たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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老いやすく学成りがたし
肩こり指数☆☆☆


群馬県藤岡のジャンクションでおきたバス事故は、JR西日本福知山線脱線事故を彷彿させる大きな衝撃だった。

亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。その後の報道でつぎつぎと明らかにされた驚愕の事実、悲しいかな、ハイリスク&ハイリターンは博打のような投機的証券市場だけのことではなく、いまやこの社会全体を支配しそうな勢いだ。それどころか、ハイリスク&スタンダードにすらなりつつある。

国家の経済活動への一定の介入であるさまざまな規制は、一面では今回のような惨事を教訓として積み上げられてきたものだといえる。これら規制の撤廃を声高に叫ぶ”新自由主義”の行き着く先をこの事故でまざまざと見せつけられた気がした。
とはいえ、そうした主義がそういう事態をみちびいたのではなく、資本主義の必然的帰結として登場してきたのであるが。そこここそが問題なのだ

さて、この間のお休みで、ぼちぼちだがお勉強していたものの一つが経済学だ。すっかり目と頭が悪くなってしまい遅々として進まないのがはがゆくもあるのだが、今を認識し、未来を予測するにはこれしかない。新自由主義の奥底も、デフレスパイラルの行き着く先も・・・

幸い、高価な専門書を買わなくても(どうしても買わねばならないことも多いが)、ググれば結構お宝が手に入る。金融・証券の世界の話は、素人投資家ウエルカムのご時世にあって情報にあふれている。利子生み資本の認識をふかめるにテクストは豊富だ。

ここのところずっと向かい合っているのが国債だ。やはり、これが帝国主義の危機のメルクとなるだろう。いまから30年くらい前のとおいとおいむかし、飯田橋で首都圏の○学童をあつめて島崎氏が「国債と日帝の危機」をテーマに講演をしたときにそういっていたようにおもう。

資本主義は自由主義段階では周期的な恐慌で資本主義はリフレッシュする。だが、帝国主義段階では国家が財政的な梃子入れをおこない恐慌を回避する。財政的な梃子入れの主力は国債であって、国債は積もり積もって巨大な財政赤字をもたらす。危機は財政赤字という形で蓄積される。蓄積された財政赤字がやがて国家信用を大きく揺るがしたとき、国債は大暴落し、金融資本は崩壊する。

てなことにならないように、税収をアップして、神の国ニポーンの国債は安全です、国の支払い能力はあります。ということにならないといけないので、野田はしゃにむに消費税アップにアップアップなのだろう。

と、以上のことはイデーなので、現実の経済動向から数字をおって精査してゆける力が必要だとおもうのだ。ちなみに、巨大な財政赤字は無駄をなくしての緊縮財政などで解決はない。それほどその額は膨大だ。いま、ギリシャ人民が直面している「緊縮政策」という困難は、単なる行政サービスの低下のレベルではなく、あからままな大増税=強収奪以外のなにものでもない。もし、ケルンが存在するなら、ストレートに革命に転化する情勢である。もしそうなれば、それはたちまちEU全土にとびひするだろう。

こんかいのギリシャが抱えた膨大な対外債務や、我が神の国ニポーンが抱える膨大な財政赤字を最終的に突破するものは、革命ロシアのような革命的踏み倒しか、大日本帝国のように侵略戦争にうってでて経済圏を拡大するしかない。

と、これもイデなので、経済的危機を政治的にどう突破してゆくのか、その具体的プロセスを歴史のなかから学びたいなと思っている。だれか、いい参考文献がありましたら教えてくださいませ。<(_ _)>


をはり
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「報道の品格」
肩こり指数 ★☆☆

ブログワールド、特に政治系となると”出会い頭の事故”を避ける必要が感じられることがままある。
かくいう私もまた、そんな一時停止を守らない暴走車のたぐい、否、武装した装甲車に近いだろうか。

とはいえ、政治の要諦のひとつは、より多くの同意を獲得し、一つの意志に纏め上げられるかというプロセスであるわけで、バーチャルではあってもパブリックな時空間を共有しているブログワールドで、どん引きものの言説や言論姿勢では支持をえられないことはいうまでもない。それは、未熟者の私でもいつも頭の片隅に必ず置いている。はじけ飛んでしまうこともあるが。白旗を揚げる必要はないが、潔く引くことも大事だし、時にじっとがまんで”スルー”せねばならないこともある。

そんな”出会い頭”の予感からちょっとコメントを控えていた愚樵さまのところへ、新年のごあいさつということで久々にコメントを入れさせていただいた。ちょっと話の腰を折るような書き方がいやらしかったかなと、しばし反省。年末から年明けにかけて”お仕事の考察”記事がつづいているので、たいへん興味深く読ませていただいていた。

