
モダンローズのアイスバーグ 結構いい感じ。

京成アンティックローズのアンドレルノート

イングリッシュローズのウイリアムモリス

イングリッシュローズのエブリン 今年はシュート君三本登場。

イングリッシュローズのガートルード・ジェキル

イングリッシュローズのグレース

イングリッシュローズのヘリテージ ちょっとジェフ・ハミルトンぽい、けど地植えのヘリテージ

イングリッシュローズのモーティマー・サックラー


イングリッシュローズのモリニュー

ハイブリッドティーのラジアンス

ティーローズのソンブロイユ まだまだしょぼくならず咲きまくり

ポートランド系のアンチ・チュールド・サンサール 摘蕾忘れて咲かせちまった相原産新苗。すごくいいので、掟破りのそのまんま開花。

チャイナローズのルイ14世 黒点病で葉が落ちるよりさきに成長するサイボーグ!

おまけのグラジオラス

そんなわけで、つまらないお話にお付き合いいただいている間に、またまた花は開いておりました。
さて、話はかわり日々の雑感ですが、すっかり季節はかわり暑い日々が続いております。そうなるっていうと暑中見舞いの一枚でも書かねばなりません。昔の友(とも)、盟友(とも)、強敵(とも)との交通はいまはすっかりかりに切断されおりますが、ほんのわずかながらもつながりがのこっている友もございます。
そんな友たちへここ数年の園芸趣味を葉書にのせておくると、かならず返ってくる返事には、「おまえが園芸なんて・・・絶対に信じられない!ウソだろぉお」と書かれてくるのであります。なかには、「おまえがそんなことをするから北極の氷がとけてシロクマさんが絶滅の危機にひんするのだ!」と訳のわからない”声援”をおくってくれる友もおります。
まあ、人も年をかさねると趣味もかわるものであります。そやつはいまだにメカニカルなもの系趣味の王道全力疾走しているようであります。私もかつてはその路線だったのですが、つぎつぎと貨幣を投じなければならないバリバリの工業製品系にはすっかりつかれてしまいますた。
それにしても花を咲かすこと、咲いた花を愛でることがかくも楽しいことであるとは思いませんでした。今日はなきに等しき知性の働きがさらに著しく低下しているもようなので、めんどくさい能書きの類はあっさりパスして、すでに梅雨があけ、毎日、灼熱の太陽にこんがりと焼かれている方々へ、暑中見舞いにかえてバラを貼らせていただきます。
まだ、暑さに体が慣れておりません。熱中症になどならぬようご注意くださいませませ。
モダンローズのアイスバーグ 結構いい感じ。

京成アンティックローズのアンドレルノート

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イングリッシュローズのエブリン 今年はシュート君三本登場。

イングリッシュローズのガートルード・ジェキル

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イングリッシュローズのモリニュー

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ポートランド系のアンチ・チュールド・サンサール 摘蕾忘れて咲かせちまった相原産新苗。すごくいいので、掟破りのそのまんま開花。

チャイナローズのルイ14世 黒点病で葉が落ちるよりさきに成長するサイボーグ!

