たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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しょぼい秋その8
どんどんと日が短くなってきた。日の出は遅く、夕暮れは早い。ついこの間まで夕方6時くらいまで明るかったのが嘘のようだ。

まあ、いままでずっと冬に向かってはそうであったのだから、特別なことではないのだが。私はこのころから、冬至にいたるまでがとっても鬱に入るところなのだ。
これから春が訪れるまで、賃労働から解放された「自由」のひとときがあかるい太陽によって祝福されることはない!

冬至を過ぎれば日はまたすこしづつ、すこしづつまたのびてゆく。それもいいものなのだけどね。もうちょっとの辛抱で峠をこえる。

さて、さて、しょぼい秋シリーズの終わりも近づいてまいりました。
次の企画を考えつつある今日この頃なのであります。「武装せる園芸家の園芸日誌」と言うタイトルでバラのお手入れをつづっていこうかな~なんておもっております。地味な作業レポートですけど、園芸ファンに捧げたいとおもっております。

バラ貼っておきます。週末までもうひとがんばり、癒されて下さい。

といいながら、いきなりクレマチス。名前は忘れた八重咲きの淡いブルーのお気に入り
くれまちす


モダンローズにして強健なつるバラ アンジェラ しょぼい秋を象徴するようなかつてないしょぼい咲きっぷり 寒!
アンジェラ


アーリーモダンローズ 1867年作出モダンローズ第1号のラ・フランスのお孫さん レディー・メリー・フィッツウィリアム 交配が難しかったラ・フランスに代わりモダンローズへ道を開いたのはこのバラだった
レディー・メリー・フィッツウィリアム


さて トリはモダンローズのピース
1945年4月29日のベルリン陥落の日に命名をうける。第二次大戦の終結をうけ平和を願う思いが「ピース」の名をあたえた。
1951年のサンフランシスコ平和条約会議の折、49人の国連代表の脇には一輪の「ピース」の花が飾られたそうな。
ピース

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チクリ社会
ついこのあいだ、とある国家試験の合格証書をはるばる「召集令状」に従い、県庁までとりにいった。寒~い日であった。

猫の件で懺悔したついでに、もひとつ懺悔すると、ずっと無資格でお仕事をしていたのである。まあ、医療関係、法曹関係に代表されるような無資格でやっていたら後ろに手がまわるような仕事ではないので業界全体を見回した場合「もぐり」がまだ多数派を占めているようなので、どおってことないのだけれど。

おりからのコンプライアンスの大合唱と表裏一体となったチクリ社会への急転換はまさに私的生産にもとづく労働の疎外と、労働の本質たる社会性の矛盾のあらわれといえよう。
さきに触れたことだが、「ずるっこ」しても儲かればそれでいいのだ。そうしないと個別資本は生き残ってはいけない。でも、そんな「ずるっこ」して世におくりだされた社会的価値は、社会の要求と対立する。その結果「ずるっこ」が世に知れたりしたら、とてつもないペナルティーが跳ね返ってくる。

つくづく最近思うのだがこの世はマッチポンプな社会である。多くの社会問題の大本は社会の生命ともいえる経済システムの捻れたコアのなかから生成される。捻れたコアの上に立つ頭脳たる政治はそれを修正しようとしてさらに捻れをくわえているように私には見える。もっともさらに激しく捻れば、一回転してもとに戻ろうっていうものでもあるが。

コンプライアンスを貫徹するには、そのために必要なコストを投じねばならない。それがこんにちの市場原理のもとでのサバイバルのなかで成り立つのか?大いに疑問である。
むしろコンプライアンスが企業にとってブランドにも似た付加価値となると同時に、選別排除のフィルターとして機能しているのではなかろうか。企業にとってそれが飛躍の試金石ととらえることもできようが、こんにちの「好景気」と裏腹の経営環境の厳しさに鑑みて、もれなく飛躍を勝ち取れるほど、そのハードルは低いことはあるまい。

実際、孫請け、曾孫請けでかろうじて生計をたてている末端に位置する私が、決して無視できないだけの準備と労力と資金を投じて、いまさらながら試験の問題が裸眼で見えないような歳になって受験をしたのは、ただ一点、「お客様企業」から資格をとらないと仕事が出せないよと言われた。という実にシンプルな理由なのだから。そこは、ニッポンの夜明けを見るまでは生きてゆかねばならないので、不本意な努力に力を注いだというわけだ。

このコンプライアンスとセットなのが公益通報者保護法だと思う。この法律のおかげなのか企業の不正がぼこぼこと暴かれまくっている。でるわでるわ状態。おかげで社会的正義が貫かれユーザーも社会も大安心という気分にもなるかも。でも、本質的には「ずるっこ」しても儲けたもの勝ちの企業なれど、一気に社会的信用(生産の社会性の表現)を地に落とすかも知れない伸るか反るかの大博打には躊躇してしかるべきだ。しかしにもかかわらずそこへと駆り立てたものは何だったのか?

平成の大不況という名の「大恐慌」である。あの「大恐慌」を境に戦後日本の資本主義のありかたは大きく変わった。それが「構造改革」の名の下に大胆に実行され、文字通り「構造」は「改革」された。導入された市場原理主義は「大恐慌」に疲弊しきった企業に競争を与え「勝ち組負け組」を生み出した。

「負け組」の延命のための伸るか反るかの大博打が「ずるっこ」だったのではあるまいか。もちろんはなっから、市場原理主義を逆手にとって「ずるっこ」狙いの山師もいたことは事実だろうし、それ以前から創業以来「ずるっこ」一筋というのもあってもなんら不可思議なることはない経済システムだが。
ともあれ、「ずるっこ」せざるおえない状況というものはあっただろう。それに対してコンプライアンスと公益通報者保護法をセットで処方することによって内部から崩壊を導き、轟々たる「国民の批判」のなかで過剰な資本を整理してゆくやりかたは、以前にとりあげたニッポンの夜明けで採用された殖産興業と地租改正の抱き合わせのような「匠の技」のようなものを感じてしまうのである。

私が最近常々思うことは、企業の不正が告発されるたびに「歓喜の声」「失望の声」が複雑に絡み合いながらマスコミを通じて報道される。やがて、そのことに慣れっこになってしまい、チクリが社会にあまねく浸透し、その矛先がやがて個々人へと向かうような日がくることへの危惧なのである。そんな社会はとっても暮らしづらいものとなると私は思う。

人によっては自警団もとなり組も古き良き封建社会の憧憬と重ね合わせて社会を守る「正義」を体現する、大切なコミュニティーと解する方もあろうが、残念ながら私は過去の歴史に照らし合わせてみて、そういうのはまっぴらゴメンなのである。

そんなことを、つらつらと考えながらエレベーターで8階にあがり授与会場でサインをして、仰々しく渡された証書ではあるが、そこに書かれていた厚生労働大臣マッスゾーエの名前に思わずムッとしつつ、するするとそれを筒に巻きお尻のポケットに差し込んだ。
そしたら周りから白い目で見られてしまったのである。まあ、動機は、私のつらつらと考えた内容によるところの行為なのであるが、もしかしたらチクリ社会は、気づかぬうちにもうすぐそこまで来ているのかもしれない。と言うお話でありました。

今日は、こぼれ種で咲いていた秋のジキタリスを貼っておきます。ちなみに猛毒です。

じきたりす


ワタシの猫遍歴 続き物 その6
みこは、とっても小さくて痩せた三毛猫だった。うりにあげるキャットフードは少し大きいようでうまく食べることができないようだった。さっそく仔猫用の栄養価の高いキャットフードを買ってきて与えることにした。

みこは、はじめての雌猫だった。それはそれは、感動ものの可愛さだった。はじめての経験だったが、しぐさや立ち振る舞いがもうたまらない、とてつもなく甘えたで、ワガママで、気まぐれで、意地悪であった。動物病院でのワクチンの接種、健康診断も良好、ただ耳ダニがいたので数週間治療にかよった。

心配していた先住猫のうりとの相性も、うりの温厚な性格のおかげでまずは問題なし、ときたまみこが北斗百烈拳をくりだすも寛大なうりは気にはしていないようだった。
我が家に幸福なひとときが再び訪れた。不思議とみこが来てから仕事も増えルンルン♪の日々が続いた。

そんなみこが家に来て三月ほどたったころ、急に食欲もりもりになった。最初は無邪気に喜んでいた私だったが、やがてその食欲もりもり状態が尋常ではないことに気づいた。
お腹が大きくなり、横に張り出すようになってきたのだ。かみさんが、妊娠しているんじゃない?と言った。さすが女の感はこういった場合非常に鋭い、私は速攻で同意をした。

大急ぎで「のらねこ学入門」の過去ログをつぶさに調べ上げ、みこの妊娠を確信した。
どうやら出産はものすごく近いところまで来ているようである。
私は悩んだ。悩んで悩んで悩み抜いた。そして、二日の後の朝、みこをゲージにいれ動物病院につれていった。避妊手術をするために。

むかえはかみさんに頼んでおいたので、気もそぞろで仕事をこなし速攻で帰宅すると。ゲージの中でみこは眠っていた。生きている、息をしている、ああよかったと溜息がもれた。かみさんが、お腹の子は5匹もうだいぶ大きく育っていた、供養してあげて下さいと先生にいわれたと言って白い箱を私に手渡した。

その箱を両手に受け取り、私は泣いた。泣いてみこに詫びた、人の勝って都合を詫びた。

この世に生まれいずる事がことが叶わなかった、とっても小さな小さな亡骸はくろっぴーの眠る庭の片隅に埋葬し白梅の苗木を植えた。ちょうど桜が満開をすぎ、吹雪のように花びらが舞い散るそんな春の辛い出来事だった。