最新の記事は「キメラな労働観」。そのなかで品格の低い記事として引用されていた、サンケイ君の記事。

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“ごね得”許した「派遣村の品格」 費用は6千万円大幅超の見込み

 「不平を言えば融通が利く。みんな“ごね得”だと気付いている」。4日閉所した東京都の「公設派遣村」を出た男性(34)は“村”での生活をこう皮肉った。派遣村では開所以来、行政側と入所者の衝突が絶え間なく続いた。職員の口のきき方への不満に始まり、昼食代の現金支給を求める入所者…。当初、目的だったはずの就職相談は不調に終わり、職員は最後まで入所者への対応に右往左往した。

就労相談わずか1割

 都は3日夜、この日退所した833人のうち住居を見つけられなかった685人のため、4日以降の新たな宿泊先に400人分のカプセルホテルを用意。残りの入所者には、都の臨時宿泊施設を割り振ることを決めた。

 だが、いざこざはここでも起きた。入所者の1人は冷笑を浮かべて言う。

 「その夜も『なぜ全員がホテルに入れないのか』と騒いだら泊まれることになった」

 入所者の抗議と厚労省などの後押しで、都は決定を覆す。抗議の数時間後にはカプセルホテルを追加で借り上げた。「騒ぎが大きくなったので…」と職員は言葉少なに語るのみだ。

この1週間で本来の目的の就労・住宅相談に訪れた入所者はわずか1割。「正月休みに相談しても仕方ない。派遣村では一時金がもらえるとのうわさもあった。それ目当てで入った人も多い」との声も漏れた。

一方で、自力で社会復帰への第一歩を踏み出した入所者も。退所を選んだ男性(67)は「入所中に友人の会社に就職が決まり、社宅に住めることになった。年末年始に泊めてもらって感謝している。食事もおいしかった」と語った。

 だが、この男性のように新たな職や住居が決まったのは少数だ。利用者数は当初の想定を超え、約6000万円と考えられていた費用も大幅に膨らむ見込み。費用はすべて国の負担で、都の幹部は「結局、政治のため」とぼやいた。

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実は私もこの悪意に満ちたこの記事をみて、憤りを感じ何か書こうかと思っていたのだ。おもわず一言二言いわずにおれないというやつだ。ところが、うかつにもどこのサイトで見たのか思い出せず、毎度のことながらまぁいっか、あとにしようと思っていたところだった。見つけた以上は黙ってはいられない。

そもそも、いぜん「産業予備軍」http://kangun.blog123.fc2.com/blog-entry-200.htmlという記事で書いた事なのだが、資本主義という生産様式は、生産手段と労働力の分離を前提に、資本の自己増殖を目的として、無秩序無政府的に、社会が存続のために必要とする物資の生産を、私的におこなうことを特徴としている。生産はたえず膨張と縮小をくりかえすので、それに対応する”労働力のプール”としての「産業予備軍」はこの生産様式が成立するための必須の条件なのである。

それは、いいかえれば、だれもがもれなく働く事を許さない社会だということができる。完全雇用などはなっから原理的にありえないのだ。しかし、生産手段から切り離され、原則として労働力を商品として売るより生きるための糧をえることができない者たちが、売れ残りとなったとき、いったいどうしたらいいというのだ。
出来過ぎた農産物は生産調整のもとブルトーザーで押しつぶされ破棄される。過剰生産の工業製品は在庫として倉庫にうずたかく積み上げられる。
だが、労働力という商品は血の通った”命”だ。日々「衣食住」がなければ失われてしまう”命”なのだ。

私はサンケイ君に欠落していることは、あるいは意図的に悪意をもって隠蔽しようとしているのか、はたまた階級的憎悪か、そうした社会的関係性を捨象して、まいおなじみの個々人の「自己責任論」を持ち出していることだろうとおもう。

彼らはどこかで家に暮らし、何らかの仕事をしていままで生きてきたのだ。社会を支えあう一人だったはずだ。
彼らの労働が不十分でこのたびの「100年に一度の経済危機」やってきたのではないことなどだれでもわかること、彼らが一生懸命働かなかったのでリーマンショックがもたらされたという人はいないだろう。
そもそも、個々人の労働能力がデフォで備わっているのではない。それぞれ個別具体的な精神と身体的能力に生活環境に規定された社会的リソースを利用し労働能力は形成される。個々人は社会にその能力を還元し、社会は個々人を構成員として尊重する。それがあるべき本来の社会のありかただとおもう。