おまけのグラジオラス

ところで精神が、未だ曽て良きしたことのないようなものとの不断の闘争によく堪えねばならないとすれば、何よりもまず二個の特性を欠くことができない。その第一は、このような甚だしく不分明な事態のなかにあっても、真実を照破するだけの光をはなつがながらも保有しているような知性である、また第二は、このともしい光に頼って行動するところの勇気である。前者は譬喩的に、フランス語の(couq d' oeil)クワ・ドウィユ(精神的瞥見)という語で表現されている、また後者は果断である。
(中略)
上述した「クワ・ドウィユ」および果断に因んで、これと密接な関係にある沈着、即ち精神が常に目醒めている心的状態を論じなければならない。元来戦争は予期しない事件の生起する領域であるが、沈着はまさにこのような領域において、大きな役割を演じるのである、予期せぬ事件を適切に処理して誤らない高度の心力がすなわち沈着にほかならないからである。
不意に話しかけられた場合に、これに対して当為即妙な答えをするのも沈着だし、また突発した危険を即座の機転によって切り抜ける手段を講じるのも沈着であり、いずれも感嘆に値する心のはたらきである。しかしかかる手段と言い、それが適切でありさえすれば必ずしも非凡であることを要しないのである。平静な熟慮を経た上でならかくべつ非凡というほどの行為でなくても、従ってまた我々の受ける印象としてはかくべつ取り立てていうほどのことでなくても、それが知性の咄嗟のはたらきであれば、やはり我々を悦ばすのである。沈着、即ち精神が常に目醒めているという表現は、知性によってとられた処置が、響の声に応ずるごとく迅速であることを言い現して極めて適切である。
人間精神のかかるすばらしい特性が、知性の特質に基づくのか、それとも情意の均衡から生じるのかということは、その都度の場合がどのような性質のものであるかによってそれぞれ異なるであろう。しかしいずれにせよ沈着には、この両者の一を全く欠くわけにはいかないのである。それだから当意即妙の応答は、どちらかと言えば機転のきく頭脳のなすところであり、また突然の危険に処して咄嗟に適切な手段を講じるためには、何よりもまず情意の均衡がなければならないのである。
(クラウゼヴィッツ「戦争論」一編第三章 軍事的天才より)
という下りを読んでいた。とある春先の昼下がり。誰が読んでいたかというと、私では勿論無い、読んでいたのは社防隊長。
ルンペンスチューデントだった私は、待機時間中にて無償配給の昼食をいただきお昼寝中だった。
ひとしきり寝た後、ボケ〜としていると、学生同志!の声につづいて、いきなりこの下りを音読する隊長。えぇえぇと動揺しつつ聞く私。
音読をおえて、まるで御仏が手をさしのべるように「同志!沈着ということが如何なることであるか理解できたかな?」と。「は!隊長、さっぱりであります。」と私。
にこっと笑って隊長曰く「沈着というのは、予期せぬ事態が発生したとき、それを処理する能力である。その際の知性の咄嗟の働きは普通でよい。その能力は乱れた心が平常心へと戻るにかかる時間をもってしるべし。どうだ、精神は目醒めたか」と。続けて、「学生は勉強せねばいかんぞ。」 「ハイ!わっかりました」と私。
遠い昔のこと、第二ビルの社防室でのやり取りだった。
それが、「戦争論」とのはじめての出会いだった。その後、勉強嫌いだが「素直なよい子」(括弧付き)だった私は隊長の仰せの通り、「戦争と革命の基本問題」と平行して「戦争論」を日々の任務のあいまをみてせっせせっせと読んだものだ。なれど、どちらもいまだ一知半解にして、本能のごとく自由自在にそれを操れるようになることは現世ではかなわないと半ば諦めている。
とはいえ、そんな一知半解なるシロモノでも、戦争のなんたるかくらいのことは多少はわかるのだが。
憲法9条をよりどころとして、反戦・平和 を訴えることは、最高規範を担保としたわかりやすい論理としては有効であるかも知れないが、現実の国際社会が「安定」(括弧付き)していた時ははるか遠くへと過ぎ去り、流動を通り越し、激動するいまにあっては、世界各地とりわけ発展途上国で生起する民族解放の闘いや、世界中をかけずりまわる投機マネーが引き起こす摩擦の激しさは、社会の枠組みを右から大きく揺さぶり、そんなストレートな論がはいってゆけないほどジグザグした多様な「現実論」を準備する。
そんな「現実論」のリアリティーの前に屈し9条を投げ捨てる、あるいは観念論と誹られ一笑にふされることを断固として拒むのであるならば、もっともっと戦争について学ばねばならない。政治と軍事の関係を深く理解せねばならないと思うものである。戦争という二文字を忌み嫌い避けるのではなく、真っ正面からそれが何であるのかを見据え、考え抜くことをとおしてのみ、紙に書かれた文字に過ぎない、9条が物質的な力へと転化しうる可能性を見いだすことができるような論理を用意できるように思うのである。
てなわけで、嵐勘三郎まがいのヤクザなコメンターはほどほどにして、すこしは暇を見つけて勉強しようかなと。おそらく隊長なら、いまでも私にこう言うだろう「おっさんは勉強せねばいかんぞ。革命は近いが人生は残り少ないぞ」と。 たわいもないお話でした。
当地は暑い日が続いております。今日は何の脈絡もなく猫さんを貼りまする。
玄関の土間でとける猫

