たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

小資本家
肩こり指数 ★☆☆

つい先だって漁師さんの全国一斉休漁が闘われた。まあ、あっちこっちのブログで取り上げているのを斜め読みで失礼ながらいろいろと読ませていただいた。

社会機能がストップするようなゼネストであれば客観的な革命情勢は一気に引き寄せられるということになろうが、はたしてこの漁師さんの「ゼネスト」の評価やいかに、というと即答できないというのが正直なところだ。目にした多くの意見もまた、さしたる影響はないと思ってかそう重大なうけとめをしていないように思えるものだった。
てなわけでつらつらと考えてみる。

マルクスっぽい視点からみるならば、そもそも漁師さんという仕事はいかなるものであるかというと、政治学的には小資本家=プチブルジョア=小ブルジョアと、経済学的には小商品生産者と呼んでいるものなのである。
この小資本家は漁師さん、お百姓さん、手工業、商業、サービス業などにおいて、土地、船、店舗、道具などの生産手段をわずかながらも所有し、自分と、その家族でもって労働することを基本としているもので、工業の発展形態としては、前資本主義的なありかたとしての家内制手工業のようなものであるといっていいだろう。

これら、小資本家さんの出自は封建社会にあって、そのまま引き継がれてきたものといえる。原論レベルでは。資本の原畜過程において、とりわけ農業にあっては封建的土地所有を解体し無産の労働者を創出する過程として現れるわけなのであるが、我が国ニッポーンやドイッチュランドのように、遅れて資本主義への歩みをはじめた国家は、資本の原畜過程を経ずに金融資本の導入によって急速な工業化をなしたところでは、これらは、その形態をおおきく変化させることなく、資本主義的経済制度の支配のもと、それに従属しつつ小ブルジョア経済制度として独自の領域を維持してきたのである。

とはいえ、先進資本主義国おフランスのように、フランス革命がブルジョア革命と農民革命とのアマルガムであったという歴史性に規定され、その結果として、膨大な分割地農民を生みだしたことから、資本の原畜過程がすすまず、くわえて、資本は国内よりも後進資本主義国への投資へとむかったため、フランス銀行のような巨大金融資本と国家財政の後押しをもって産業資本をたちあげざるおえなかった。てなこともあったりして、それぞれお国事情が違えばそのありかたも微妙に多様であったりするわけなのであるが。

まあ、なにはともあれ、この小資本家さんは各国いたるところでた〜くさんみることができるわけで、そのボリュームの大きさから、裕福なものから極貧にいたるまでの幅広い階層を形成するのであるが、そのボリュームの大きさ故、市場を通じて相互に激しい競争を強いられることによる、生産や生活に必要な工業製品との鋏状価格の形成とそれによる大資本からの収奪、低価格の農水産物と手工業製品の輸入、大規模商業施設の出店によるシャッター通りなどなど資本の外圧につねにさらされるのである。

そうした競争を勝ち抜きより大きな資本へと発展をなすか、あるいは淘汰され、賃金労働者となるか、そんな際どい不安定な基盤のうえにたつものたちなのである。
それ故に、小資本家さんは二つの顔をもつものである。ひとつの顔は、資本主義的生産の進展により、その多くが没落してゆく定めにあるがゆえに資本主義的生産にたいしては批判的な立場をとりつつも、もう一つの顔として、小規模とはいえども、私的に生産手段を所有し「自由」な意志にもとづいての労働が永遠なることを求めるがゆえの保守的な立場をとるものでもある。

そんな二つの顔をもつ小資本家さんは、その立っている場所の不安定さゆえに、この度の原油の高騰のような事態は、存立の危機として直撃する。その激しい危機感と社会への憤りからブチ切れて小ブルジョア急進主義と呼ばれる、過激な行動へとつきすすむこともあるのである。

以上のことが、おおむね教科書に書かれてあるような資本主義的経済制度の支配における小資本家さんのあり方と、その属性なのであるが、このたびの漁師さんたちの「ゼネスト」が全国的なネットワークとして漁業協同組合が組織した闘争であるということは、政権与党の集票団体であるということからたいへん興味深いものではあるが、その獲得目標が「補助金請願」にとどまっているところから、残念ながら「ゼネスト」の効果はあまり期待できないと思っている。