派遣切りで仕事と住まいを失った方々に「ごね得」と罵声をあびせかけるサンケイ君に「報道」の社会性などは一片も感じ取ることはできない。まさに、「報道の品格」をあらためて問わざるおえない。かくのごとき記事を書いたものは、いちど派遣切り密着取材と銘打って雪舞う寒空のもと彼らと寝起きをともにしてみれば、多少はロドスがみえるかもしれない。もしそれでもわからないのなら、社会から捨てられた棄民は必ず大きなうねりとなって社会へ再登場するだろう。そうして社会は進歩してきたし、歴史はそうしてつくられてきた。


捨て猫だったうりちゃん 春が来れば10歳 去年の秋から具合が悪い 
膝の上に上がりたがる 残された時はあとわずかかもしれない
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磨ぎ澄まされた白刃
肩こり指数 ★★☆

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ところで物理的諸力に関するいわゆる規則なるものの建前から言っても、戦争指導の理論が精神的量を理論の限界外に追放することは許されない、物理的諸力の効果は精神的諸力の効果と完全に融け合っているので、科学的手続きによって合金を分析するのとは異なり、両者を分離するわけにいかないからである。物理的諸力に関するどんな規則をとりあげてみても、理論はそこに精神的量の関与している事実を認めざるを得ないだろう。もし理論が、自説を一方的に主張する断定的命題の定立を能事とすべきでなければ、理論における精神的量の時分を無視してはならない。

かかる命題は、小心翼々として他説を憚る偏狭なものであるか、さもなければ何もかも自説の中に引き込もうとする僭越でとりとめのないものであるか、二者のうちのいずれかであろう。実際には、精神をまったく度外視した理論といえども、知らぬ間に自説の限界を越えてかかる精神的領域に立ち入らざるを得なかったのである。例えば、いかなる勝利でも、それから生じる精神的効果を考慮に入れない限り、とうてい説明せられえるものではないからである。それだから本編において論究する大方の問題は、物理的原因および結果と、精神的原因および結果との相半ばする組み合わせである。

或いはまたこう言ってもよい。― 刀剣に譬えれば、物理的原因および結果は木製の柄であり、精神的原因および結果は精鋼から成る刀身であり、磨ぎ澄まされた白刃である、と。

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いきなり難解な引用は毎度おなじみのクラウゼヴィッツの「戦争論」より「第三編 戦略一般について 第三章精神的量」からの引用である。

ちょうど一月ほどまえ、お玉ブログでちょいマジで論を張った。私はあちらでは原則、討論を想定していないので慎重さを欠いた行為であったし、本来獲得すべきレベルの人格を相手に、辛辣な言葉を安易にもちいたことは一定真摯な反省に値すると率直謝罪したことは、5月31日の記事のとおりである。
さて、お玉ブログでの当該の記事より私が戦略的撤退をしたのち、すでに50間近のコメントは収束するものと踏んでいたのだが、突如として降臨したスターリンの亡霊にいっきに盛り上がった。スターリン氏VSキンピーさんの激突は互いの拳が空をきるばかりとはいえ、なかなかみごたえはあった。

噂には聞いたが、こんな混じりっけ無しの真性ミリヲタは初めてみた。その思考はものの見事に、まるで絵に描いたような疎外された暴力論そのものであるが、私にとっては、向学のために真逆な意味で大変に参考になった。スターリン氏のように「主義」として体系化されずとも、帝国主義足下で暴力から疎外されて日々を生きる我々は常にそうした観念に支配されているものであり、であればこそ、強いヒーロー仮面ライダーに感動し、4km先の的に走行しながら正確無比にヒットさせるM1A2に魅了されたりする。庶民のうちに秘められた暴力を封印する分厚い綴じ蓋をぶち破る”言葉”を、一番強いのは自らの力を自覚した広汎な人民の組織された暴力であり、そうしたものとして暴力の本質はあるのだということをだれにも分かるように平易に語れねばならないだろう。

アッテンさんをミクシで論破ったといって登場したスターリン氏の想定している戦争は、どうも端的にはただいま上映中のターミネーター4に登場の”スカイネット”で完成するようである。キンピーさんは”北斗の拳ワールド”と表現したがおおよそ酷く現実から遊離した、ヴィッツ大先生の有名な言葉「戦争は政治と異なる手段をもってする政治の継続である」というロゴスとは無縁な、機械的に両者を切断したところでの空想「軍事」主義に陥っているといえよう。そこには、軍事に先んじて政治が設定する”現実的”な目的の一片も垣間見ることができない。