へろへろのなな

へんな格好のみこ

(中略)
上述した「クワ・ドウィユ」および果断に因んで、これと密接な関係にある沈着、即ち精神が常に目醒めている心的状態を論じなければならない。元来戦争は予期しない事件の生起する領域であるが、沈着はまさにこのような領域において、大きな役割を演じるのである、予期せぬ事件を適切に処理して誤らない高度の心力がすなわち沈着にほかならないからである。
不意に話しかけられた場合に、これに対して当為即妙な答えをするのも沈着だし、また突発した危険を即座の機転によって切り抜ける手段を講じるのも沈着であり、いずれも感嘆に値する心のはたらきである。しかしかかる手段と言い、それが適切でありさえすれば必ずしも非凡であることを要しないのである。平静な熟慮を経た上でならかくべつ非凡というほどの行為でなくても、従ってまた我々の受ける印象としてはかくべつ取り立てていうほどのことでなくても、それが知性の咄嗟のはたらきであれば、やはり我々を悦ばすのである。沈着、即ち精神が常に目醒めているという表現は、知性によってとられた処置が、響の声に応ずるごとく迅速であることを言い現して極めて適切である。
人間精神のかかるすばらしい特性が、知性の特質に基づくのか、それとも情意の均衡から生じるのかということは、その都度の場合がどのような性質のものであるかによってそれぞれ異なるであろう。しかしいずれにせよ沈着には、この両者の一を全く欠くわけにはいかないのである。それだから当意即妙の応答は、どちらかと言えば機転のきく頭脳のなすところであり、また突然の危険に処して咄嗟に適切な手段を講じるためには、何よりもまず情意の均衡がなければならないのである。
(クラウゼヴィッツ「戦争論」一編第三章 軍事的天才より)
という下りを読んでいた。とある春先の昼下がり。誰が読んでいたかというと、私では勿論無い、読んでいたのは社防隊長。
ルンペンスチューデントだった私は、待機時間中にて無償配給の昼食をいただきお昼寝中だった。
ひとしきり寝た後、ボケ〜としていると、学生同志!の声につづいて、いきなりこの下りを音読する隊長。えぇえぇと動揺しつつ聞く私。
音読をおえて、まるで御仏が手をさしのべるように「同志!沈着ということが如何なることであるか理解できたかな?」と。「は!隊長、さっぱりであります。」と私。
にこっと笑って隊長曰く「沈着というのは、予期せぬ事態が発生したとき、それを処理する能力である。その際の知性の咄嗟の働きは普通でよい。その能力は乱れた心が平常心へと戻るにかかる時間をもってしるべし。どうだ、精神は目醒めたか」と。続けて、「学生は勉強せねばいかんぞ。」 「ハイ!わっかりました」と私。
遠い昔のこと、第二ビルの社防室でのやり取りだった。
それが、「戦争論」とのはじめての出会いだった。その後、勉強嫌いだが「素直なよい子」(括弧付き)だった私は隊長の仰せの通り、「戦争と革命の基本問題」と平行して「戦争論」を日々の任務のあいまをみてせっせせっせと読んだものだ。なれど、どちらもいまだ一知半解にして、本能のごとく自由自在にそれを操れるようになることは現世ではかなわないと半ば諦めている。
とはいえ、そんな一知半解なるシロモノでも、戦争のなんたるかくらいのことは多少はわかるのだが。
憲法9条をよりどころとして、反戦・平和 を訴えることは、最高規範を担保としたわかりやすい論理としては有効であるかも知れないが、現実の国際社会が「安定」(括弧付き)していた時ははるか遠くへと過ぎ去り、流動を通り越し、激動するいまにあっては、世界各地とりわけ発展途上国で生起する民族解放の闘いや、世界中をかけずりまわる投機マネーが引き起こす摩擦の激しさは、社会の枠組みを右から大きく揺さぶり、そんなストレートな論がはいってゆけないほどジグザグした多様な「現実論」を準備する。
そんな「現実論」のリアリティーの前に屈し9条を投げ捨てる、あるいは観念論と誹られ一笑にふされることを断固として拒むのであるならば、もっともっと戦争について学ばねばならない。政治と軍事の関係を深く理解せねばならないと思うものである。戦争という二文字を忌み嫌い避けるのではなく、真っ正面からそれが何であるのかを見据え、考え抜くことをとおしてのみ、紙に書かれた文字に過ぎない、9条が物質的な力へと転化しうる可能性を見いだすことができるような論理を用意できるように思うのである。
てなわけで、嵐勘三郎まがいのヤクザなコメンターはほどほどにして、すこしは暇を見つけて勉強しようかなと。おそらく隊長なら、いまでも私にこう言うだろう「おっさんは勉強せねばいかんぞ。革命は近いが人生は残り少ないぞ」と。 たわいもないお話でした。
当地は暑い日が続いております。今日は何の脈絡もなく猫さんを貼りまする。
玄関の土間でとける猫