ごめん みこ 術後まもないころ
ごめんみこ 


おなかに毛がない ぽよよんになったおなか
おなかに毛がない



武装せる園芸家のひとりごと
3連休の職場も多かったようだが、私は賃労働だった。今日は日曜日でお休み、ここ数年「勤労感謝の日」はずっと仕事で休んだことがない。派遣労働という雇用形態が一般化するようになってから。
「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」という趣旨を文字通り理解するならば、 別段仕事を休み休息日とすることに意味があるとも思えないが、戦前の新嘗祭にそれとなく重ね合わせて「勤労感謝の日」が制定されたことにはサヨクとしては胡散臭さを感じてしまう。

くわえて、サヨクではない他の一般庶民である同僚スタッフに言わせれば、正規雇用はお休みで、低賃金の非正規雇用が労働に動員されることを労働者間の対立としてとらえ、少なからざる不満はあるようである。そうだね、そうだね、としかいまの私には相づちをうってあげることしかできないのであるが。
「勤労感謝の日」はまさに文字通り労働から疎外された産業予備軍が「勤労することがかなうことを感謝する日」となったようだ。

労働からの疎外は、こんにち労働者階級としての階級からの疎外としてもたちあらわれる。
ここをこえてゆかねばならない、すでに全国各地でそうした試みは芽生え始めている。ほんの1mm程度の小さな小さな種が地に落ち、みるみる成長し程なく大輪の花をつける。生産力の増大とそれにシンクロする階級闘争の歴史を立脚点をする唯物史観は、そんな1mm程度の種がうみだすダイナミズムを讃える歴史観でもある。それは、幾十年もの歳月をかけてもならぬものが一夜にしてなることも示唆している。

歴史はとかくリニアにはすすまない、ジグザクをくりかえしつつ矛盾を溜に溜めて、あたかも、少しずつ蓄積された火薬がやがて大爆発をおこすように捻れを解消する。
この発火点をしっかりと我と我が手にたぐりよせつかみ取り、不発やあらぬ方向での大爆発を未然に防ぐには、まず1mm程度の種に身を投機することが必要なのだ。本格的な冬がすぐそこまできている寒い朝に思った。

今日はハーブを貼っておきます癒されて下さい。

赤いのはチェリーセージ 他にローズマリー レモンバーム
ハーブ


たわいもない話の王道2
今日はちょっと趣向をかえてみます。

私は文章を書くのが下手です。論文は「論文の書き方」系の本をとっかえひっかえずいぶん読んできたし、教官にも、指導部にもさんざっぱら指導をいただいたのだがさっぱりだ。一つの理由は常に読み手の顔を暗黙のうちに想定して書いているからなのだと思っている。
マイブログでの記事でも人様のブログにコメントを入れる場合でも少なからずそれを読んでいただく方々の顔が見えない事への戸惑いのようなものがある。よりよく伝えるための努力を惜しんではいけないなーと日々おもうばかりである。

さて、私が大学受験をしたころは、現代国語では論理的な文章の代名詞のように小林秀雄の論説文がとりあげられていたが、今日はそんな小林氏とガチンコしてしまうようなルサンチマンにあふれた、否、「論理的」な文章をみかけたのでこれを例に設問を設定してみようかなっと思った次第である。こうしたトレーニングが論理的な文章、書き手の意図がきちんとつたわる文章を書くことができる能力を培うのかも。


●以下の文章を読み各設問に回答しなさい

ココロさんへ
ココロさん、それと、ココロさんに同調する方々は、非常に勘違いしています。

知識の有無は、発言の自由を制限するものではありません。素朴な疑問や率直な感想は、人間誰しも当然抱くことであり、それをブログ等で表明するのも、それを私も冥王星氏も否定などしていないのです。

しかし、『ブログは不特定多数が閲覧できる』という点と、『論拠が曖昧・根拠が不明確なものは、自分の発言に責任を取らないのと同じである。』ということ、これは言論の自由においての原理原則でもあります。

もちろん、「意見そのもの」は、何も具体的な論拠も根拠も、必ずしも必要ありませんし、自分が知る範囲で、自分が考えられる限度で意見を持ち、そしてそれを表明してもいいとは思います。
ただ、ここでココロさんたちの欠点は、「ご自身の知識や情報が不十分であることを認識しながら、知識や情報がある人からの指摘を受けたことについて、何ら修正するどころか、その修正にストレスを感じる」ということです。
インターネットでの意見表明は、批判を受けることもまた受け入れることで成り立っています。単なる悪口や誹謗中傷を容認せよというものではありませんが、少なくとも私がココロさんやmxさんに指摘したことに対して「持説を曲げない」「ストレスを感じる」というのであれば、ブログをやめるのが「言論の自由」に生きる社会人としての義務であり責任です。

これを容認しない考えを肯定する社会の恐怖を、我々日本人は歴史から学んでいるはずです。最もポピュラーな事件は、関東大震災の朝鮮人虐殺事件です。
というのは、「間違いを修正しない」は「故意に嘘をついた」のと同じであり、「(wakuwaku_44の)指摘にストレスを感じる」のは「自分の言動に責任を持つ気がない」のと同じだからです。

mxさんの憲法論にしても、衆議院の解散等、天皇の認証を必要とするものが、事実上は時の首相に権限があり、その濫用を防止したいという気持ちは理解できます。しかし、残念ながら、mxさんの主張は、明らかに天皇に政治的権能を持たせるものであり、むしろ護憲の側が全面的に容認しないものなのです。私に反論すれば反論するほど、国民主権の原則を崩壊させる言動になっていたことに気づいていれば、私に反論せずに素直に受け入れ、主張を軌道修正していたはずです。ところが、それを認めたのかどうかはわかりませんが、私をイグノアしてきた。受け入れたのであれば、指摘した本人に対してその旨を表明するのが責任です。

東○南北や薩摩○州に至っては、私を排除するためだけに投稿をしている状態ですから、コメントする価値すらありません。もっとも、言論内容についての知識も情報もなく、主観と思い込みのみで発言をし、そしてその「思い込み」を「民主的」「人間的」だとしているため、こんなのは論外の中の論外です。以下略

設問1
「言論の自由」に生きる社会人としての義務であり責任としてブログをやめなければならないのは誰か文中の人物の名を用いて答えなさい。


設問2
筆者があげているブログをやめなければならないとする理由を80文字以内で書きなさい。


設問3
『「間違いを修正しない」は「故意に嘘をついた」のと同じであり、「(wakuwaku_44の)指摘にストレスを感じる」のは「自分の言動に責任を持つ気がない」のと同じだからです。』の文中の(wakuwaku_44の)を言い換える場合以下のどの語が適切か答えを選びなさい。

A.庶民の B.ノーベル賞作家の C.偉大な哲学者の D.宇宙の権力者ベーダー卿の


設問4
文中の「東○南北や薩摩○州に至っては」○のなかにはいる適切な文字の組み合わせはどれか答えを選びなさい。

A.西・長  B.京・九  C.方・中  D.風・本


設問5
筆者が「言論の自由においての原理原則」の要件としてあげている「論拠が曖昧・根拠が不明確なもの」の判断基準について全体の論をふまえ、文中の語彙を用い「筆者の」に続けて15文字以内で書きなさい。


最後までたわいもない話にお付き合いいだだきありがとうございました。
今日は猫さんを貼っておきます。癒されて下さい。家無き猫に愛の手を。

なめんなよ!!
なめんなよ


しょぼい秋その7(怒り少々)
今日は、生活保護費の引き下げを津久井先生をはじめとしてあっちこっちでところでとりあげておられたのでこの件で記事を書こうと思って書き始めていたら、某ブログで酷いことが書いてあったのだ。

親しくお付き合いさせていただいているココロさまのブログ「わんばらんす」をレベルの低いブログと誹謗中傷するコメントを掲載していたのだ。

それと、ここをちょくちょくのぞいてくれる東西氏を差別的言辞をもちいて罵倒していた。東西氏のコメントはちょっと失礼な言い方で申し訳ないがちょっと私もわからないところがあるのだけれど、すくなくとも現状の社会の閉塞感をなんとかしたいと切に思うおもいは伝わってくるので、顔は同じ方向を向いているという考えから立ち位置は違えどもお付き合いをさせていただいている。

まあ、世の中いろんな人がいるもんだから、そういうことはあるんだけどね。10年以上も殲滅戦をやっていたところに身をおいていた私としてはたわいもないことなのだが。いささか、その差別主義的な感性には△○チックなものさえ感じてしまった。

ちなみにそれはここです。http://self0507.blog52.fc2.com/blog-entry-508.html#comment-top


こんなときは、バラに癒しをもとめることといたしましょう。今日はココロさまと東西氏に捧げます。思いっきり癒されて下さい。

ティーローズ レディーヒリンドン
レディヒリンドン


イングリッシュローズ メイフラワー
メイフラワー


イングリッシュローズ メアリーマックダーレン
メアリーマックダーレン


再び登場イングリッシュローズ ヘリテージの地植え版
ヘリテージ


たわいもない話の王道をゆく
ちょっとお仕事がいそがしい。コイズミ・タケナカコンビのおかげさまですっかり産業予備軍となっちまった日雇い系派遣労働者の私としては、暇でも忙しくても心中複雑なおもいなのである。まあそれはそれで割り切って、じっと我慢で明るい日本の夜明けを見届けるまで、とりあえず生きてゆかねばならないので、賃労働にはげむのである。クリスマスも正月も近いことだし。今年は猫のコタツをぜひともプレゼントしてあげたいのである。

今日はなにをかこうかな~♪ と思案しながら歩いていて、あああ!!という間に段差に気づかず思いっきりこけちまった。思わず前方一回転、アクションは派手で恥ずかしかったがたまたまそれが受け身になってそうひどい打ち身にはならなかった。ラッキー!