たとえば、こんにち私たちが生きている現代社会においては、資本主義の帝国主義段階という歴史性に規定され、第一に世界的規模での資源と市場、領土の争奪をかけて国境線をひきかえるため、第二に過剰な基幹産業の固定資本を破壊更新する帝国主義的世界大戦は不可避な社会現象であると我々は認識しているのであるが、そうした帝国主義的侵略戦争は、第一の目的を逸脱するものではない。ただし、核との関連で言えば戦争で核が使用される可能性を完全に否定するものではないし、核が通常兵器と大きく一線を画す放射能の問題は、帝国主義者どもにとっては平気の平助であることはイラクやアフガニスタンでの劣化ウラン弾の使用が深刻な人間破壊を引き起こし続けている現状に鑑みてあきらかである。疎外された暴力の権化としての核は、帝国主義者にとって帝国主義軍隊自壊の恐怖と不信が生み出したものという話はとりあえずは、またのちの機会にということにしておこう。

政治は目的を決め、軍事はそれを達成する。そのための手段(武器)は目的が規定する。故本多書記長は「暴力の復権のために」のなかのたとえで「ストライキを弾圧するのに核はつかわない」と少々おおげさな例えをかいておられるが、戦争に限らず日常的にも、見上げるとたわわに実った柿をとるのに、スプリングフィールドM14狙撃銃を装備することがはなはだ滑稽であることはいうまでもなく、竹竿一本で十分なのである。こと力の行使である軍事に関しては、その目的そのものをぶち壊すような武器の選択はありえないということはいっそう真理なのだ。

クラウゼヴィッツ「戦争論」の凄さは、戦争における精神諸力に適切なポジションを与えたことであると思う。そして、国家と戦争との内的関連を精密に考察したこと。さらに故本多書記長は「戦争と革命の基本問題」のなかで、クラウゼヴィッツの考察をさらにおしすすめ、国家それ自体が内部にはらむ階級的分裂から再構成し、戦争と革命の区別と連関を解き明かしている。軍事は人がなすものである以上、そこから論じられるべきものである。武器を”ARM”と表現するのは武器はどれほど発展しても、所詮は”腕”の延長でしかないということをあらわしている。人を危めることは鋼のような思想的確信がなくてはならない。武器は勝つためとは別に、脆弱な思想性しか与えられない帝国主義軍隊の心の葛藤を逓減すべく発展してきたという側面をもっているのである。

武器のみで戦争を語るべきではない。「刀剣に譬えれば、物理的原因および結果は木製の柄であり、精神的原因および結果は精鋼から成る刀身であり、磨ぎ澄まされた白刃である」


次回「防御と攻撃の不均衡と補給」というお題で 不定期につづく(たぶん)



NKさまの言葉
肩こり指数★★☆

今年の冬は暖冬で雪もほとんどふることもなく、あっというまに過ぎ去った。とりわけ、当家が直面した危機はそんな時の流れに拍車をかけた。なにかお金と仕事に追いたてられているあいだに、気がついたら5月になろうとしている。明日は働く者の祭典、メーデーだ。今年はいっちょどんな案配か、近しいところへ足をはこんでみようかとおもっている。

さて、協賛趣味者ご必見の「隔離論争掲示板」をひと月ぶりにじっくりと読ませていただいた。一時、減益氏などが板をにぎわせていたりして、見るに堪えないものがあったのだが、いつも、様々な思いをいだきつつ、発言者の一言一句をかみしめるようによませていただいている。

最近は、当ブログでも機会あるごとに生で、というか、できるだけ生で、その発言を掲載させていただいているNKさまが、よく登場されておられるようだ。

今回も、たいへん胸を打つすばらしい書き込みをしておられたので、先にあげた、「ストライキについて」との関連として、またまた、誠に勝手ながら、掲載させていただこうとおもう。お題は「派遣村の衝撃」、そして、もうひとつは「反面教師として」、最後に「レーニン主義と動労千葉」。今日は「派遣村の衝撃」の全文と「反面教師として」の一部をあげさせていただこうとおもう。「反面教師として」は革共同中央派への批判として書かれたものなのであるが、それ自体それゆえにコアな内容を含んでおり、党の一連の流れを知るものでないと理解が難しいと私は考えている。それゆえ、抜粋させていただこうとおもう。すみませんm(_ _)m。

「派遣村の衝撃」は氏がこの闘いを、単なる救済事業ではなく、政治闘争、実力闘争であったと看破しているものである。

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派遣村の衝撃 投稿者:NK 投稿日:2009年 3月 8日(日)01時32分10秒
 
いわゆる「年越し派遣村」の闘いは、人間の生死がかかる切迫した事態のなかで、これが単なる救済事業などではなく、公園使用や政府建物の解放といった、極めて具体的な要求を中央政府に対して行い、緊急避難とはいえこれを実現した意義は軽視すべきではないと思います。
日比谷公園に集まった500名の解雇者と千人以上のボランティアの、後には引けないという圧力、さらにその外側には、マスコミを通じてこの事態を知った人民の怒りが、社民党や民主党に動くことを余儀なくさせ、政府は譲歩せざるを得なかったのではないか。これは今までのやり方とは違うにしても、必死の闘い(そこに行く事で数日の命がつなげると言う)が、いわば一種の実力闘争の様相を呈したのであり、国家権力といえどもこれに屈せざるを得なかった。労働者にとっては自分が無力な存在ではない事を実感し、同じような闘いをあとにつづく人たちに残したと言えるでしょう。
山谷や釜ヶ崎の労働者や支援の闘いが、巨大な規模で巻き起こるかも知れないという恐怖を支配階級に与えたことは、あとで彼らのいわれの無い非難となってあらわれていると言えるでしょう。