へろへろのなな

へんな格好のみこ

肩こり指数★★☆
ナポレオンというお題でとりあげた近代戦の特質が国民をその気にさせて戦争に突っ込むということにあると書いたのだが、そのなかで、そんなやり方をナポレオンがハケーンしたと書いたのだが、正確には、大先生はそう書いてはいない。ので、ワタシの捏造か!!
いやいや、悪意はありもはん。ちょっとお茶目気分で筆がすべりますた。
書いてから二日ほど経過して、お昼ご飯を食べていてふと思い出したのだ。
そう、ナポレオンはパクったのだ。というと人聞きがわるいが、もちろんパクリのゲイツとは違う。
英雄ナポレオンにさきだつこと280年以上前に、庶民をその気にさせて戦争に突っ込むことを思い立った御仁がいたのだ。君主論で知られるニッコロ・マキャヴェッリがそのひとである。
勉強嫌いでお気楽者の私は、君主論をいまだ読破するに至っていない。お昼ご飯を食べていて思い出したのは、ちょくちょく小出しでコソーリあげさせていただいている本ダちょ著作選第2巻に収録された歴史的名著「戦争と革命の基本問題」のなかの一節「戦争と民衆」のなかにその記述があったことを思い出したのだ。
前回の記事の訂正と、もうちょっとだけつっこんだ理解にむけて書いてみようかとおもったのだが、「日本語の読解力のない」私が書くよりも、平易な内容なのでそのままあげさせていただくことにした。関心のおありの方はどうぞ。
(三)戦争と民衆
戦争の本質は、国家間の重大な利害の衝突なのであるが、こうした事情は、近代以前においては、戦争が支配階級の事業、つまり、帝国や王朝の独自の仕事であり、騎士や傭兵隊や常備軍の任務であったのであって、多くの住民は、地形や地勢と同様に客体的条件にすぎなかったのである。いいかえるならば,戦争にとって住民は、帝国や王朝、それゆえ、騎士や傭兵隊や常備軍を経済的に支える消極的要素であった。
(中略)
ところが、このような従来の戦争と住民の関係にかんして根底的な批判をしたのがニッコロ・マキアヴェリであった。すなわち、前節でみたように、イタリア・ルネッサンスの渦中にあったマキアヴェリは、内政と外交、政治と軍事、支配権と戦争、覇権と勢力均衡の内的構造を冷徹に分析し、国家権力の枢要が住民にたいする関係にあることを鋭くあばきだしたのである。覇権は支配権として定着したはじめて安定するのであり、支配者にとってもっとも恐るべきは、住民の反乱であると、マキアヴェリは洞察することによって、政治と軍事の矛盾を「支配の論理」のもとに解決してみせたわけである。
かくして、マキアヴェリは、君主、すなわち国家支配者の原則として、まず第一に実力(ヴィルトウ)をあげ、幸運よりは悪逆を、悪逆よりは実力を称揚するとともに、他国の援助や幸運で支配権をえても実力にそれが転化しないかぎり、脆弱なものであることを警告するのである。第二には、住民の支持をあげ、これが支配権の枢要であることを力説するのである。この点にかんして、マキアヴェリは、新しく併合した地域の住民にたいして守備隊派遣のやり方がいかに無力であるかをしてきするとともに、自治の経験をもった住民が支配者にとっていかに恐るべき存在であるか注意を喚起するのである。
もっとも、それは、一方では、支配者にとって自分の支配地域の民衆の共和主義的蜂起の恐るべきを注意し、他方では、外敵の侵略者にたいしては民衆の共和主義的蜂起をもって対抗するならば不敗であることを主張するという矛盾した構造をとっており、このような提起の仕方がマキアヴェリがカメレオン的と評されるゆえんであるが、しかし、このような逆転可能な論理こそ、暴力の社会的分裂の生みだした矛盾であり、マキアヴェリの名誉であっても、その不明のゆえとはいえないのである。
第三には、イタリアを外敵から守るためには、従来のように、外国の同盟軍に依存したり、傭兵や常備軍に期待したりすることはできず、なによりもまず、イタリアの強力な統一を実現し、その軍事的基礎として住民の共和主義的蜂起と、それにもとづく民兵制度を採用すべきことを強く訴えるのである。
(中略)
戦争の構造を支配権と覇権、政治と軍事の統一として解明するとともに、戦争における決定的要因として住民の態度に着目し、共和主義的蜂起と、それにもとづく民兵制度の意義を照らしだしたマキアヴェリの功績は、ボルテール、モンテスキュー、ルソーらの考察を媒介として、フランス革命戦争におけるジャコバンの急進的民主主義に継承され、クラウゼヴィッツのいわゆる攻撃と防御の不均衡の理論、ならびにマルクス・レーニンの全民衆の武装化の理論をとおして、プロレタリア革命の軍事思想として発展してきたのである。
(以下略)
(本ダ延ヨシ著作セン第2巻 「戦争と革命の基本問題」より)
世界にさきがけたイタリアの交通形態の発展は社会の大きな変革をもたらした。
そうした、カオスのなかに早すぎた天才はロドスを見たに違いない。
ちょっとお猿っぽい?なんて言ったら怒られるかも無礼者って!!