でも、あとで膝をみたらちょっと擦りむいておりました。それから、こけて一回転したときに、書こうとしていたストーリーがすっかり吹き飛んでしまい、書く気も萎えてしまったので、きょうは特別に私と世界をつなぐ(笑)インターフェース=マイPCを披露してしまいましょう。
主要スペックはCPU:IntelCoreDuo2.66GHzFSB1333MHz Memory:2GB MB:GIGABYTE GA-P35 VideoCard: NVIDIAGeForce8600GT HD:沢山 OS:windowsXP 今年の8月にあり金かき集めて仕入れた部品で組んだものだ。

筐体は時代遅れのフルタワー、同じく時代に逆行する静音とは無縁な空冷ファン8個内蔵の超騒音マシン
わたしのぴいしい


それにUSBで5台のHD外付け 後ろにちょっと見えるのは扇風機 これでガンガン冷却する
ハードディスクたち


このPCのおかげで私は世界とつながることができるのでありました

あまりに記事としてはpoorなので、だめ押しに猫さん貼っておきます。癒されて下さい。そして、家無き猫に幸あらんことを

あまえる みこ
あまえるみこ


おちゃめ みこ
おちゃめみこ


くつろぎ みこ
くつろぎみこ


奇跡のスロットマシーン
といってもパチンコ屋のお話ではありません。

私がたまにのぞかせていただいているブログからブロガーのかつ先生がコメントを寄せて下さったので、コメント返しを書いていたら長くなったので、記事にしてしまおうと思った訳なのであります。

かつ先生いらっしゃいませ。

あ!勝手に先生と読んでますが、いいっすよね。
ブログのリンクをたどりたどりしてゆくと凄まじいばかりに体系化された知識の宝庫のような方に出会うことがあります。

私は、パチンコをしませんが、パチンコ屋にあるスロットマシンのようにワンコインを投入したらザクザクとコインがでてきたりする、これがこの遊びの醍醐味であります。
それにも似て、ワンコインコメントをいれたら、金銀財宝のようなコメントがザクザクとかえって来たり、金銀財宝取り放題のような記事があがっていたりするとそれはもう、幸福のまっただ中状態とあいなるわけであります。
そんな奇跡のスロットマシンのようなお方がかつ先生であります。

ほかにも、奇跡のスロットマシンなお方は、猫の黒猫亭様、ヤメ蚊さまのところのジェダイマスター田仁さま、ときたまおこしの土岐さまほかにもた~くさんの方々がおられます。いやはや、便利な時代になりました。世間が広くなったというか、PCがなかったら恐らく生涯ふれる機会などまったくなかったであろう方々の優れた認識にふれることができる。対話をすることもできる。とても素晴らしいことではあ~りませんか。
土岐さまは頭がPC化してゆく事をしきりに危惧しておられますが、シンプル思考の私は半分くらいPCに売り渡してもいいよ、なんて思っていたりしてます(爆)。

この方々の書かれる文章の筆圧はみな高いもので、岩をも貫くのではないかと思われるほど力が文字にこもっております。莫大な読書量に裏打ちされた豊富な認識がその力の源であることがひしひしと伝わってまいります。

さて、私はというと、長い間政治経済にまったく関心を失っておりましたことにくわえ、すっかり老眼鏡のお世話にならないと本が読めなくなったこととあいまって活字離れな日々を過ごしておりました。若い頃の度重なる秘密基地転々生活も貴重な蔵書を失う結果となり、いまではほんのほんのわずかしか手元に残っておりません。バラな世界に逃避し、あまり書物を購入することもありませんでした。園芸の本はたくさん買いましたが(苦笑)

ブログ巡りをはじめ、そしてこのたび縁あってブログを開くことができました。多くの強者ブロガーさんたちに刺激され、ぼちぼちと「知ること」「学ぶこと」を思い出しつつある今日この頃なのであります。でないと、激動する社会のうねりに呑み込まれて自分の足が何処についているのか見失ってしまいそうであります。くわえて、ブログ記事ネタが尽きてしまうかも知れません(笑)園芸ネタでは一年もたすことは難しいので(爆)

ということで、強者ブロガーの皆々様、大いに学ばせていただきます。嘘も間違いも大胆に書くこともございますが広い心で一つよろしくおつきあいのほどをよろしくお願いします。

かつ先生トラバが通らなかったようで、すみません規制はしておりませんのでちょっと原因はわかりません。
白土三平氏の「カムイ伝」は「男組」とともに全巻、某大学に勤務していたころそこの学生会館に備えてあったものを読みました。たしかに暗いですね。
資本主義社会への萌芽はすでに室町幕府のころにみてとれるのですが、その後の内乱で反動が勝利し封建社会は維持され続けるわけですが、そのための人為的なさまざまな機構に抗しながら粛々と発展成長を続けてきた生産力が国際資本の外圧を突破口にいっきに飛躍の期を得たと考えるのは、ご指摘いただいたとおりであります。マニュファクチャー論争に関しましてはいささか判断を保留する部分がございますが、一定程度の生産力の発展段階の指標としては妥当性があろうかと考えております。

「安部政権の教訓(ちょっと気が早いけども)」2007.07.23 という記事をあらためて拝見させていただきました。そうですね、やっぱコイズミってボナパってたですよね。ポピュラっている以上にもっと踏み込んで。これが何と何の均衡の上に立っていたかについては、自民党内の「改革派」と「抵抗勢力」の均衡によるものか、国家存亡の金融危機にあって、自民党と怒れる民衆との均衡によるものなのか、私はその両方だったと思うのですが、ともかく先生に同意するものであります。よろしかったら拙いブログではございますがまたお越し下さいませ。

お礼のバラを貼っておきますまた見に来て下さいませませ。

イングリッシュローズ ヘリテージ
ヘリテージ


封建社会への憧憬
肩こり指数 ☆☆☆

たわいもない話を書こうと思っていたのだが、ついつい力がこもってきて話が堅くなってしまった。すっかり肩こり系になっちまった。てなわけで肩こり指数☆☆☆であります。

肩こり話でよく封建社会を引き合いに出すのだけれど、封建社会がなにかすごく暮らしぶりの悪い社会であった印象を皆さんもっておられはしないだろうか。

はっきりいって、私はそう思っていた。大学に入るまで。私は日本史、世界史を社会科でとれなかったので判断の基準となっていたのは中学社会科の歴史教科書ベースであったのだが、くわえて、先生がとてもネガティブに封建社会を語っていたところにも原因はありと思っている。それと、もひとつ水戸黄門に代表されるような悪代官の暗躍に庶民が泣きを見る系のお話にますますいっや~な印象を深めたことは否定できない。

さて、皆様はトーマス・モアという御仁をご存じだろうか。世に言われるように「ゆとり教育の弊害」があまねく広まっていないなら、中学生でも知っているのではないかと思うが、かの英国の司法系官僚の頂点を極めた偉い人にして空想社会主義者の祖として知られる御仁である。

マルクスは資本論のなかの資本主義の生まれる過程(本源的蓄積)において、かの御仁を登場させるのである。トーマス・モアはいまだ封建社会の中にあって、資本主義社会が誕生せんとする時代に生きた生き証人であったといえる。

当時ブレークしていたエンクロージャーブメントは、牧歌的な農村共同体を破壊し、大量の浮浪者を生み出したことは以前ふれたところだ。有名な話であるが、かの御仁はそれをみてこういった「羊が人を食ってるぜ」もうすこし上品な言葉だったろうが意味はこういうことだ。くわえて浮浪者がこっぴどいめにあわされたことも以前述べたとおりだ。鞭打ちに、耳そぎ、死刑。おおお恐ろしや。

そんな、悲惨な出来事に来るべき次の世の姿を垣間見たトーマス・モア大先生は昔はよかったという思いを粛々と書きつづったのが「ユートピア」という著作なのだ。

資本主義社会はおびただしいばかりの血の海のなかでうち建てられたことは事実として、それは、次の社会への生みの苦しみであったと「前向きに」捉えるならば、そのあと訪れた「豊か」なる社会がはたしてモア大先生の回顧趣味を粉砕しておつりがくるほどに素晴らしき世界であったろうか。

私にはそうは思えない。理由はいくらでもある。全て上げたら肩がこりこりになってしまうので今日は、一点、これほどモノがあふれているのに「おむすび食べたい」といって餓死する人がいる。これだけ医療が広汎に発展発達していても、病院が病人を公園に置き捨てる。この事実は、資本主義社会では「善」なることなのだ。

せんだって、うちのローザ・ルクセンブルクが映画を見に行った。「SiCKO」とかいう映画だ。アメリカの医療問題を扱ったものだそうだが、帰っての報告によると「すっげ~。金のない入院患者をばしばし追い出すなんて、すっげ~ 信じらんない」ということらしい。アメリカは原理論をもっとも忠実に展開する資本主義社会だ。原理論との差異を生み出すモノの幾つかのうちの一つは旧社会である封建社会の残渣だ。アメリカはそれが少ないといえる。

資本主義社会での「善」に激しく抵抗を感じる、私たちの感性は実は、封建社会に源を発し綿々と受け継がれてきた、いまは無きにひとしい農村共同体の社会規範にある。
「人は一人では生きてゆけない」と一般的に語るのは誤りだ。人は一人で生きてゆけるのだ。資本主義社会にあってはお金があれば。しかし、それは、人間の「個に死して類に生きる」本質にそぐうものではない。当然そんな社会は荒廃するし、荒廃しつつあるではないか。その荒廃をぎりぎり紙一重のところではあっても食い止めてきたのが良しも悪しくも旧社会からひきずってきた、あるいは権力によって押しつけられ叩き込まれた旧社会の規範なのだ。

私は、封建社会がいまでは以外に心地よい社会であったのではないかと思っている。
魔女裁判や姨捨伝説、天候不順の飢饉、疫病の流行、身分社会。などなど、科学技術の未発達とそれによる生産力の低さに規定されて、豊かさというには不足は否めないものだったかも知れないが、人は助け合い、分け合い、支え合って、一生懸命生きていたのではなかったろうか。前述の困難が降りかかっても「しょうがない」ですますことができた社会なのである。だが、いまの世にあって、そこら中におむすびが溢れる中で、餓死することがはたして「しょうがない」ですまされようか!