また昨日まで一緒に働いてきた仲間を、自分たちが助かるために後ろめたい気持ちで見送った、正規雇用労働者はそれが何を意味するかを知ることになった。それだから、非正規労働者を見捨てることは、自分たちもまた職場から追われる道をはききよめる事だと気づくまで、そう時間はかからないでしょう。派遣切りの3月危機と1年遅れの春闘要求は、確実に労働者階級と資本および支配階級との来るべき激突の予行演習となるでしょう。連合、全労連は言うに及ばず政府国家権力といえどもこれを押しとどめることはでないし、革命的勢力が存在しないにしても、階級闘争は本来の非和解的姿を取り戻すことになるでしょう。


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「反面教師として」は、つながりの悪い拙い私の抜粋で、申し訳ない気持ちでいっぱいなのだが、冒頭、日本の労働運動の特殊な形態にふれ、その後、労働運動への共産主義者の関わり方、政治闘争の意義、共産主義者は護民官と話は展開される。
それは、レーニンが「ストライキについて」述べた社会主義者の役割そのものである。

年明けから凹みに凹んでいた気持ちに思いっきり空気をいれてくれた文章だった。


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反面教師として 投稿者:NK 投稿日:2009年 3月20日(金)03時31分42秒

(前略)

日本の労働運動は、かつてのスターリン主義の影響の下に、動員の割り当てにしろ、上部の下部に対する支配の傾向が強い。また同一労働同一賃金の原則が全く無視(同じ職種の労働をしている派遣と正社員の賃金が違うなど、日本でしか見られない異常を当然視)されているなど特殊な形態をもって、いわば民同型ともいうべき形で労働者支配の一翼を担ってきたが、それは産業別労働組合の解体をとおして企業内組合という日本的労働者支配の形態をもたらした。

(中略)

どのような労働組合であろうとその中に留まって活動することを追求し、それらの成員は権力から秘匿されなければならない。このことは逆に共産主義者が労働者によって庇護されることによって可能になるだろう。
つぎに、政治的要求こそが、職種、上下関係に基づく分断に影響されず、広範な労働者を結びつけるであろうし、また労働者以外の大衆や良心的人士との結合をも実現することになるだろう。労働者の階級的自覚は、狭い経済的利害を共にする個別労働組合的形態から出発し、同じ産業の労働者の共通した利害によって企業的利害を捨て、政党、大衆団体のもとでの闘いに加わることによって、さらに多くの勤労所階級の利害と結びつく。さらに進んで、被抑圧民族、国内の被抑圧人民との接触と彼らの闘いに触れることをとおして、彼らの尊厳が自分のそれと同じ重さを持つものであることを自覚し、自らの置かれている抑圧的立場から抜け出し、共に新しい人間として生まれ変わることができると言う確信も生まれてくる。同時に非暴力的政治闘争から帝国主義国家権力に対する組織された暴力的闘争に進むことにを通して分断された人民を一つの共通利害にまとめ、プロレタリア独裁(全人民の武装と暴力の回復)実現という労働者の階級意識の歩みのひとつの到達点にいたる。
共産主義者は、この過程を常に労働者人民の傍らから離れること無しに共に歩み、彼らの手足となり耳となって助けなければならない。共産主義者とその党は労働者階級の究極的利害即ち、共産主義社会の実現による全人民の解放という目的のために組織された、いわば労働者階級の道具のひとつであって、指導者と言えども、これを実際にやりとげる多くの人々の一人としての存在以上ではない。そのために、今何が起きているのか、それは何を齎すのか、なぜそれが起きるのか、これから何が起き、何をすべきか、と言う問いに答えられる必要があり、極めて実践的なものとして指し示す能力を獲得しなければならない。またできうる限り将来にわたる見通しと実現すべき目標の設計図を用意し、日々それを精緻なものとする必要がある。