ナポレオンというお題でとりあげた近代戦の特質が国民をその気にさせて戦争に突っ込むということにあると書いたのだが、そのなかで、そんなやり方をナポレオンがハケーンしたと書いたのだが、正確には、大先生はそう書いてはいない。ので、ワタシの捏造か!!
いやいや、悪意はありもはん。ちょっとお茶目気分で筆がすべりますた。
書いてから二日ほど経過して、お昼ご飯を食べていてふと思い出したのだ。
そう、ナポレオンはパクったのだ。というと人聞きがわるいが、もちろんパクリのゲイツとは違う。
英雄ナポレオンにさきだつこと280年以上前に、庶民をその気にさせて戦争に突っ込むことを思い立った御仁がいたのだ。君主論で知られるニッコロ・マキャヴェッリがそのひとである。
勉強嫌いでお気楽者の私は、君主論をいまだ読破するに至っていない。お昼ご飯を食べていて思い出したのは、ちょくちょく小出しでコソーリあげさせていただいている本ダちょ著作選第2巻に収録された歴史的名著「戦争と革命の基本問題」のなかの一節「戦争と民衆」のなかにその記述があったことを思い出したのだ。
前回の記事の訂正と、もうちょっとだけつっこんだ理解にむけて書いてみようかとおもったのだが、「日本語の読解力のない」私が書くよりも、平易な内容なのでそのままあげさせていただくことにした。関心のおありの方はどうぞ。
(三)戦争と民衆
戦争の本質は、国家間の重大な利害の衝突なのであるが、こうした事情は、近代以前においては、戦争が支配階級の事業、つまり、帝国や王朝の独自の仕事であり、騎士や傭兵隊や常備軍の任務であったのであって、多くの住民は、地形や地勢と同様に客体的条件にすぎなかったのである。いいかえるならば,戦争にとって住民は、帝国や王朝、それゆえ、騎士や傭兵隊や常備軍を経済的に支える消極的要素であった。
(中略)
ところが、このような従来の戦争と住民の関係にかんして根底的な批判をしたのがニッコロ・マキアヴェリであった。すなわち、前節でみたように、イタリア・ルネッサンスの渦中にあったマキアヴェリは、内政と外交、政治と軍事、支配権と戦争、覇権と勢力均衡の内的構造を冷徹に分析し、国家権力の枢要が住民にたいする関係にあることを鋭くあばきだしたのである。覇権は支配権として定着したはじめて安定するのであり、支配者にとってもっとも恐るべきは、住民の反乱であると、マキアヴェリは洞察することによって、政治と軍事の矛盾を「支配の論理」のもとに解決してみせたわけである。
かくして、マキアヴェリは、君主、すなわち国家支配者の原則として、まず第一に実力(ヴィルトウ)をあげ、幸運よりは悪逆を、悪逆よりは実力を称揚するとともに、他国の援助や幸運で支配権をえても実力にそれが転化しないかぎり、脆弱なものであることを警告するのである。第二には、住民の支持をあげ、これが支配権の枢要であることを力説するのである。この点にかんして、マキアヴェリは、新しく併合した地域の住民にたいして守備隊派遣のやり方がいかに無力であるかをしてきするとともに、自治の経験をもった住民が支配者にとっていかに恐るべき存在であるか注意を喚起するのである。
もっとも、それは、一方では、支配者にとって自分の支配地域の民衆の共和主義的蜂起の恐るべきを注意し、他方では、外敵の侵略者にたいしては民衆の共和主義的蜂起をもって対抗するならば不敗であることを主張するという矛盾した構造をとっており、このような提起の仕方がマキアヴェリがカメレオン的と評されるゆえんであるが、しかし、このような逆転可能な論理こそ、暴力の社会的分裂の生みだした矛盾であり、マキアヴェリの名誉であっても、その不明のゆえとはいえないのである。
第三には、イタリアを外敵から守るためには、従来のように、外国の同盟軍に依存したり、傭兵や常備軍に期待したりすることはできず、なによりもまず、イタリアの強力な統一を実現し、その軍事的基礎として住民の共和主義的蜂起と、それにもとづく民兵制度を採用すべきことを強く訴えるのである。
(中略)
戦争の構造を支配権と覇権、政治と軍事の統一として解明するとともに、戦争における決定的要因として住民の態度に着目し、共和主義的蜂起と、それにもとづく民兵制度の意義を照らしだしたマキアヴェリの功績は、ボルテール、モンテスキュー、ルソーらの考察を媒介として、フランス革命戦争におけるジャコバンの急進的民主主義に継承され、クラウゼヴィッツのいわゆる攻撃と防御の不均衡の理論、ならびにマルクス・レーニンの全民衆の武装化の理論をとおして、プロレタリア革命の軍事思想として発展してきたのである。
(以下略)
(本ダ延ヨシ著作セン第2巻 「戦争と革命の基本問題」より)
世界にさきがけたイタリアの交通形態の発展は社会の大きな変革をもたらした。
そうした、カオスのなかに早すぎた天才はロドスを見たに違いない。
ちょっとお猿っぽい?なんて言ったら怒られるかも無礼者って!!