どうも、歴史教科書も含めて、封建社会を必要以上に暗く悲惨な世界として描いているような気がしてならない。とはいえ、歴史は後戻りできないから、いくら旧社会に思いをはせてもそれは叶わぬ夢なのであるが。ただ、私たちは意外にとてつもなく非道で惨い世の中に日々戦闘状態で生きているのだということに気づいておくことは、まんざら無駄なことでもあるまいと思った次第である。

今週も週末となりました。一週間賃労働お疲れ様でした。
お約束のバラを貼っておきます。癒されて下さいましまし。

イングリッシュローズ パットオースチン 色合いがこれまた独特
パットオースチン


しょぼい秋その6
武装せる園芸家薩摩長州です。今日は特別にその武器の一部を披露いたします。

園芸道具その1

左は結束用のビニールひも、その隣が枝切用のこぎり。右上から、差し木用ナイフ、コンパクトバーナー、雑草殲滅用除草フォーク、芽切りばさみ、剪定ばさみ。これらが標準装備であります。特別装備はまた後々と言うことで、お楽しみに。(だれも期待してない?)

秋のバラの開花もいよいよあとわずかとなってまいりました。
今日もバラを貼っておきます。癒されてくださいましまし。

モダンローズ 強健なつるバラ バタースコッチ 色合いが独特
バタースコッチ


イングリッシュローズ ザ・プリンス
ザ・プリンス


チャイナローズ グルスアン・テブリッツ
グルスアンテブリッツ


イングリッシュローズ ガートルートジェキル 偉大な園芸家の名にちなむ ちょっとピンボケ
ガートルートジェキル


儲かりまっか?ぼちぼちでんな! お金の話
肩こり指数 ★★★

いっくらあっても邪魔にならないのが、「お金」。たっく~札束につまづいて転んじゃったよ。といって可燃ゴミの収集所に札束を出す人はいない。この不思議な魅力にあふれた福沢諭吉大先生の肖像について考えてみよう。きっかけは東西氏の質問だ。

質問が質問なだけにどうしてもコアな部分に触れざるをえず複雑怪奇なるを避けるため断片的な部分での記述にとどめたのだが肩こり指数は一応★★★をつけておこう、あまり面白い話でもないし。

「貨幣が消滅する」、似たような命題に「国家が死滅する」というのがある。前者はマルクスが後者はレーニンがその道筋をしめしたものであるが、とりあえずどちらもまだまだ遠い先のお話である。夢物語ではないけれど。

資本主義社会では貨幣が個々人の社会的分業・協業を結びつけていて、それらによる労働の成果を交換し合うことによって個々人の生活がなりたつ。その媒介をなすものが貨幣であることはまえに述べたとおりである。このことは、これからさきの生産力の発展に鑑みても変化することのないルールとなるであろう。また、逆に言えばこのルールがあればこそ生産力はまだまだ無軌道に、無制御に世界的規模で発展をつづけるだろう。やがてそれがゆえに破局をむかえる日がくるまで。

さて、貨幣は交換を媒介するほかに、もう一つとっても重要な機能を有している。それは蓄積されることによって、資本となることだ。資本に化けた貨幣の実体はなにか?それは、過去の人間の労働(社会的価値)が結晶したものだ。封建社会なら、生活に必要以上の生産物として生み出された一俵の米は、剰余価値として米倉に保存されるだけのことなのだ。

ところが、資本主義社会では、剰余価値を米倉になんか寝かしてはおかない。剰余価値は商品として命がけの飛躍をなして、貨幣へと化けなくてはならない。
「すでに過去の生命のない労働の結晶としての貨幣の蓄積としての資本」はいままさに生きている生々しいばかりの労働力と、やはり過去の労働が結晶した生産手段に投下され、労働力が必要としている価値以上の価値(剰余価値)を生み出すことを強要する。まるで過去の死んだ労働が、生きた労働の生き血をすするかのように。そしてうみだされた商品は市場で商業資本の手をかりて命がけの飛躍をなし貨幣に化け、ふたたび資本として大きく成長してかえってくる。そして生きた労働の生き血をすすり大きく成長する。これが、あくなき私的生産の欲道に根ざした資本の拡大再生産の仕組みだ。

貨幣の役割において、蓄積されて資本となるというところがとても重要だ。
とりわけ、生身の労働者を搾取するという機能は資本主義社会における貨幣ならではのミラクルな機能だ。貨幣の価値表現を「円」ではなくて「時間」に置き換えて考えてみよう。

以前「労働力の価値ってな~に?」という記事で労働力の価値=お値段は、その社会で平均的な生活水準の維持に必要な諸経費プラス女房子供とともに暮らす為の諸経費だと論じたわけだが、1日8時間の労働のうちその4時間がそれであるとしたら、給与明細には一日の労働は4時間と記載され、25日の労働で総支給額100時間となり、それがそのまま手取りとなるなら、月末給料日に10時間紙幣を10枚頂戴することになる。

ちょっと、気の短い人なら、給与明細をみて「ぶち切れる」だろう。なんで働いた分の半分しか貰えないわけ~!!プンプン。物わかりのいい人なら、生産手段の使用料だの、資本家さんの取り分だの、研究開発費だの言われたらご無理ごもっともと資本家様の言うことにあっさり納得するかもしれない。(生産手段への投下分はべつに回収済みとなっているから、資本家さんの取り分と、研究開発費はありだろうけど、問題なのはその取り分の多さにある)。

しかし、月に100時間の収入があって、8時間のお米を買って、10時間のローンの返済、30時間の薄型テレビを買って、ガソリン代が月10時間などなどと支払いをして貯蓄も少しはできてなおかつ支出と収入がバランスしていれば、まっいっかということにもなるだろう。労働者は実に謙虚になるように教育されているから。
だ・け・ど。いまのように働けど働けどいっこうに暮らしぶりがよくならない「奇妙な好景気」のような事態に直面したとき(かならず果てなき市場原理での競争の結果、直面するようになっている)、この時間での価値の表記は資本家にとても不都合なものとなる。

それは、搾取の仕組みをまったく隠蔽しないからだ。12時間働かされて(絶対的剰余価値の産出)、3時間しか給与明細にカウントされていなかったら(相対的剰余価値の産出)、いくら物わかりのいい人でも納得はすまい。
ましてや、企業は業績絶好調、史上空前の利益などといわれたら「ぶち切れ ええかげんにせーよ」だろう。

このように資本が労働を搾取しているという真実があけすけになるような方法はぐあいがよくないわけだ。封建社会では領主様の趣味嗜好で贅沢者や、欲深い好戦的な領主を戴いた領民は重税に苦しむわけだが、それは実に明快なかたちをもってやってくる。年貢としてより多くのものが収奪されるというかたちで。仕舞には生活できないほどに収奪された領民は一揆となるわけだ。社会の仕組みがシンプルなら怒りの矛先は明快でその行動も実にシンプルだ。

上記の理由から、おしなべて何処の国にいってもドルとかユーロとか円や元という観念的通貨単位をもちいるわけで、原理論レベルでは、生きてゆくのに精一杯のお金しか貰えないのに8時間の労働に対する報酬であるかのように当然のごとく支払われる賃金に労働者は納得してしまうわけなのである。そのほかにも、この搾取に煙幕を張る効果を有しているものは「自由」とか「平等」とよばれるイデーが果たす役割も非常に重要なのだが、それについては回をあらためてとりあげることにして、かくも貨幣というものは罪深きものなのである。

さて、追記なのであるが上のお話を足がかりに東西氏の質問に若干ながらサジェストをさせていただこう。

貨幣は労働証書のようなものに暫定的にとってかわられるのではと思う、あくまで推測の域をでないが。労働証書は上記の論のように労働時間を表記したもの、8時間働けば8時間ぶん報酬を頂くことを前提とする。なお社会資本の維持、拡充、更新。社会機構を維持するための機構(官僚機構にとってかわるもの)をのコストは税のようなかたちで公明正大に徴収されるものであろう。

その前提となるものは、生産手段から暴力的過程をへて引きはがされた歴史的事実を乗り越え、いまいちど労働者や人民が我と我が手にそれを取り戻すことが必要。

労働と生産手段が分離されたシステムがなければ搾取はなくなり、貨幣は二つの意味で必要がなくなる。一つは蓄積されて資本となり搾取を行う機能、もう一つは流通の媒介として抽象的な単位をもちいて搾取を隠蔽する機能。なお、交換と流通は継続される、完全なる等価交換の実現となる。貨幣に現象的には労働証書は似たような印象を持たれるかも知れないが本質は全く異なることは、上記の論のとおり。

労働能力の高低に関して、マルクス経済学は労働の社会性という視点から論じられるものである。したがって私が毎週楽しみにしている、医龍の主人公朝田龍太郎のようなミラクルな外科医は論じられることはない。ベテランの脳外科の先生と駆け出し研修医の脳外科の先生も同じ先生である。なぜなら、ベテランの脳外科の先生も駆け出し研修医の脳外科の先生のときがあったのであり、駆け出し研修医の脳外科もやがてベテラン脳外科医に成長するのであるから。そして、やがてベテラン脳外科医の先生も目がしょぼくなったりして一線からはなれ後身の指導へと軸足をうつしてゆくにちがいない。マルクス経済学で対象とする社会的労働とは、その社会の平均的技量といった抽象的な概念をもって語られるものなのである。それに相応した実体は個別具体的に存在しているのだけれどね。その辺の差異にこだわると本質にたどり着くことは難しかったりする。もちろんそのことへの批判もありはするのだが。