運動の前面に出てくるものが「補助金請願」”だけ”ではもはや願いは通じないだろ。
ブルジョア新聞(通称ブル新)各紙が翌日そろって伝えたように、原油高騰で苦境にあるのは漁業だけではない、という論調に対抗し国民世論をがっしりと掴み取り政権与党を震え上がらせるものがなくては、そんなささやかなる願いですら届くことはないだろう。
かの、コイズミ&ヘイゾーがなした怪しげなる「構造改革」なるものの核心のひとつは、農業も漁業も商業も建築も医療も教育も、み〜んな頑張ってよ! お国はもう面倒はみないからね。お国は借金だらけでお金がないんだから。というものだったと思う。

そのようなありかたは、さきの参院選の歴史的敗北をとおして福田内閣のもと多少トーンを下げざるおえなくなってはいるが、この築かれたる反動の橋頭堡は断固として死守の構えにかわりがないことは間違いないようだ。なにより、漁師さんたちにしぶしぶであれ、手をさしのべるなら、それに学んで産業別「ゼネスト」が大爆発する可能性すら否定し得ないものがある。それほどサミットでもなんら有効な対策を提示しえなかった原油高騰は危機を深いものにしている。

とはいえ、このような社会の屋台骨が大きく揺さぶられるような危機に真っ先に生け贄となるのは、未組織労働者であり、小資本家のなかの多くの零細な部分なのだ。私もそうした者のひとりとして、心より連帯の意をこめて”厳しいけど、がんばろう!””ゼネスト天晴れ”と言いたい。
いま求められているのは、個別利害を代表する「漁協」の指導をはじき飛ばして、広範な苦悩せる人民と漁師さんたちの「ゼネスト」を結合し、巨大な民衆の怒りとして政権与党を恐怖のどん底に叩き込むようなゼネストを組織しうる部分の登場なのだと思う。

大きな社会変革への道のりにおいて、小資本家さんはとても重要なポジションをしめている。政権与党は戦後一貫して、それらを取り込み票田としてきた。そうしたあり方から大きく方針を転換し、かれらを突き放した。かれらの数は膨大だ、そして、「自由」なるがゆえの強さも、弱さもある。ともに闘いの隊列に加わることができる道筋を大急ぎで模索せねばならないだろう。

「ファシズムは、プロレタリアートよりほんの一枚だけ上にあって、プロレタリアの列中に落とされることをたえず恐れている階級を立ちあがらせる。公式の国家に庇護されながら、金融資本の資金を用いて彼らを組織し、戦闘部隊に仕立て上げる。そして、これらの階層を、最も革命的なものから最も穏健なものまでを含むプロレタリア組織の全体を破壊することへと駆り立てるのである。」(トロツキー「次は何か」)
ファシズムの原動力をなしたものが小資本家さんたちだったことをことを忘れてはならない。彼らのその爆発的な力を誤った方向に向けてはならないのだ。彼らを闘う人民の友としなければならない!


ニッコロ・マキアヴェリ
肩こり指数★★☆

ナポレオンというお題でとりあげた近代戦の特質が国民をその気にさせて戦争に突っ込むということにあると書いたのだが、そのなかで、そんなやり方をナポレオンがハケーンしたと書いたのだが、正確には、大先生はそう書いてはいない。ので、ワタシの捏造か!!

いやいや、悪意はありもはん。ちょっとお茶目気分で筆がすべりますた。
書いてから二日ほど経過して、お昼ご飯を食べていてふと思い出したのだ。
そう、ナポレオンはパクったのだ。というと人聞きがわるいが、もちろんパクリのゲイツとは違う。

英雄ナポレオンにさきだつこと280年以上前に、庶民をその気にさせて戦争に突っ込むことを思い立った御仁がいたのだ。君主論で知られるニッコロ・マキャヴェッリがそのひとである。