昨日は曇りがちな天気で、夕方には雨が落ちてきたりして、不安定な天気だったのですが、本日は朝からピーカンのお天気。夕方からせっせせっせと雑草取りに励んだのでありました。
梅雨時の降雨は緑をとても鮮やかなものにして、木々がとても艶やかにして、生き生きと美しく見えたりするのですが、雑草も生き生きと大成長をとげるのでありました。
バラは、ぽちぽちと2番花があっちやこっちで咲き続けていますが、これが実にしょぼい、ミニバラみたいなのであります。どうも肥料が切れているのではないかなと思ったりしているのですが、施肥をするにも地植えの株は、完全に雑草に覆い尽くされ株元が見えなくなってしまっている状態で、これを取り除かないとまさに敵に塩をおくることとなるわけで、雑草を取り除くことが急務なのでありました。
かえりしなに、骨粉いりの油かす肥料と草木灰を買ってきました。例年通りなら自家調合でおもいっきり大量生産してストックしておくのですが、今年は忙しくもありいまだ作っていないのでとりあえずの間に合わせということで。
骨粉いりの油かす肥料はNPKが4・6・1なので、Kを強化するためにいつもつかっている草木灰を混ぜることにしました。化学肥料系でいくなら苦土石灰と言う選択肢もあるのですが、酸性土壌を好むバラとしてはちょっとどうかなとおもうところであります。
それと、もう一押しリン酸比率をたかめるために、毎度のお約束の溶性燐肥を混ぜ込んで使おうと思っています。
ここ2〜3日忙しかったのと、不安定な天候から毎日セイレーンの歌声のような雨が降り、ついついそれにあまえて水遣りを怠ってしまい、またやっちまいました水切れ!!!
天晴れな蕾をつけていたセントセシリアは呆れたように頭を下に垂れておりました。
幸い速攻で水につけセーフだったようではありますが、これから夏を越えるまでは水切れご用心なのであります。
ついこのあいだバーク堆肥でマルチングをしたのは水切れ対策だったのですが、どうもコイツが鉢の上を覆っていると乾いているのか、濡れているのかちょっと判別が微妙なのであります。とりあえずはこれで様子をみようと思っているのですが、去年より成長した株ではバーク堆肥のマルチでは役不足のようであれば、必殺水苔マルチいこうとおもってます。
ところで、おかげさまをもちまして、稚拙な当ブログのカウンターも8000を越えることができました。もっと豊かな知性と才能、経験があれば、いや、そのどれか一つでもあれば訪れてくださる方々にもっと豊かなものをお出しできるのですが、根っからの勉強嫌いのお気楽者でありますので、身の丈にみあったものしかお出しできません。
なれど、記事をあげる日も、サボって無しの礫の日も毎日毎日、当ブログへ訪れてくださる方々がおられることを何よりの喜びと、励みに思っております。心よりありがとうございますという気持ちでいっぱいでございます。なにぶん気分屋さんの小ブル自由主義者でございますので、すでに連続物を次々と頓挫させておりますが、それなりに気分がノリましたら書けますので、呆れず懲りず怒らずでぼちぼちお付き合い願えましたらと思っております。これからもよろしくお願いします。m(_ _)m
という感謝の気持ちを込めまして今日はバラを貼らしていただきます。ちょっとしょぼいけど。
ノアゼット系 ブラッシュノアゼット 相原産 これでもかぁっていうほど蕾が上がる。ほんとは摘蕾して株を育てたいのだけれどメンドクサイことこのうえなし、2年目の株。