本多書記長はかつて、生死を共にする同志が二桁に上ると語ったが、実際はそうはならなかった。今は多くが変節した。それに対してボリビアの山中では、チェ・ゲバラの下に、キューバ共産党の中央委員あるいは次官の地位を捨てて確実に死ぬかも知れぬ、また達成の不確かな目的のために18名が集まった。彼らはそのほとんどが実際に、山麓で峡谷で死んでいった。またフランス人として生まれたフランツファノンはアルジェリア人として其処の土なった。私は彼らが羨ましい。目的の為にその生を貫けることは、人間のもっとも人間らしい生き方であるし、もっと羨ましいのは、おびただしい数の無名の戦士のひとりとして生きかつ死ぬことができたからだ。共産主義者とその党は、このような人たちで形作られなければならない。

(以下略)


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著者の意を十分に伝えることのできぬ、勝手な切り貼り掲載につき、ご指摘いただけましたら、速攻削除、謝罪させていただく所存であります。m(_ _)m よろしくお願いします。





ストライキについて 続
肩こり指数★★☆

まったくやる気のないブロガーにて、毎度毎度、企画倒ればかりなのであるが、放置すること一月オーバーは、やんごとなき事情があったにせよ恥ずかしい限りである。
とはいえ再開を決めた以上はその連続性を維持するためにもまずはここからはじめねばなるまい。そんなわけで、「ストライキについて」の続きをあげさせていただきます。

メーデーも近いこの時期でもあるし、ストライキという労働者の闘争形態のもつ意義とそれ自体の限界、目的と勝利への展望をきりひらく条件を再確認する意義は今日的にみても無駄なことではないかと。ひさびさにコメントをよせてくださった元々中核派さんが、どこぞの図書館で、ほしい人は持っていってくださいと書かれたBOXのなかに、うち捨てられるようにレーニン全集があったと、某掲示板で書いておられた。そんなご時世にあって、タモツン糖酒のようにデジタルアーカイブをつくろうなどという、桁はずれのパトスはもちあわせていない私ではあるのだけれど。

前回に引き続き全集のなかでは10ページほどの小論文なのだが、ブログへの掲載となると結構なボリュームなので、うだうだ私の稚拙なコメントを書き連ねてはいたずらに長文になり、読んでくださる方々のやる気に水をさすこととなっては、本意ではないのでいきまする。


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ストライキが、ストライキ参加者にも、また隣近所の工場や同じ産業部門に属するいろいろの工場の労働者にも、どんなに巨大な影響を与えるかを、考えてみたまえ。普通の平穏なときには、労働者はだまって自分の苦役を耐えしのんでおり、雇主にさからいもせず、自分たちの状態についていろいろと議論することもない。ストライキのときには、労働者は声をたかくその要求を表明し、雇主に彼らの圧迫のすべてをおもいださせ、自分の権利を主張し、自分ひとりのことや自分の給料のことだけを考えないで、自分といっしょに作業を放棄し艱難(かんなん)をおそれずに労働者の事業をまもっている同僚たち全部のことも考える。あらゆるストライキは、労働者に多くの艱難をもたらす。しかしそれは、戦争の惨苦とにだけ比較できるような恐ろしい艱難― 家族は飢え、賃金は取れず、しばしば逮捕され、自分の職をもっている住みなれた町からは追放される― である。そして、これらすべての惨苦にもかかわらず、労働者は、同僚全体にそむいて雇主と取引するものを軽蔑する。ストライキの惨苦にもかかわらず、近隣の工場の労働者は、自分たちの同僚が闘争をはじめたのをみると、いつも士気の高まりを感じる。「ただひとりのブルジョアを屈服させるためにもこれほどの艱難に耐える人々は、また全ブルジョアジーの力をもうちくだくことができるであろう。」〔『イギリスの労働者階級の状態』、補2,三三八ページ〕と、社会主義の偉大な教師の一人エンゲルスは、イギリス労働者のストライキについてかたった。一つの工場で罷業がおこりさえすれば、たちまち非常に多数の工場で一連のストライキがはじまるというばあいが、しばしばおこる。ストライキの精神的影響力はそれほど偉大であり、一時的にもせよ奴隷たることをやめて金持ちと平等の権利をもった人間となっている自分の同僚たちの姿は、それほど労働者に伝染的に作用するのだ!あらゆるストライキは、巨大な力で労働者を社会主義の思想に―資本の圧制から自分自身を解放するための全労働者階級の闘争という思想に導く。なにかある工場または産業部門、なにかある都市の労働者が、大きなストライキがおこるまでは、社会主義のことなどほとんど知らず、考えてみたこともなかったのに、ストライキのあとでは、彼らのあいだにサークルや組合がどんどん普及し、ますます多くの労働者が社会主義者になるというばあいが、ごくしばしばあった。