勉強嫌いでお気楽者の私は、君主論をいまだ読破するに至っていない。お昼ご飯を食べていて思い出したのは、ちょくちょく小出しでコソーリあげさせていただいている本ダちょ著作選第2巻に収録された歴史的名著「戦争と革命の基本問題」のなかの一節「戦争と民衆」のなかにその記述があったことを思い出したのだ。

前回の記事の訂正と、もうちょっとだけつっこんだ理解にむけて書いてみようかとおもったのだが、「日本語の読解力のない」私が書くよりも、平易な内容なのでそのままあげさせていただくことにした。関心のおありの方はどうぞ。


(三)戦争と民衆

戦争の本質は、国家間の重大な利害の衝突なのであるが、こうした事情は、近代以前においては、戦争が支配階級の事業、つまり、帝国や王朝の独自の仕事であり、騎士や傭兵隊や常備軍の任務であったのであって、多くの住民は、地形や地勢と同様に客体的条件にすぎなかったのである。いいかえるならば,戦争にとって住民は、帝国や王朝、それゆえ、騎士や傭兵隊や常備軍を経済的に支える消極的要素であった。
(中略)
ところが、このような従来の戦争と住民の関係にかんして根底的な批判をしたのがニッコロ・マキアヴェリであった。すなわち、前節でみたように、イタリア・ルネッサンスの渦中にあったマキアヴェリは、内政と外交、政治と軍事、支配権と戦争、覇権と勢力均衡の内的構造を冷徹に分析し、国家権力の枢要が住民にたいする関係にあることを鋭くあばきだしたのである。覇権は支配権として定着したはじめて安定するのであり、支配者にとってもっとも恐るべきは、住民の反乱であると、マキアヴェリは洞察することによって、政治と軍事の矛盾を「支配の論理」のもとに解決してみせたわけである。

かくして、マキアヴェリは、君主、すなわち国家支配者の原則として、まず第一に実力(ヴィルトウ)をあげ、幸運よりは悪逆を、悪逆よりは実力を称揚するとともに、他国の援助や幸運で支配権をえても実力にそれが転化しないかぎり、脆弱なものであることを警告するのである。第二には、住民の支持をあげ、これが支配権の枢要であることを力説するのである。この点にかんして、マキアヴェリは、新しく併合した地域の住民にたいして守備隊派遣のやり方がいかに無力であるかをしてきするとともに、自治の経験をもった住民が支配者にとっていかに恐るべき存在であるか注意を喚起するのである。

もっとも、それは、一方では、支配者にとって自分の支配地域の民衆の共和主義的蜂起の恐るべきを注意し、他方では、外敵の侵略者にたいしては民衆の共和主義的蜂起をもって対抗するならば不敗であることを主張するという矛盾した構造をとっており、このような提起の仕方がマキアヴェリがカメレオン的と評されるゆえんであるが、しかし、このような逆転可能な論理こそ、暴力の社会的分裂の生みだした矛盾であり、マキアヴェリの名誉であっても、その不明のゆえとはいえないのである。

第三には、イタリアを外敵から守るためには、従来のように、外国の同盟軍に依存したり、傭兵や常備軍に期待したりすることはできず、なによりもまず、イタリアの強力な統一を実現し、その軍事的基礎として住民の共和主義的蜂起と、それにもとづく民兵制度を採用すべきことを強く訴えるのである。
(中略)
戦争の構造を支配権と覇権、政治と軍事の統一として解明するとともに、戦争における決定的要因として住民の態度に着目し、共和主義的蜂起と、それにもとづく民兵制度の意義を照らしだしたマキアヴェリの功績は、ボルテール、モンテスキュー、ルソーらの考察を媒介として、フランス革命戦争におけるジャコバンの急進的民主主義に継承され、クラウゼヴィッツのいわゆる攻撃と防御の不均衡の理論、ならびにマルクス・レーニンの全民衆の武装化の理論をとおして、プロレタリア革命の軍事思想として発展してきたのである。
(以下略)
(本ダ延ヨシ著作セン第2巻 「戦争と革命の基本問題」より)

世界にさきがけたイタリアの交通形態の発展は社会の大きな変革をもたらした。
そうした、カオスのなかに早すぎた天才はロドスを見たに違いない。
ちょっとお猿っぽい?なんて言ったら怒られるかも無礼者って!!
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ナポレオン
肩こり指数★★☆