名花オフェリア オフェリア香といって香りがとてもよいそうだ。「そうだ」というのはその香りゆえ開花まえにコガネムシの餌食となり咲くことはごくまれなのでした。(怒)

イングリッシュローズ アブラハムダービー こちらは地植え、フェンスにつる誘引したもの。ちょっと今年は花つきが悪い。たぶん肥料が不足と思う。

ハイブリッドティーのピース なかなかの大輪に咲いていて調子がいいようにみえるが、実は黒点病で葉が落ち、写真に写った本葉3枚しか残っていない。枯れないでねお願い!!

ハイブリッドティーのパスカリ ハイブリッドティーは開き始めのこれくらいが以外に心地よかったりするのだが、そう思う人はどれくらいいるだろうか??

イングリッシュローズ ウインチェスターキャセドラル うちでは数少ない白バラ。もうすこし白バラを増やしたい願望あり。ただいまあちこちブログを徘徊して物色中。

イングリッシュローズ メアリーローズ ERを世にしらしめた実力はトーマス君とならび本物。ほかの枝代わりともどもとても好き。ちょっと花もちが悪いのがなんではあるんだが四季咲き性抜群だし許してあげよう。とタカビーな物言い。ゴメンネ!

梅雨時の降雨は緑をとても鮮やかなものにして、木々がとても艶やかにして、生き生きと美しく見えたりするのですが、雑草も生き生きと大成長をとげるのでありました。
バラは、ぽちぽちと2番花があっちやこっちで咲き続けていますが、これが実にしょぼい、ミニバラみたいなのであります。どうも肥料が切れているのではないかなと思ったりしているのですが、施肥をするにも地植えの株は、完全に雑草に覆い尽くされ株元が見えなくなってしまっている状態で、これを取り除かないとまさに敵に塩をおくることとなるわけで、雑草を取り除くことが急務なのでありました。
かえりしなに、骨粉いりの油かす肥料と草木灰を買ってきました。例年通りなら自家調合でおもいっきり大量生産してストックしておくのですが、今年は忙しくもありいまだ作っていないのでとりあえずの間に合わせということで。
骨粉いりの油かす肥料はNPKが4・6・1なので、Kを強化するためにいつもつかっている草木灰を混ぜることにしました。化学肥料系でいくなら苦土石灰と言う選択肢もあるのですが、酸性土壌を好むバラとしてはちょっとどうかなとおもうところであります。
それと、もう一押しリン酸比率をたかめるために、毎度のお約束の溶性燐肥を混ぜ込んで使おうと思っています。
ここ2〜3日忙しかったのと、不安定な天候から毎日セイレーンの歌声のような雨が降り、ついついそれにあまえて水遣りを怠ってしまい、またやっちまいました水切れ!!!
天晴れな蕾をつけていたセントセシリアは呆れたように頭を下に垂れておりました。
幸い速攻で水につけセーフだったようではありますが、これから夏を越えるまでは水切れご用心なのであります。