賃金を軸にかんがえても、それぞれのステージでは確かに倍半分くらい違うかも知れないが、生涯レベルで見た場合、一生涯に獲得される賃金合計は平均値として語られるようなものである。そのへんは「労働力の価値ってな~に?」をコメントかえしも含めて参照されたし。

最後に 「資本主義社会における賃金体系の改善策を労働組合が積極的に使用者と話し合うことについてどういう態度ですか?」この点に関しては、政治的問題にして、労組自体が解体的惨状に追いやられつつある現状にふまえるならば、あっさり一言でサンジカリズムはナンセンスなどと数十年前の主張を展開できないということはある。これに関してはしかるにのちのちの宿題と言うことで。

最後までおつきあいありがとうございました。お約束の猫さんを貼っておきます。癒されてください

猫団子 なな のんの こう
猫団子


ワタシの猫遍歴 続き物 その5
ウリと共に暮らして2年たったある寒い2月のすえ、私は家の近くで小さな三毛猫をみかけた。三毛猫は一瞬目を合わせ、走り去っていった。

その二日後私はベランダで泣き叫ぶ猫の声を聞いた。外へ出てみるとあの時の三毛猫だった。キャットフードを少し離れて置きその場をはなれると、そっとちかづいてきてカリカリと食べる。口が小さいのか食べずらそうだが一心不乱にたべる。それを見届けて、家にもどった。鳴き声はしなくなった。どこかへいったのかなと思った。

小一時間ほどすると、みぞれまじりの冷たい雨が降り出した。すると、玄関の方で猫の鳴き声がした。玄関を開けると、あの三毛猫が雨に濡れながら真っ正面に私を見据えるように座っていた。私の心の中で何かが弾けた。ゆっくりと歩み寄り手をさしのべたら、すんでのところでその子は逃げた。

でも、またちかづいてくる。もう、手をひっかかれてもかまわないと思いしっかりとその小さな体を思いっきりつかみ抱きしめた。小さな命の鼓動が伝わってくる。ダウンベストの懐にしっかりと小さな体をしまい込み玄関をくぐり、もううちの子だからね。と小声でつぶやいた。

はじめての、雌猫であった。さんざん悩んだあげくに巫女=「みこ」という名前をつけてうちの子になったのだった。プロフィールの写真に使っているのが「みこ」です。

保護してふた月ほどたった頃の凛としたお姿 この頃デジカメゲット
みこ


まだやんちゃな小娘 意地の悪そうな目つきが可愛い
みこ2


つづく

10年20年先を見つめて
肩こり指数 ★☆☆

さて、何を書こうか。そういえば、明治維新の記事をあげたきりそのままになっておった。

明るい明日にむかっての明治維新考で結局のところ私が言いたかったことは、日本が国家として形成されてゆく過程は、とびぬけて目的意識に貫かれた過程であったということなのだ。

個々の人物、事件などの事象や、ジグザグした政治的ななりゆきをみると事は複雑を極めるが、それらを経済というフィルターを通して一本の糸で繋ぐならば、極めて最短距離の工程表にのっとり「栄えある」日本国の建設は達成されたのだと感じている。

さて、ここで、読者の皆様にお詫びを申し上げておかねばならない。じつは、その2で資本の本源的蓄積の悲惨さを表現するために、イギリスを例に引いているのであるが、それは正統マルクス主義的なスタンスであって、私の本来の立ち位置にそぐわないものであり不適切であることを明らかにし、謝罪させていただきます。「どーもすみませんでした」
ただしくは、遅れて資本主義をはじめても、先進資本主義国からの技術の導入、資本の導入により、本源的蓄積が不十分でも国家信用によって短時間に資本主義社会の一丁上がりとなります。
た・だ・し 庶民が大泣きをみなくてはならないことは、なんらかわることはまったくありませんが。

話をもどしますが、江戸300年の余韻がまだ残る当時の地方分権社会にして、国家としての意識など皆無に等しかった状態から近代国家としての、官僚制と常備軍そしてそれのよるところの中央集権を構築し、そのもとで、法や教育、税制などの社会機構を整備し、庶民にも国民としての意識をたたきこむ。インフラを整備し殖産興業をおこなう。
この壮大な難事業をたったの20年でやりきった。決して運がよかったではすますことができない強力な意志の力を感じてしまうのである。

また、ちょっと話は横にいくのだが、ちょくちょくのぞかせていただいている津久井先生のブログのとある記事http://tukui.blog55.fc2.com/blog-entry-376.html#commentのコメントで、内村鑑三が日清戦争を「義戦」として支持していたという事実が指摘されている。この事実は、江戸幕府日本にとってかわり明治政府日本国として成立してゆく過程でのナショナリズムの高揚が欧米列強のアジア諸国への支配に抗するものとして、疑うことを知らぬほどに全国民の心の奥底まで叩き込まれていたとことの証左なのである。そのことへの公的教育の果たした役割は極めて重要であったし、であればこそ時の政府がいち早く学制をひいたことは、狙い通りであったとしかいいようがない。「英国の支配から解放するよ~」とか言って始まった日清戦争のあまりに悲惨なその様に、内村鑑三はその欺瞞にを見抜き以後、反戦平和を訴え続けたのだ。

さて、話をいまいちど戻そう、とかく、あまりぱっとした評価をいただけないニッポンの官僚サンたちなのだが、私は壮絶な力を秘めていると思っている。近代日本国の創世と敗戦帝国主義日本のスタートと2度の伸るか反るかの危機を切り抜けてきた経験は、いまでも霞ヶ関の周辺にしっかりと蓄積してあるにちがいない。「日本の頭脳」をなめてはいけない。

このたびのごたごたに見るように華やかな政界にくらべたら○ヤシのような歌舞伎者をべつにして、表に出ることの少ない官僚サンたちは、これまた「地味」な財界サンの貴重な「ご意見」に忠実に報いるべく、工程表にもとづいて、粛々と準備を進めているように思われるのである。

その準備は、実にコイズミ政権の登場をもって、益々系統的にして全面的なものとなった。改憲を一つの大きなヤマ場と捉えた場合、そこへいたるに障害をなす堀をいたる方面から土砂を運び込み埋め始めている。刑事司法、教育、自衛隊、原発、労働問題ざっと思いつくだけでこれらの分野で歩調をあわせるかのように、戦後民主主義とそれをささえる諸権利が怪しげな「構造改革」の名の下に取り崩されてゆく、マスコミもそうした歩みにすっかり同調したようだ。財界直結のマスコミであるのだから当然といえば当然の帰結であるが、その姿勢はこんにちあまりにも露骨だ。

私たちは、いま個別の分野、個別の事象にとらわれてはならない。私たちの自由への包囲網は少しずつ狭められてきている。足下や目先にとらわれてはならない、はるか10年20年を見越して国は進んでゆく。10年20年の先を見る目とまわりを見渡す心がないと、気がついたときは遠い異国の地でなぜか銃をかまえて立つ自分にビックル一気のみになるかも知れないよ。

今日は猫さん貼っておきます。癒されてください。


らくちんらくちんは三毛猫のんの
らくちん


おまえはトドか? 後ろ足がまっすぐ後ろをむく三毛猫のんの
うしろあしが


しょぼい秋その5
みなさん、お元気ですか? すっかり秋も深まり朝夕寒くなってまいりました。風邪なんかひいてませんか。
週末となりました、皆々様の一週間の賃労働の疲れを癒す一助にとバラを貼っておきます。癒されてくださいくださいませませ。

えっ!! いったいバラが何本あるかって? 100はこえていますが、正確にはかみさんの糾弾が怖くて掌握できていません(笑)

イングリッシュローズ コテージローズ
コテージローズ


ブルボンローズ クロン・プリンツェッシン・ビクトリア
クロン・プリンツェッシン・ビクトリア


モダンローズ グルスアンアーヘン
グルスアンアーヘン


イングリッシュローズ グラハムトーマス
グラハムトーマス


年を重ねてわかること
肩こり指数 ★★☆

年寄り臭いことをいうようだが、年をとってわかるというものは確かにある。よく世間一般でいわれることで、私もさんざっぱら若い頃、オヤジ連中にいわれたもんだ。「年取ったらわかるよ」って。

さて、そんなことの一つに、フェティシズムというのがある。とはいっても、パンストとか、履き古した靴下などなどに特別な感情を呼び起こすことではない。「物象化」とか「物神崇拝」とかいうところの経済用語のことである。

このフェティシズムというのは、資本主義社会を端的に特徴付けるキーワードのひとつなのだが、一言でいってしまうと「お金が好き」「お金がなによりも大事」ということになろうか。人様の命を力ずくで奪っても、「お金」を得ようとする殺伐とした事件が絶えないことからもそのことはわかろうというものであるが、それくらいのことは年を経ずとも若い頃からわかっていた。最近になって実感をもってわかったのは別のことなのだ。

資本主義社会はその成り立ちにおいて、旧社会の土地を軸とした共同体的な人間の結びつきから、人間を土地から引きはがすことによって解体し、いくつかの礎の一つをを築き上げた。
土地から引きはがされた人間は、生業を失い浮浪者としてあふれ、いわれなき迫害を受けたことは以前のべたとおりだ。そして、彼ら彼女らがすぐそこまでせまっていた機械制大工業の勃興に労働力として不可欠な条件であったことも。