近代戦の性格について

「我々はここで近代戦の性格を考察せねばならない、この性格がいかなるものであるかを明らかにすることは、戦争における一切の企図、取りわけ戦略的企図に大きな影響をあたえるからである。

旧時の戦争における常套手段は、ナポレオンの幸運と勇敢な行動とによって葬り去られ、ヨーロッパ第一流の諸国家にしてからが、彼の一撃のもとに破壊されたのである。またスペイン国民は、なるほど個々の軍事的行動においては幾多の弱点と手ぬかりとを免れ得ないかったにせよ、しかしその執拗な闘争において国民総武装と侵略者にたいする叛乱と言う手段とを用いれば、全体として絶大な能力を発揮しうることを実証した。

―略―

また第二は、被侵略国はたとえ会戦に敗れ、主要都市や地方の州県を失ったとしても、それと共に勝算をも失うものではない、(以前は、これらの物を失えば万事休すというのが、外交官にとって否定し難い原則であった。それだからかかる場合には、差し当たって不利な講和にも直ちに応じたのである)、もし敵の攻撃力が既に用い尽くされていれば、それまでに自国内で圧迫されていた軍は俄に勢いを盛り返し、絶大な力を揮って守勢から攻勢に移転しうる、ということである。

更にまた一八一三年にプロイセンは、危急にに際して国の総力を結集すれば、民兵によって軍の常時の兵力を六倍にも増大し得るし、そのうえこれらの民兵は国内のみならず国外の戦闘においても使用され得ることを証示した。すべてこれらの事例は国家の諸力、戦争遂行に必要な諸力および戦闘力を担うものは、実に国民の勇気と志操とにほかならぬことを余蘊(不足)なく示しているのである。そして諸国の政府にして、これらの方策がいかなるものであるかをすでに心得ているとすれば、国家の安危が脅かされるにせよ、あるいは強烈な名誉心に促されるにせよ、戦争においてかかる方策を使用せずにおくはずはない。」

(クラウゼヴィッツ「戦争論」より)

私は勉強嫌いのお気楽者で、嗚呼あこがれのドイツ、BMW、ライカ、モンブラン等々のすばらしい工業製品に象徴される合理性と知性に痺れてしまうのであるが、そんなドイツの知性は?と問われたら、一にマルクスの「資本論」、二に今回長々と引用したクラウゼヴィッツの「戦争論」をあげるだろう。他にも、ヘーゲルとかアインシュタインの名をあげる人もおられるかも知れないが、それは人それぞれの好みということでお許し願いたい。お気楽者の私にはそのどちらも全く理解が及ばずはなはだ宗教のごときものなのだ。

さて、枕はこれまでにして、なんで、こんな難解な引用を引いてきたかというと。
戦争は軍だけがするものであって、庶民には直接的には戦闘には関係ないと思っておられる方がおられるのでは、と言う思いからつらつらと書き始めたものなのである。
わけても、防衛大臣イッシーバーが、「ハイテク兵器を扱う現代の戦争に、庶民は足手まとい 」なる言説を吐き、徴兵制は無いから安心よ!というようなニュアンスを漂わせていることは実に不快極まりない思いである。

まあ、もっとも、いきなり防衛大臣が「徴兵制いきまっす!」なんて発言したら、年金問題どころのインパクトではなく、内閣が吹っ飛んでもおかしくないくらいの衝撃波が国会議事堂を貫き大炎上となろうことから、最後の最後の切り札として腹の奥底にしまってあるに違いないと思うが。

この冒頭の一文を書いたクラウゼヴィッツ大先生はその昔、今のドイツ、プロイセンで軍の参謀をしていたとき、ナポレオンの率いる軍に足腰立たないくらいボロ負けを喫し、「負け〜て悔しい♪花いちもんめ〜♪」の思いと祖国プロイセンの復興の一念で、ナポレオンの切り開いた近代戦争の地平を冷徹なる眼差しと、燃えるような熱い情熱をもって徹底的に、研究し尽くした人なのである。