ストライキは、雇い主の力はなににあり労働者の力はなににあるかを理解することを、労働者におしえる。ただ自分の雇い主のことだけ、自分の身近な同僚のことだけを考えるのでなく、すべての雇い主のこと、資本家階級全体と労働者階級全体とのことを考えることを、おしえる。幾世代の労働者の労働によって幾百万金をもうけた工場主が、ごくひかえめな賃金の増額にも同意せず、あるいは、賃金をもっと引き下げようとさえ試み、労働者が反抗すると幾千の飢えた家族を鋪道にほうりだすとき、―そのとき労働者は、資本家階級全体が労働者階級全体の敵であり、労働者がたよりにできるのはただ自分と自分たちの団結だけであることを、はっきりとさとるのである。非常によくあることだが、工場主は、なにかつまらない施し物、なにかうそっぱちの約束で労働者をごまかし、彼らの恩人のように自分を見せかけ、労働者にたいする自分の搾取をおおいかくそうとして、全力をつくす。あらゆるストライキは、労働者に、彼らの「恩人」が羊の皮をかぶった狼だということをしめすことにより、この欺瞞の全体を一撃のもとにうちこわすのがつねである。

しかし、ストライキは、資本家にたいして労働者の目をひらかせるだけでなく、政府にたいしても、法律にたいしても、同様に労働者の目をひらかせる。工場主が自分を労働者の恩人のようにみせかけようとつとめるのとちょうど同じように、役人とそのとりまきどもは、ツァーリ政府が、工場主のことも労働者のことも公平に一視同仁に心をくばっているのだと、労働者に信じ込ませようと努力している。労働者は法律などは知らないし、役人、とくに高級役人とは交渉がないので、しばしばこういうことをすっかり信じてしまう。だが、そこへストライキがおこったとする。工場には、検事や、工場監督官や、警官隊や、しばしば軍隊までが現れる。労働者は、自分たちが法律に違反したのだということを知らされる。法律は、工場主には、集会をもつことも、どうして労働者の賃金を引き下げるかについて公然と論じることも、みとめているが、労働者が共同で申し合わせをすれば、犯罪人だと宣告される!労働者はその住宅から追いたてられ、警察は労働者が品物を掛けでで買える小店を閉鎖し、労働者がまったくしずかに、おだやかにしているときにさえ、兵士を労働者にけしかけようとつとめる。兵士には、労働者を射撃せよ、という命令さえあたえられる。そして、兵士が、逃げていくものをうしろから射撃して素手の労働者をころせば、ツァーリ自身が軍隊に感謝をおくる(こういうふうにツァーリは、一八九五年にヤロスラヴィリで罷業労働者をころした兵士に感謝した)。ツァーリ政府は、資本家をまもり労働者の手足をしばるもっとも兇悪な労働者の敵だということが、すべての労働者に明瞭となる。法律はただ金持ちの利益のためだけに出されていること、役人も金持ちの利益だけをまもっていること、働く人民は口をふさがれ、自分の必要とするものについて述べる可能性をあたえられていないこと、労働者階級は、ストライキの権利、労働者新聞を発行する権利、法律の発布やその履行の監督にあたるべき人民代表機関に参加する権利を、どうしてもかちとらなければならないということを、労働者は理解し始める。また、政府自身も、ストライキをあれほどおそれ、なんとしてでもできるだけはやくストライキを消し止めるよう努力するのである。社会主義者と自覚した労働者を全力をあげて迫害したことでとくに名を売ったドイツの内務大臣が、かつて国民代表をまえにして、「あらゆるストライキの陰から革命のヒドラ(怪物)が顔をだす」と述べたのも、むりからぬことである。政府は労働者の敵である。労働者階級は人民の権利のために政府との闘争に備えなければならない、という意識が、ストライキのたびに労働者の内心につよまり発達していく。

こうして、ストライキは労働者を団結に慣れさせる。ストライキは、労働者が共同してこそはじめて資本家にたいする闘争をおこなうことができるということを、労働者にしめしてくれる。ストライキは工場主の全階級と専権的・警察的政府とにたいする全労働者階級の闘争について考えることを、労働者におしえる。それだからこそ、社会主義者はストライキを「戦争の学校」と呼ぶのである。それは、労働者が、役人の圧政と資本の圧政とから全人民と全勤労者を解放するために自分たちの敵に対する戦争を行う道を学ぶ学校である。