圧倒的大多数の人が、いわゆる「勤め人」となったのはこの時、機械性大工業の勃興が始まりなのである。労働者の歴史的誕生である。と同時に、フェティシズムが世界を覆い尽くす始まりもここにある。

旧社会の土地と作業用具一式の私的所有と労働の自主独立性、そして、いまだ低いレベルの生産手段とそれによる低い生産力規定された、「たすけあい」、「もちつもたれつ」といった精神に基づく共労は粉砕され、結びつきを断ち切られアトム化した個々人をふたたび結びつけたものは、賃労働でありそれによってもたらされる貨幣であった。

自ら生産手段をもたない労働者は、資本に労働力を売らねばならない。そして貨幣を得て衣食住の消費手段を得なくてはならない。もはや自給自足はなりたたない、材料はお金をださないと手には入らない。村はずれにある、かつてみんなのものだった木になるリンゴは勝手にとってはならない。いまでは、その木にはすでに私的所有者がいる。お金と交換だ。

もはや何を手にするのにも貨幣が必要なのだ。「人と人の結びつきを貨幣が仲介する」「貨幣によって人と人が結びつく」これをフェティシズムとマルクスはよんだ。それは、「寛一お宮の世界だ」

私が若い頃、そう、これを学んだ学生の頃はこのことに実感がなかったのだ。いまは、こんなご時世だからそうではないのかも知れないが、すくなくともあの頃の私の大学は良しも悪しくも現実社会から隔絶された世界だった。社会の常識に頭を垂れてなんぞ学問ができようかという気運がまだ残っていた。ちょっと話は脱線するが、このことに絡んで内田樹氏が教育問題に関して非常に興味深い考察をおこなっている文章があるのでついでに紹介させていただこう。http://blog.tatsuru.com/2007/01/20_1145.php

そんな、大学はさながら、古代ギリシャのように、社会を支える奴隷の存在をすっかりと忘却した市民社会だった。しかしであるからこそ、学問の自由は保障され、学生同士は銭金抜きであればこその深い友情をはぐくむことができた。それでよいではないか、人生においてほんの一瞬のことではないか。すぐに輝かしい「未来」と「賃労働」待っているのだから。

ちかごろ、いよいよ老眼鏡をかけないと本が読めなくなった。そんな年になってふと、まわりを見渡したとき、はっと気がついた。銭金が一切関わらない人間関係ってどれくらいあるだろうって。正直なところ、地域のつきあいと、学校の友達くらいだ。しかも、そのどちらも年々関係が薄くなっているのは、私個人のキャラに帰すべき問題だけでもなさそうだ。

あ~あ、「貨幣が人と人を結びつける」ってこういうことなんだなと思ったわけなのである。皆様方もいちどはまわりをそんな目で見渡してみられるとよろしいかも知れない。寂しくなっちうかな

このフェティシズムとやら、単なる人間関係を取り結ぶにのみならず人の意識をも支配するものであるから実に根が深い。町内で顔があっても挨拶できない若者も、バイトでコンビニレジをすれば満面の笑顔でいらっしゃいませということになる。そのことがさして不思議なこととおもえない人は多いと思う。さて、この続きは気が向いたらということで今日はこれまで。

おつきあいありがとうございました。お約束のバラを貼っておきます。癒されてください。

イングリッシュローズ クロッカスローズ この苗の売上金の一部はガン患者救済のための施設クロッカス財団に寄付されるそうな
くろっかすろーず


秋晴れの一日
小沢氏が続投を決断した。私が小沢氏を支持しているわけではないのは先に触れたとおりだ。だが、氏の政治的な思惑の有無はべつにして、恥を忍んで前言を撤回したことは大きく評価したい。

とりあえず、参院選の歴史的勝利を崩壊させるような最悪のシナリオは回避することができたのだから。

留任を要請した側の思惑もさまざまに見え隠れするするところではあるが、すくなくとも党内部のメルトダウンだけは、これまた回避することができたと思う。

そもそも、「市民運動崇拝主義者」の私がスキップ、ランランラン♪ でさきの参院選で民主党に一票を投じたのはアベシーの爆走内閣にブレーキをかけなければ、という切実な危機感にもとずく庶民の精一杯の政治的判断だったのだから。

とりあえず、このことをもって事は収束に向かうであろうし、向かってほしい。そして、さらに願わくば民主党は、このすったもんだを「災い転じて福となす」の気持ちで支持者の一票に答えるべく頑張ってもらいたいものだ。

同時に、我々庶民も目を離してはならない。民主党はコアのなかに自民党と同じDNAを引き継いでいるのだから。ということを、あらためて強く確信した出来事であった。

いまだ、仕事を2~3日休んで国会前に大挙して人が集まり、思いを口にすることができるほどに庶民の政治意識の高まりがない以上、いましばらくの時間が必要なのだ。
沖縄の11万人の決起が多くの庶民のものとなるまで、まだまだ時間がかかりそうだ。

と思った穏やかな秋晴れの一日でした。バラ貼っておきます、癒されてください。

ノアゼットローズ マダム・アルフレッド・キャリエール 強健なつるバラ
マダム・アルフレッド・キャリエール


たかが猫、されど猫
今日は、ふくの命日だ。とらじまの猫だった。
一昨年の12月の始め保護した4姉弟の末っ子だ。わずか1年たらずの家猫生活だった。
じつに、たいしていい思いもさせてやれず後悔することはとても多い。

だれよりも臆病で、気むずかしくて、何をするのも一番最後、一人でいることが多い子だった。それが、彼のキャラだと思っていたのだが本当は具合が良くなかったのだろう。とおもったのは去年の今日なのだから、まったくダメダメな飼い主である。

先天性腎機能障害を持った子だったのだ。保護してから3ヶ月のち去勢手術をした。まったく人慣れしていない子なので、完全武装で捕獲した。部屋は修羅場と化した。そして、動物病院へ血液検査では、腎機能の数値がすこし悪いですねと言われた。捕獲のときの白兵戦のすさまじさを説明したら、それが原因かもしれませんね。とのことだった。

ひきこもることのがおおかった、大声で泣き叫ぶことも。ほんの少ししか触れない子だった。夏をすぎ、秋の深まりとともに毛並みが悪くなっていることに気づいた。食の細い子だったからいっぱい食べてくれるように工夫したのだが駄目だった。

10月も終わりの日、突如として食べられなくなった。食べたいそぶりをして口を運ぶのだが食べない。あににく週末だったので、週明けいちばんに、かみさんに動物病院へつれていってもらった。あの決して人に触れさせることのなかった彼が、おとなしく抱かれてケージに入ったという。

仕事からダッシュで帰り、かみさんにどうだったと聞いた。もしかしたらもう駄目かも知れないという気持ちが渦巻いていた。答えは悲しくもそんな悪い思いを追認するものだった。先天性腎機能障害、脱水状態に低体温、手のほどこしようはなく重篤な状態だと、鎮痛剤をうってもらって帰ってきたとのことだった。

叫びなく彼を私はそっと抱き上げ膝の上に置き、そっとやさしくお腹をさすった。とても軽くなったからだと、艶のないぼさぼさの毛がなんともやるせなかった。
お腹をさすってやると、うっとりとした顔をして目をつぶる。ふれあうことが叶ったのは余命幾ばくもない頃とは、悔しいやら、情けないやらで涙が頬を伝った。

彼は翌日には、水も飲めなくなった。夕刻にはうずくまったままになり、やがて、体を横たえるようになった。衰弱は目に見えてすすんでいった。

最後のお別れの日、ちょうど一年前の今日の朝、もはや彼に意識はなく、毛布の上で体を横たえたまま、のこされた命を全力で生きているようだった。もう頑張らなくて良いよ、一生懸命頑張ったんだから、何もしてやれなくてゴメンと何度も何度もつぶやいた。

泣く泣く後ろ髪を引かれる思いを断ち切って仕事に行った。ダッシュで帰えると。彼は、まだ頑張っていてくれた。意識はもうないのだろうと思うのだが、声をかけるとかすかに反応がある。でもとても体はつめたい・・・ にゃ と小声でないた後手足をつっぱるようにして彼の体から、魂は天へとのぼっていった。生涯はじめて家でみとった子であった。

ずっと寄り添ってきて、命ってなんなのかまた考えさせられたできごとだった。
たかが猫、されど猫なのだ。

左がふく 右がこう 二匹あわせて幸福
いつもいっしょ


手前がこう 奥がふく
いつもいっしょ2


ちょっと毛並みが悪くなっている 気づかなかったゴメン
ゆうすすみ


まっさお
そういえば「大連立」のことですっかり忘れていたのだけれど、あの日の昼頃マイブログへアクセスしたら、あの白地に黒の横文字で「サーバーがなんとかかんとかエラーでアクセスが拒否されました」とかでて、真っ青。何度トライしてもおなじ、すっかり削除されたと思いがっかり。

これってサイバーテロ? 言論弾圧? そんなに過激な言論は展開してないのだが、こんなのリベラリストが勢い余って左側の側溝に片足つっこんじゃったくらいのレベル。はっきり言ってもっと政治的に過激なブログは他に幾らでもあるじゃん。と不満たらたら途方に暮れた。

まあ、しょうがないかと気を取り直し昼飯をいただき、未練たらしくアクセスしたら、「いま、アクセスが集中してるからまってチョ」だって。うううっそ!アクセス集中するほどたいしたブログじゃないじゃんか~。ランキング登録してもいないし。そんな、可燃物満載の記事はまだ上げてないぜ。またも、不満たらたらバラの写真を撮りに行く。

小一時間してもどって、おそるおそるアクセス、でたーマイラブリーキャットの御尊顔。ほっとしたのでありました。たった、はじめて一週間でも一週間と言う「歴史」の重さというモノがある、とかく懐古趣味の私には、その重さというモノがとても重い。