そもそも大先生によれば、戦争というのは、有名な言葉であるが、「戦争は他の手段をもってする政治の継続」であり、政治という話し合いで決着がつかないので拳が飛び交うようなものであるが、拳の後ろにはいつでも政治的思惑が宿っているのである。それゆえに、「政治は目的をきめ、戦争はこれを達成する」ための手段であるといえる。そんな、戦争とは「敵の意志を屈服させることを目的とする武力行使である」といえる。と同時に「流血を厭うことなく武力を行使するものは必ず勝つ」「流血を厭う者は、それを厭わぬ者によって必ず征服される」という相互作用をもった呵責無き殲滅戦であると言い切ったのである。
この言葉は、ナポレオン以前の諸国間の戦争が、中世の騎士道の呪縛から自由でなく、戦争本来の本性に掛けられた軛をナポレオンは解き放ち、戦争がもつ無制限無制約のエネルギーを発揮せしめたのである。

そして、本題であるが、大先生によれば、ナポレオンは、いままで、常備軍同士の戦闘で蚊帳のそとにあった国民を、戦争に動員することがとてつもない力となることを発見したというのである。いわゆる国民戦争とよばれるものである。そんな、ナポレオンがスペインの侵略に際しては、スペイン国民という素人による総武装闘争である、ゲリラ戦にさんざん苦しめられたあげく一斉武装蜂起によって撤退を余儀なくされたという事実は、ナポレオンがオーストリアとの戦争に忙殺され、のちのモスクワ遠征の失敗が遠因にあったにせよ、国民の武装がもつ力を知っていた彼が、その力を過小評価していたことが何とも皮肉である。

さて、クラウゼヴィッツ大先生は、国民を戦争にかりだすことの圧倒的優位性をナポレオンにみてとったわけであるが、そのためには何が必要かということを考えた。そして、
「国家の諸力、戦争遂行に必要な諸力および戦闘力を担うものは、実に国民の勇気と志操とにほかならぬ」といったのである。早い話が、国民の「やる気」が大事だと言うことである。

今日的なところへ視点をうつしてみれば、政治的目的がさほど大きくない地域紛争レベルであれば、常備軍で事足りるかも知れない。だが、国家対国家、或いは国家群対国家群のような国家の存亡をかけた国益という大きな政治目的が貫徹されるなら、いかにハイテク兵器があろうと、敵戦闘力を無力化し、抵抗の意志をなきものにするには、莫大な地上制圧部隊が必要であり、それは、戦争における彼我の相互作用にも規定され、国民皆兵で戦争に臨む国には、常備軍だけでは決して勝つことはできず、国民皆兵で戦争に臨まねばならないのである。それは、勇ましくフセイン率いるイラク軍を一蹴した「有志連合」がいまなお、民衆の武装闘争によるレジスタンスに苦しめられていることに、常勝ナポレオンのスペイン侵略を重ね合わせることができる。死をも恐れず闘うイラク人民に「市民権」をちらつかせて貧乏人を前線におくっているアメリカに勝ちはない。

ところで、我が神の国ニッポンであるが、いままで書いてきた雑文など、防衛省のお偉いさんは熟知している。当然クラウゼヴィッツなど、我々庶民にははなはだ難解で生涯通じて、読む人はごくごく少数だろう。だが、彼ら戦争のプロにとっては絵本がごときシロモノである。「9条改憲はあっても徴兵制はない」などと武装解除してはならない!
「9条改憲は徴兵制への突破口である」。大先生が言うように、国民がやる気満々にならなくては徴兵制は登場しえない。だからこその、”日の丸君が代”であり、”愛国教育”なのだ。そして、そんな国民のやる気に水をさす者を一掃するための、反戦ビラ配りの”逮捕”であり”共謀罪”なのである。

9条改憲がなれば、庶民の人権を擁護する諸規定がタイトなものになるのにそう時間はいらないだろう。「公共の福祉」にとってかわり「国のために」我慢しましょう、ということになるだろ。それでは、戦前と同じジャン。