しかし、「戦争の学校」はまだ戦争そのものではない。労働者のあいだにストライキがひろく普及すると、一部の労働者は(一部の社会主義者も)つぎのように考えはじめる。労働者階級はだだストライキとストライキ基金あるいはストライキ団体とだけにとどめてよい、ストライキだけを手段として労働者階級は、自分たちの状態の真剣な改善や自分たちの解放さえも、かちとることができる、と。労働者の団結や、彼らの小さなストライキでさえもが、どれほど大きなちからであるかをみて、一部のものはこう考える。労働者が全国にわたってゼネラル・ストライキを組織さえすれば、資本家と政府から自分たちのほしいものをみなかちとることができる、と。労働運動がはじまりかけたばかりで、労働者がまだ非常に未経験であったころは、他の国々でも労働者はこういう意見を表明したものである。”しかし、この意見はまちがっている”(原文ではルビで強調)。ストライキは、労働者階級の事故解放のための闘争手段の”一つに”(原文ではルビで強調)すぎないのであって、唯一の手段ではなく、もし労働者が他の闘争手段に注意を向けないなら、彼らはそれによって労働者階級の成長と成功をおくらせてしまうだろう。実際ストライキが成功するには、ストライキのあいだの労働者の生活を維持するための基金が必要である。こうした基金組合をもまた労働者は(ふつう個々の業種、個々の職種または同職の労働者で)、すべての国で組織している。しかし、わがロシアは、警察がそれをさぐりだして金を没収し、労働者を逮捕してしまうので、これはとくに困難である。もちろん、労働者は警察からかくれるすべも知っている。こういう基金組合をもうけることは、もちろん有益だし、われわれも労働者がそういうことにたずさわるのを止めようとはおもわない。しかし、法律が労働者の基金組合を禁止している状態では、それが多数の加入者を引きつけうると期待するわけにはいかない。だが、加入者数がすくなければ、労働者基金組合はたいした利益をもたらさないであろう。それからまた、労働組合が自由に存在していて、組合が巨額の基金をもっている国でさえ、労働者階級は、彼らの闘争をストライキだけにがぎることはけっしてできない。産業経営に行きづまり(たとえばロシアでもいま近づきつつある恐慌)がおこりさえすれば、工場主は、わざとストライキをひきおこすことさえある。ときには一時操業を中止するほうが工場主に有利となり、また労働者基金を破綻させるのが彼らに有利だからである。だから、労働者はけっしてストライキとストライキ団体だけにかぎるわけにいかない。第二にストライキは、労働者がすでにかなりの意識をもっていて、ストライキの時機をえらぶことを知っており、要求をかかげることを知っており、リーフレットや小冊子を手に入れるために社会主義者との結びつきをもっているところでだけ、成功をもって行われる。だがそういう労働者はロシアにはまだすくない。そこで、そういう労働者の数をふやし、労働者大衆に労働者の事業を知らせ、社会主義と労働者の闘争とを彼らに知らせることに、全力を向ける必要がある。この任務は、社会主義者と自覚した労働者とがいっしょになって引きうけなければならないものであって、そのために社会主義的な労働者党をつくらなければならない。第三に、ストライキは、まえにみてきたように、政府が労働者の敵であり、政府と闘争しなければならないことを、労働者にしめしてくれる。そして、すべての国で実際にストライキは、労働者の権利と全人民の権利のために政府と闘争することを、しだいに労働者階級におしえた。こうした闘争を行うことができるのは、すでにいま述べたように、政府と労働者の事業とについての正しい考えを労働者のあいだにひろめる社会主義的労働者党だけである。わがロシアでストライキがどういうふうにおこなわれているか、また自覚した労働者はストライキをどう利用すべきか、ということについては、こんどまた別個に述べることにする。いまわれわれは、ストライキが、すでにまえのほうで注意しておいたように、「戦争の学校」であるが戦争そのものではないということ、ストライキは闘争の一手段にすぎず、労働運動の一形態にすぎないことを、指摘しておかなければならない。労働者は、個々のストライキから、全勤労者の解放をめざす全労働者階級の闘争にうつることができるし、うつらなければならないし、また、すべての国で実際にうつっている。すべての自覚した労働者が社会主義者に、すなわち、そうした解放をめざして努力する人になるとき、彼らが、労働者のあいだに社会主義をひろめ、労働者に労働者の敵にたいする闘争のあらゆる手段をおしえるために、たがいに全国的に団結するとき、彼らが、政府の圧政から全人民を解放し、資本の圧政から全勤労者を解放するためにたたかう社会主義的労働者党をつくるとき、―そのときはじめて労働者階級は、すべての労働者を統合し「万国のプロレタリア、団結せよ!」としるされた赤旗をかかげる、万国の労働者のあの偉大な運動に完全にくわわるのである。

一八九九年末に執筆
雑誌「プロレタールスカヤ・レヴォリューツィヤ」一九二四年 第八-九号にはじめて発表
未詳の人の手で清書された手稿によって印刷
(大月書店「レーニン全集4巻」より)

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ついせんだって、DOSが2.2だったころから慣れ親しんだタローちゃんから、Word2009じゃなくて2007に浮気してみたのだが、なんともぎこちないかんじである。私は、タイピングが得意ではないので、誤字脱字の誤変換等がありましたら、お手数ですがご指摘いただけましたら幸いであります。よろしくおねがいいたしますm(_ _)m。



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