さて、この拙いブログに訪れてくださる、先輩ブロガー諸氏に伺いたいのだが、こんなことってよくあるんですかぁ? と言うお話でした。

しょぼい秋その4
堅いのやら、暗いのやら、悲しいエントリーが続いたのでいつものバラを貼っておきます。癒されてください。

イングリッシュローズ アブラハムダービー
アブラハムダービー


イングリッシュローズ アンヌボレイン
アンヌ・ボレイン


イングリッシュローズ モリニュー
モリニュー


イングリッシュローズ ウインチェスター・キャセドラル
ウインチェスター・キャセドラル


虫害と病気で葉っぱがない、したがって花が少しか咲かない。
これを、学術用語で「しょぼい秋」という。もちろん嘘
しょぼいわけ


あっさりやめんなよな!小沢
とはいっても私は元来、小沢氏が好きなわけではないし、いまさら辞めるって言ったってどおってことはないのだが。まずいのは民主党の屋台骨の細さがこの肝心なときに露呈したしたこと。寄り合い所帯だから仕方ないと言えばそれまでだが。これは、想定外だった。こんなにもろいとはね。

ペナルティー覚悟でそれ以上の効果を見通し、かくのごとき大技をあっさりと打った福田氏の政治センスに連チャンでびっくり。
どろどろに流動化するだろうな民主党。しばらく目が離せない日がつつくだろう。
それにしても、追い風が吹くときまって帆をたたむ民主党に激しくがっかり。

権力はおそろしいね。まるで、指輪物語の指輪

ワタシの猫遍歴 続き物 その4
黒猫くろっぴぃを小さな庭の片隅に埋葬し、木を植えた。小さな小さなゴールドクレストだ。おっきくなれなかったこの子に今度はおっきく育ってほしいという思いをこめて。

心にぽっかりと穴があいたまま、呆然とひと月が過ぎた。どうしても猫がほしい。
そんな思いが頭をいっぱいにして、私は来る日も来る日も、里親募集の掲示板を眺めて暮らした。

捨て猫、野良猫どの子もとてつもない不幸を背負ってきた子ばかりだ。やはり、東京、大阪などの大都市ではたくさんの募集があるのだが、近県のかたという条件がおおく、掲示板をただただながめて暮らす日々がつづいた。そんなある日、遠方でもいいですよと言ってくださる、保護猫活動をしておられる方がいて、話はいっきにまとまった。

その方の職場にすてられた、小さな二毛猫(通称サビ猫)で、おなかをすかせて、へろへろになりながら、通りすがりの人に泣いて訴えていたところを保護されたとのことだった。
私の気持ちは一気にもりあがった。

ちょうどそのころ、偉大な領主様ウリさまは、前足の肉球に怪我をしていた。彼はどうしても領地の見回りにでなければならないこともあり、怪我はなかなか治ってくれなかった。おりから、保護主さまから先住猫は、猫エイズ・猫白血病の検査をうけておられますかとの問い合わせをいただいていたので、検査をかねて治療にと、ちかくの動物病院へと足をはこんだ。

ウリは猫エイズに感染していた。猫白血病の感染はなかったものの、私は凄まじい衝撃をうけ、頭が真っ白になった。おそらく、うちの近くに捨てられて、保護するまでの半年ほどの間に感染したのだろうと思った。

私は、泣く泣く事情を話し、保護主さまに里親の辞退を申し入れた。思いもよらぬドタキャンにただただ申し訳ないばかりであった。気持ちは深い深い海の底まで一気にもり下がった。幸い二毛猫さんは、保護主さまの近県でとても良い里親さまに恵まれたことがせめてもの救いであった。

それから、私は猫エイズに関して情報を集めまくった。そして、ウリを完全室内飼いにすることをきめた。それは、闘いだった。領地の見回りを激しく要求する彼は、それが拒否されると、家具、建具に爪をたてまくった。心を鬼にしてそれに耐えた。どうぞやってくださいな、と気持ちが開き直ったとき、彼は私たちに歩み寄ってくれた。私たちは、そんな彼に、病気が発症しないよう気をくばりながらずっとよりそっていこうと決めた。

ウリげんきです 顔がまじ
ウリげんきです



昼だろ めしくれよな~
めしよこせ


つづく

なめんじゃね「大連立」
「大連立」これを書かずして、何のためのブログかということになろう。
本当は猫さんシリーズいこうと思っていたのだが、それどころではない。

情報も不十分で、十分な深化もしていないメタな状態であるが、赤福餅問題のように「ミネルバの梟」というわけにはいかない。

米国のパシリがごとき油注ぎのために、政党政治を解消するような大連立は、大政翼賛会へ道をひらくものであり、戦後民主主義を根底から踏みにじるものとなるであろう。私は、この福田首相の蛮行・愚行に怒りを爆発させた日本の民衆の一人であることをここに明言する。

とんでもないことである。今回は民主党が権力獲得寄り合い政党であることが「幸い」してか、お流れとあいなったわけであるが、もし、これがなるようであれば、それはもう間違いなく歴史を画する大事件だ。政党政治も民主主義もおわりだよ。数年に一度の参政権の行使において、選択肢はとてつもなくタイトになる。挽回のチャンスはなきにひとしいものとなる。

私は、ホソギ某のような「予言者」ではないが世界大戦が三度やってくると思っている。資本主義社会は、自らの矛盾を蓄積しつづけ、それを恐慌ー戦争へと転化することによって、生まれ変わる。昨今の国際情勢、国内の政治・経済動向に鑑みて残念ながら、システムに変更はないようだ。

そのような認識のうえで、大連立ー大政翼賛会への道はいずれ避けて通ることができないとおもっていた。それをもちろん黙って許すようではそこでおしまいだが。
まさかここでこのときに、勝負手をうってくるとは思わなかった。夕飯くっててテレビの速報のテロップを見たとき思わず茶碗をおとしちまった。可能性は想定していたが「やられた」これが私の第一声だ。
幸いこの福田クーデターは未遂に終わり、防衛省のおいしいお話とセットで国民からの手厚いペナルティーを頂くことは想像にかたくないが、意外だったのはかくのごとき大技をあっさりと打った福田氏の政治センスにちょっとびっくりだった。しかしそれは、本質的には福田氏の土下座キャラに帰される問題ではなく、まず私自身そうなのだが、米国のパシリがもつ事の重大さをクールな頭で考え尽くさねばならない。戦争はすでにはじまっている。そして、我が国ニッポンはしっかりとお先棒にしがみついて離れたくないのだと言うことを。

失敗だ~
どうもキーボードがいまいちだ。ストロークが浅い、押したときのカチカチというやる気をそそる音が出ない。昇天キーボードと違いアームレストがついていないので、手のポジションがちょっと違うことが大きな違和感を生んでいる。

と、さまざま愚痴が出るわけなのだが、私はタイピングが早いわけではないのでどれでもいいやと高をくくって購入したのがこのざまなのである。

そこで、昇天キーボードからアームレストを取り外してつけてみたがつくわけないよね。そこで、アームレストを買いに行ったのだがこれが失敗の上塗り。形状は竹踏み健康器みたいな半円中、低反発素材それを購入したのだが、今度は手の位置が高すぎ。まるですり鉢のほとりに手のひらを置いてすり鉢の底のゴマを指ですくい取る感じ。文字で表現することのもどかしさを思いっきり感じるのだが、とにかくかつて経験したことのないような特異なタイピングスタイルとなるわけだ。でもって、あっさりボツ。竹踏み型アームレストは椅子の背もたれに貼り付けて、ツボを刺激するために使っている。

教訓としては、キーボードにはそれなりの金を投じるべきなのであろう。やはり、思考を妨げない程度のタイピングが保証できるかできないかで、記事の上がり速度が全然違うしより重要だとおもうのは、その違いが記事の内容にも及ぶからだ。考えたことがさくさく文字になってくれるとその分、思考のほうにエネルギーが割けるというものだ。まあ、そうは言っても私の場合、土台たいしたことが頭に入っていることはないので、たかがしれたレベルではあるのだが。

キーボードで文章を生み出すことを生業としておられる方々はキーボードにいかほどの投資をするものか?またそのキーボードはいかなるものであるのかとっても興味をそそるものである。レノマのシートとか、ライカのカメラとか、ハーディのロッド、日清のカップヌードルとかそれぞれ傑作というものが工業製品にはかならずあるはずなのだから。



貧乏人に合う機械などない!人がそれに合わせるのだ!(薩摩長州)
きいぼおど


頑張れ赤福
肩こり指数 ★★★

赤福餅の話いきます。たわいもない話でいこうとおもったのですが、肩こり話になりました。苦悩していた難解な点は主観で突破しました。


赤福餅の話をしてみようか。なにをいまさらかも知れないけど。
うまかったんだろうな、赤福餅。先輩ブロガーココロさまも絶賛してたからな。
将軍吉宗のころからつくってたらしい、天皇家、将軍家献上品だってスゲー!