戦争をルール無用の「仁義なき戦い」にしたのはこの人
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このおっさんがクラウゼヴィッツ大先生 顔がデカイ 目が暗い でも天才!
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続き物「暴力の復権のために」
肩こり指数★★★★

ひさしぶりに、著作選より「暴力の復権のために」をまた小出しですが、あげさせていただきます。2007/12/16にあげたものの続きです。
先月の6月14日、大阪西成署による不当逮捕と暴行にたいしておこなわれた抗議闘争への断固たる支持と、法政大学当局による度重なる不当逮捕を弾劾する思いにかえて捧げます。おくればせながらですが・・・



現代社会の基底をなす、近代市民社会と、その上部構造としての政治的国家は、このような国家と法の関係を完成させたものといってよいのである。周知のように近代ブルジョア社会は、封建制社会の政治的解体、いいかえるならば、諸個人を身分的秩序から政治的に解放することをとおして実現したものであるが、それは、共同体の幻想的形態としての国家を完成した姿において形成させたのである。

すなわち、ここにあっては、諸個人は宗教、私有財産の相違にもかかわらず、法規的、身分的に隷属する従来の支配、被支配の構造にくらべ決定的な変化をしめしたのであった。だが、マルクスが「ユダヤ人問題について」のなかで皮肉まじりに批判しているように、近代革命は、精神的市民=国家公民という側面においてのみ人間を宗教、私有財産から解放したのであって、現実に生活している物質的市民という側面においてはいささかも宗教、私有財産から解放したわけではなく、それどころか、諸個人を商品=貨幣の物神的支配力のまえにわかちがたく結びつけてしまったのであった。

マルクス経済学の理解するところによれば、近代市民社会の物質的基礎過程をなす資本家的商品経済は、直接的生産者と客体的自然条件(土地と生産手段)の分離を前提に、労働力の商品化の矛盾の展開をとおして社会的総労働の比例的分配という経済原則を実現していくところに、その特殊歴史的な性格があるのである。いいかえるならば、資本制社会における支配階級による被支配階級への支配と搾取は、奴隷制社会や封建制社会のそれのように直接的な形態をとらず、蓄積された過去の労働としての資本家的私有財産(資本)による、生きた労働(その源泉としての労働力なる商品)の支配、という商品形態をもって媒介的におこなわれるのであり、資本家と労働者の敵対的な階級関係は、資本家の貨幣と労働者のうちなる労働力商品の自由平等な等価の交換という外見をとっておこなわれるのである。

したがってまた、政治的国家は、被支配階級としての労働者階級=人民大衆にたいして直接的な支配力として現象せずに、外敵ならびに内的=法秩序破壊者による私有財産制度の侵略から国民総体を防衛するという法的仮象を媒介として、資本家と労働者の敵対的な階級関係の資本家的再生産を維持する強制力として機能するのである。まさに、法的規範のもとにあっては、労働者の所有する生活手段としてのテレビや洗濯機も、資本家の所有する価値増殖の手段(資本)としての工場や機械も、私有財産として等しき意義をもつものなのであるが、市民社会の上部構造としての政治的国家は、国民の生命財産の安全を保障するという機能を基礎として、国家という虚偽の共同性を精神的に構築することをとおして、そのもとに労働者人民の現実的利害を抽象的に統一し、また、国家という虚偽の共同性にむかって労働者人民を精神的=政治的に組織することをとおして、労働者人民の現実的利害からますますはなれ、それと非和解的に対立する暴力をつくりだし、資本制的な搾取と抑圧を維持する機構として自己を完成していくのである。

なお、近代ブルジョア社会にあっては、暴力は、政治と軍事という分離した両側面をとおして現象するのであり、前者は内冶として、後者は外敵への対抗手段として機能的に分化しているのである。しかも、このような暴力の分極化は、政治、過程的には、独裁(本質)と政府(現象)との分離、政治的党派(実体)間の政争とおしてのその担い手の確定という経過と手続をとり、官僚・警察・軍隊など国家の諸実体をなす機構は、外見的には政治的党派間の政争には関与せず、その勝利者の意向のままに機能するかのような役割をはたすものとして現象するのである。