ついこのあいだバーク堆肥でマルチングをしたのは水切れ対策だったのですが、どうもコイツが鉢の上を覆っていると乾いているのか、濡れているのかちょっと判別が微妙なのであります。とりあえずはこれで様子をみようと思っているのですが、去年より成長した株ではバーク堆肥のマルチでは役不足のようであれば、必殺水苔マルチいこうとおもってます。
ところで、おかげさまをもちまして、稚拙な当ブログのカウンターも8000を越えることができました。もっと豊かな知性と才能、経験があれば、いや、そのどれか一つでもあれば訪れてくださる方々にもっと豊かなものをお出しできるのですが、根っからの勉強嫌いのお気楽者でありますので、身の丈にみあったものしかお出しできません。
なれど、記事をあげる日も、サボって無しの礫の日も毎日毎日、当ブログへ訪れてくださる方々がおられることを何よりの喜びと、励みに思っております。心よりありがとうございますという気持ちでいっぱいでございます。なにぶん気分屋さんの小ブル自由主義者でございますので、すでに連続物を次々と頓挫させておりますが、それなりに気分がノリましたら書けますので、呆れず懲りず怒らずでぼちぼちお付き合い願えましたらと思っております。これからもよろしくお願いします。m(_ _)m
という感謝の気持ちを込めまして今日はバラを貼らしていただきます。ちょっとしょぼいけど。
ノアゼット系 ブラッシュノアゼット 相原産 これでもかぁっていうほど蕾が上がる。ほんとは摘蕾して株を育てたいのだけれどメンドクサイことこのうえなし、2年目の株。

名花オフェリア オフェリア香といって香りがとてもよいそうだ。「そうだ」というのはその香りゆえ開花まえにコガネムシの餌食となり咲くことはごくまれなのでした。(怒)

イングリッシュローズ アブラハムダービー こちらは地植え、フェンスにつる誘引したもの。ちょっと今年は花つきが悪い。たぶん肥料が不足と思う。

ハイブリッドティーのピース なかなかの大輪に咲いていて調子がいいようにみえるが、実は黒点病で葉が落ち、写真に写った本葉3枚しか残っていない。枯れないでねお願い!!

ハイブリッドティーのパスカリ ハイブリッドティーは開き始めのこれくらいが以外に心地よかったりするのだが、そう思う人はどれくらいいるだろうか??

イングリッシュローズ ウインチェスターキャセドラル うちでは数少ない白バラ。もうすこし白バラを増やしたい願望あり。ただいまあちこちブログを徘徊して物色中。

イングリッシュローズ メアリーローズ ERを世にしらしめた実力はトーマス君とならび本物。ほかの枝代わりともどもとても好き。ちょっと花もちが悪いのがなんではあるんだが四季咲き性抜群だし許してあげよう。とタカビーな物言い。ゴメンネ!