この最後の将軍吉宗以下の下り、今回の一件が知られる以前は世間一般でありきたりに言われてきたことだろうと思うのだが、このことにどんな意味があるのだろうか。

わりとあっさり結論を先に言うと、私はないと思う。すごいとは思うけどね。
本日開店のあんころ餅屋でも赤福餅より安くてうまい、おなじくらいうまい、ちょっ及ばないでもいいのだ。それが資本主義社会というものだ。

そいじゃあ何故凄いと思うか。これは、実にややこしい問題なのだ。だが赤福さんのこの件は普遍性がある。どこの歴史的伝統のある老舗も直面している問題じゃないかと私は思う。

代々受け継がれてきたものを継承するということは並大抵のことではない。とりわけ赤福さんのところみたいに封建社会から継承してきたとなればその努力はとてつもないものだったに違いない。なぜなら、封建社会と資本主義社会では、海と陸地くらいの生存環境に断絶があるからだ。よくぞここまで生き残ってきたと心ならずも賞賛したいくらいだ。
では、その断絶とはなにか?利潤を追求しそれをもって、拡大再生産をして並み居る同業者を駆逐してゆかねばならないということだ。そして、そのことはとりもなおさず商品の価値はめまぐるしく変化させ、景気変動の荒波となって襲いかかる。生存競争も気象変動も一見荒れ狂う荒波も水面下ではおだやかな海とはわけが違う。

原理論レベルでは、赤福資本のような小資本(中小零細企業)は想定されない、それは市場原理のもとにあっては、大資本(大企業)へと進化をとげるか、いち労働者へと解消するかという文脈でしか語られることはない。

では、赤福さんに大資本への道はあるのか、wikiをのぞいてみたら赤福餅の製造写真がのっていた。なんと、工場制手工業ではないか。まあもっとも、歴史的伝統をウリとする宣伝用のフォトであるから予想通りとはいえるが、餡と餅は機械化されている可能性もある、ない可能性もある。ただ製品の仕上がりをつぶさにみるに手工業であることは推測できる。しかし、しょせん製造工程は、赤福餅を食った事もない、ましてや実際に製造しているところを見たことがないものがとやかく言っても推測にしかならない。注目すべきは製品の流通過程の中にある。

一つ目は歴史的伝統にこだわった保存料をもちいない生菓子であるということである。しかも、歴史的伝統にこだわった「できたての美味さ」を保証するということなのか賞味期限の設定は2から3日ということである。これでは、工場制手工業の限界を突破して機械性大工業への移行はむずかしい。POSシステムを導入し、ジャストオンシステムを導入しても物流にかかる物理的な時間だけはどうすることもできない。

二つ目はそのような製品の性格に規定されて、製造過程以降の流通過程と販売過程を分離することができないのだ。これでは、大量生産された赤福餅を大量に市場に投入することはできない。機械性大工業のように製造過程だけを担い、製品を流通資本とそれにつづく商業資本に委ね。さっさとお金を回収というわけにはいかない。やはり、短い賞味期限がネックとなる。

赤福さんは、歴史的伝統にこだわりその看板を守り続け赤福餅を製造する限り、その源となった封建社会のころのように、手の届くところでしかそれを売ることができないし、売れるだけしか製造できないということだ。

というと、賢明な読者の方々はそれでもいいじゃん。と思われるかも知れない。
ところが、資本主義社会はそんなに赤福餅ほど甘くない。甘党の私は赤福餅は食べたことはないが似たようなものはいくらでも食べたことがある。それも近所のコンビニにそれはある。もちろん「合法的」な保存料入りだ。だれでも知っている。ヤマ○キブランドだ3個パックで比較すると価格は赤福さんとこよりちょっと安い。

このちょっと安いと言うことがだいじなのだ。販売価格はちょっと安くても製造原価は間違いなく赤福さんよりはるかに安い。それは、大手産業資本が大量生産できるから、またそうであるからこそ大手商業資本がそれを扱えるのだ。大量生産は均一なクオリティーを実現しコストを大幅に下げることができる。その結果、赤福さんを圧倒するような量を市場に投入できる。

それに対抗する赤福さんの経営戦略は、その1競争をさけヤマ○キさんの勢力地図の隙間と歴史的拠点を中心に展開する。その2歴史的な地方政界とのつながりを利用してのあらたな拠点作りそしてその強化。軍事的に簡略化していえば遊撃戦と籠城戦だ。どちらも防衛戦争の基本形態である。

さて、軍配はどちらにあがるだろう。世の甘党諸氏は赤福餅とヤマ○キあんころ餅とどちらへ手が伸びるか? それは財布と相談だ。赤福餅じゃなけりゃあ食わんと言う人は、それでよい。財布の重い人も歴史的伝統に裏打ちされた味の赤福餅に手を伸ばすだろう。
あるいは、バブル期の景気絶好調であれば誰もが財布が重いので問題ないのだが、いまどきの財布がちっとも重くならない奇妙な超好景気では、どうなるかというと財布の軽い人の多くは、赤福餅を買わないか、買う回数が減るだろう。一部のマニアを除くことはいうまでもないが。国民総中流意識をコイズミ・タケナカコンビはたった数年でみごとに粉砕し格差社会におきかえたのだから。

赤福さんのところは、保存料をもちいないから需要の変動に弱い、工場制手工業の低生産性のもとでは価格の下限弾力性が弱い。ほんのわずかのようにみえる需要の増減をともなう減退も長く続けばボディブローのように効いてくる。在庫のストックができないから日々の生産の調整はとても難しくなる。当然売れ残りが発生するだろう。これを惜別の念を押し殺して廃棄してきたところに、300年の歴史の重さと誇りそして、凄さが私はあると思う。

創業時の封建社会であるならば、「もったいない」という社会規範は低い生産力に規定されて善であっただろう。ものを粗末にすることは悪であった。現代でも高度成長まえの貧しかった時代は私も親にそう言われた。そうした時代にあって赤福さんは品切れゴメンはあっても決して売れ残りなどつくらなかったはずだ。それはなによりも、自分たちの為した仕事に対する自信であり誇りだっただろうし、お客様にもっともおいしい赤福餅を食していただくと言う精神であったはずだ。そして、その有り様は強固なものとして綿々と引き継がれてきたに違いない。そうでなければ300年の歴史の重さに耐えることなどできはしない。

冒頭のべたが、封建社会と資本主義社会は断絶的にちがう、近年ニーズの多様化などと言われるが基本は昔からのフォーディズムが支配している。多種多様な大量生産に多種多様な大量消費だ。ちょっと違うのは、消費者に費用を負担してもらって、使える部分はリサイクルしよう。ということだ。そんなご時世だから、赤福さんもリサイクルをしてしまったというわけだ。

大企業に対抗する赤福さんの販路の拡大は高度成長期とバブル経済の所産であったことに疑いはない。販路の拡大は必然的に幾ばくかの売れ残りを生じてきたに違いない。しかし同時に販路は増えれば増えるほどそのチャンネルを利用して、短時間に商品を移動できれば需要の大きなところへ持って行って売ることができる。

だが、そんなカンバン方式が可能なのは当たり前のことだがそれに見合うだけの需要があってのことだ。誰もが知るように販売チャンネルは維持をするのに経費がいる。平成の大不況につづき、奇妙な「好景気」で販売が低調に推移したことは疑う余地もない。売れ残りはあっただろう。しかし老舗の意地で廃棄する体力はもはや残っていなかったのだろう。

300年守り続けた老舗の意地を曲げて、売れ残りをリサイクルさせたものは、善意の推測だが「もったいない」の気持ちだったかも知れない。「会社がまずしいからもったいない」という悲しい文脈がそこに見えるのである。

300年守りつづけた歴史的伝統は、認めたくないことだが資本のダイナミズムの前には悲しいほど無力だ。それは、発展を止めることにこそ守られる道があるという転倒した構造を持っている。販売チャンネルを整理し本店とわずかな歴史的拠点を残して伝統を守るという選択肢が私は妥当だったと思うのだが。それにしても、300年守りつづけた歴史的伝統に手をかけた者の苦渋の選択と、それをなした生え抜きの職人さんの苦悩を思うときただただ気の毒なばかりであり。そんな国にした、地方経済を疲弊させたコイズミ・タケナカコンビへの怒りは燃え上がるばかりである。ついでに「美しい国」の御仁はニッポンの伝統とかしきりに言っていたが、かの天皇家ゆかりの伊勢神宮の将にお膝元で300年の永きにわたり守り続けてきた餅屋さんの歴史的伝統などはあっさりスルーするとはやはりその程度のものであったと言うことだ。

赤福さんにはぜひとも生き残っていただいて、伝統の味を守り続けていただきたいものだ。それが、牧歌的な封建社会への憧憬程度のものであっても。

最後までおつかれさまでした。
お約束のバラを貼っておきます癒されてください。

アーリーモダンローズ オフェリア
オフェリア


書けない時もある  (猫さんの写真つき)
おこんばんわ、今日から11月だ。あと2ヶ月でお正月だ。だんだん時の流れが速くなってくるように思う。

一説によると、人生も半分を過ぎて、そう、峠をのぼりつめて下りにはいると、位置エネルギーも手伝って加速がつくそうな。お盆をすぎた夏休みのようなかんじ~ぃかも。

さて、ひきつづきスランプである。書けないときは、書けないのが私の弱点。べつに、どってことないのだけどね。4番バッターでも打てないときは打てないんだから。まして私は下位打線だし~。

じつは、赤福問題で書き始めたんだけど、とてつもないボリュームになってしまう。もう3回論点を変えて書いているのだが、だめだ。理由は説明を長くせざるおえないとってもめんどくさい問題をどうしても簡潔にいえないのだ。記事は論文じゃないし、前回記事のような自己満指数の高めなのもよろしくない。

某冥王星氏がよく書きたいことがいっぱいで書けないっていってたけど、よくわかったよ。

そんな日はお約束の猫さんの写真を貼っておきます。癒されてください。

ひるね
ひるね


なかよし
なかよし


ねおき
ねぼけがお


そうそう、書けない理由がもう一つ。猫さんがキーボードの上にカップを蹴り倒しコーヒーをぶちまいた。キーボード昇天。速攻で買ってきたキーボードのキーストロークにどうもなじめない。誤字の連発に思考が寸断される。罪を憎んで猫を憎まず(水戸の大洗=大笑 寒)
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