そのため、政党は非暴力的過程を、警察・軍隊は軍事的=暴力過程を担当する仮象が生じ、政治は、政府担当者を決定するための政治的党派間政争の自由な選択のうちに実現され、軍事(その実体的諸機関としての警察・軍隊)はその政治過程の外的条件を防衛するものとして問題化するかのように錯覚するのである。もちろんブルジョア政治の内在的論理としては、このような錯覚は、現実を反映したものであり、なんの不都合もないのであるが、しかし、階級支配という視点からこれを検討するならば、警察・軍隊の汎政党的な仮象は、政党と国家との階級的一致を前提としてはじめて成立するのであり、場合によっては、こうした階級的一致のうえでも支配階級の政治意志の分裂を基礎として暴力的衝突がおこることすらあるのである。

ともあれ、暴力の政治と軍事のブルジョア的分離とそれへの改良主義的幻想は、ブルジョア支配の危機の表現としての内乱においては、崩壊せざるをえなのであるが、プロレタリア政治は、この究極的事実から現実の過程にむかうのである。

したがって、労働者階級が、賃労働者としての自己を解放し、人間の全人類的生活の回復をかちとっていくためには、生産手段の資本家的所有=労働力の商品化という資本主義の基本矛盾を解決し、生産と分配にかんする目的意識的な交通形態を建設し、その基礎のうえに人間性の全面的な開花をかちとっていくことが必要なのであることはいうまでもないのであるが、そのためには、まずもってプロレタリアートが資本家との闘争をとおして自己の喪失した暴力性をとりかえし、共同体の幻想的形態としての政治的国家を粉砕し、プロレタリアートの暴力を国家として完成させねばならないのである。

考えてみると奴隷制社会や封建制社会にあっては、対立的に表現された共同性としての暴力は、奴隷や農奴にたいする支配階級の武装として直接的に実現されたのであったが、資本制社会にあっては、プロレタリアート人民の国家=法規範を媒介とした精神的疎外を基礎として国家の武装は保障されているのであり、まさにこの点にブルジョア国家の強みも弱みも秘められているのである。それゆえ、プロレタリアートは資本家と労働者の敵対的な階級関係を転覆し、その矛盾を解決していくためには、ただたんにストライキ・工場占拠として自己の暴力性を部分的に示すだけでゃなく、それをもふくめて暴力性の全面的な発展をかちとっていくために、自己の疎外された労働の産物であり、また、自己に敵対する外的運命力として現象する現代文明とその法秩序にたいする物神崇拝を根底的にぶちこわしてしまう必要があるのである。それは、現代世界とその社会構造のもとにあっては修正されるどころかいっそう真理となるのである。

(本多延嘉著作選第二巻「暴力の復権のために」より引用)




自由の女神
肩こり指数 ★★☆

いわゆるレジスタンスは、四〇年六月のナチス・ドイツのフランス占領とともに始まるとされているが、レジスタンスの本当の開始は四一年八月二十一日の共産党員フェビアンがパリの地下鉄で一ナチス将校を射殺したことをもってであるということを銘記しなければならない。彼の目的は「みずから模範を示すことによって尻ごみしている同志達をはげますこと」にあった。

ナチス・ドイツはこれにたいし、百名を人質にし、そのうち五十名を銃殺すると通告し、六名の党員に死刑を要求した。その後、テロリズムのたびに、その報復として多数の人質が虐殺された。 にもかかわらず、こうした襲撃は続発し、とくに十月の三都市で同時に遂行されたナチスにたいする襲撃は、情勢を決定的に促進した。こうしてレジスタンスは「敵をして領土のいたる所に散開させることを余儀なくさせ、同時にすべての地方に武装闘争を燃え上がらせる」という目的を達成した。報復として銃殺された人質は、四一年九月からフランス「解放」までに二万九千六百六十人に達したとされている。
(「内戦論」フランス人民戦線の敗北とレジスタンスの血の教訓 より引用)

集合ポストへ議会報告を投函した共産市議が住居侵入容疑で逮捕、書類送検されたことに関する記事を書いておられるブログがたくさんあって、左右はもとより様々な意見を拝見させていただいた。いわゆる「世間の常識」であるとか、言論の自由、知る権利などなどの法的解釈をめぐっての意見とか、終わりなき議論がたたかわされていた。

現実的な問題として、ビラ配りも、ポスティングも、いままで逮捕されることなくやってこれたのは、それを容認する「世の常識」があったということだ。逆にいえば、ビラ配りもポスティングも戦前の治安維持法のもと厳しい弾圧を受ける困難な時代をへて、敗戦後、民衆の意志を表現する数少ない有効な手段の一つとして大切にそして、粘り強く連綿となされてきたからこそ「世の常識」となりえていたのだと思う。

革命的左翼勢力の衰退とシンクロするように訪れた「不均等発展の法則」のあだ花にして、うたかたの夢にすぎないバブル好景気は民衆の政治意識を地の底まで引き下げ、一枚のビラが結ぶ、訴えかける者と、聞き耳をたてる者とを遠く隔てた。その後のバブルの崩壊という未曾有の危機になされた既成「左翼」への政権交代には、なんらその危機に対応することができぬまま崩壊した。

民衆のやり場のない怒りと閉塞感にマスコミの動員を梃子にすくい上げ、ボナパルト的強権政治をもって突破したコイズミとそれにつづいたアベは戦後史を画するほど大きく右へと梶をきった。「国際競争力」であるとか、「国益」であるとか、「自由な労働形態」などの大儀名文のもとで、庶民の多くの諸権利が奪われた。そのことは、いま非正規雇用や高齢者医療制度、年金問題などなど様々な形で矛盾が噴出している。

90年代初頭にはじまるバブルの崩壊からはやいもので18年近い歳月が流れた。この18年のあいだの変化は凄まじいものだった。私はこんな時代になると言われてはいたが本当になるとはおもわなかった。激動期への突入である。
マスメディアを持たない庶民にとってビラはいまでも人と人を結ぶ強力な武器だと私は思う。もちろん庶民の気持ちをつかめるような内容がなくてはならないことは言うまでもないが。

不要なゴミのような粗末な扱いをしているというコメントも幾つかみることができた。他にメルマガのような形態にかえたらいいんじゃないかという意見もあった。
だが、時代が大きく変化してゆくときにあって、いまそのように思える状況が永遠なる「社会の常識」たりえるだろうか。70年安保闘争の頃、庶民は我先に奪い合うようにしてビラを取っていったそうである。もうあんな時代はないとだれが言い切れよう。いま世に不平不満不安はいくらでも積もり積もっているではないか。
そこへ火を投じるものは、優れた内容をもったビラであり、読んでいただきたいという心の伝わる配り手の誠意ではなかろうか。とてつもない労力を惜しまないローテクでハイテクを凌ぐのが庶民の闘いのグローバルスタンダードだ。

ビラ配りに対する逮捕と言う事態は、それによって大きな萎縮効果を生みだすことが大きな狙いだと思っている。ビラ配りへの逮捕有罪はすでに最高裁がお墨付きをあたえたことも大きなはずみとなっているようにおもう。ポスティングなどは基本的に遵法配布でいくのは、私がビラ配りに精を出していた時代でも心がけていた。いらないという人に無理強いをすることも得策ではない。合法的な余地がいまはまだあるのだからその地平を後退させぬよう闘ってゆかねばならないだろう。とはいえ、最高裁の判断を突破口として、ビラを配る自由がどんどんと逮捕をもって奪われてゆくのであれば、それを無効ならしめる闘いは、逮捕という恫喝に屈せず、ありとあらゆる創意工夫をもってビラを配り続ける行為のみがそれをなしうるものである。ナチス一名につき五〇名の報復的処刑に屈することなく、さらなる怒りの炎を燃やし闘いにつきすすんだレジスタンスは抑圧に抗する者の普遍的あり方を今に伝えるものだと思う。

時代はそんな方向へと急速に向かいつつあると思うものである。美の女神ベヌースが極楽浄土のような天上界で産声をあげたのに比して、自由の女神は地獄絵図のような累々たる屍をふみこえて民衆を自由へと導いたことを忘れてはならない。

自由の女神


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