たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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大晦日
今年も、残すところ12時間をきった。雪の大晦日である。これからガラス拭きをせねばならない。おおさっむ!

私は大晦日が一年で一番すきだ。連続した時間の流れを365日で区切ることは、遙か遠い昔、人類が狩猟から農耕へと軸足を移してゆく過程で、地道な天体観測から編み出した偉大な英知なのであろうが、とりわけ四季を明確にもつ日本人の心情なのか、一年を365日として締めくくることへのこだわりは、欧米とはまたひと味もふた味も違った意味合いをもっていると思う。

近年とくに思うことは、先だってのXマスでも言っていたことなのだが、「あ~あ、今年も一年大過なくおかげさんで、無事生き延びることが出来た」という、感情的にはサバイバルに近いものがある。まあ、私が不安定な小資本家業をしていることがそれとしては理由なのだけれど、とはいえその形態は限りなくこんにちの格差社会への転換へ大きく道を開いた派遣労働という労働形態に酷似してきている。

派遣労働というありかたは、資本主義的生産関係において本来あるべき姿だ。終身雇用で労働条件が事細かくまもられていたいわゆる、55年体制下での雇用形態は戦後革命の敗北の代償以外のなにものでもない。55年体制の崩壊と金融危機をコイズミ&ヘイゾーは暴力的な過程を通じて乗り切った。その路線を継承したアベシーは民衆の反撃をうけ、戦後もっとも不細工な辞任をして消えた。

年金問題にせよ、薬害C型肝炎問題にせよとてつもなく大きな問題だ。これに格差社会の進展、偽装の相次ぐ発覚、原油価格の高騰に端を発する製品価格の上昇。国内問題をみても、国際社会の激動をみてもとても濃厚な一年であったように思う。

とかく回顧趣味的傾向を色濃くもつ私なので、紅白歌合戦はどうでもよいとして、そのあとの番組である”行く年来る年”を見ながら年越しそばをすすりつつ様々一年の政治・経済に思いを巡らすのを慣わしとしているのであるが、どうも今年はこれからするガラス拭きをしながら思いを巡らさなければ、来年になってしまうようだ。来年は更なる激動がまっている予感でいっぱいでもあるのだけれど。

本年10月半ばより始めました拙いブログではありますが、お付き合いいただきました皆々様に、心より感謝いたすとともに、よき年末年始であらんことをお祈りしております。来年もよろしくお願いします。


ガラス拭きの武器 噴霧器で濡らしてワイパーでかきとる 昔掃除屋でバイトをしていたときの知恵 
凄くきれいになるしかも早くて簡単
ガラス拭きの武器
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大掃除開始
大掃除をしている。第一段階は床の掃除とワックスかけだ。毎年一回この時期にすることにしている。本当はもっと頻繁にかけたいのだが、猫が6匹もいるってーとなかなかワックスがけは軽い気持ちではすることができない。

家をちょうど2分して半分に猫を閉じこめ、床を丹念に清掃しワックスをかける。乾燥したのち、猫さんに移動願ってもう半分を仕上げる。その間の猫のモンクの多いこと多いこと。こうとみこはスペシャルクレイマーだ。てなわけで、とても手間がかかるのだが、如何せん年一のメンテなので絶対に譲ることはできない。

ワックスかけ



朝から大粒の雪がぼとぼとと落ちていた。今日はとても寒い。ちょうどmaiさまのブログをのぞいてみると緊急情報がアップされていたので、転記させていただいた。弱小零細なる私のブログではあっても、チャンネルは多く確保されたほうが情報の獲得には有利だ。そんな思いから、速攻転載させていただいた。今日の寒波の襲来に、この子のことが気がかりでならない。12月初旬に行方がわからなくなったらしい。日数がだいぶ経っている。無事親御さまのところへもどり、笑顔で新年をむかえることができることを心より祈りたいと思う。



園芸モードへ移行
いやいや、忙しかった。昨日、お仕事にようやく区切りがついた。そんなばたばたのなかで、拙さに磨きがかかったような記事にもかかわらず、当ブログに訪れて下さる方々のおかげで、カウンターが1000をこえました。ありがとうございます。

さて、今日は思いっきり朝寝をして、この間の疲労を回復すべくまったりと一日を過ごした。皆々様のご声援をうけ、三毛猫のんのも日に日に回復しているようだ。人間さまが回復軌道にのったとおもっても、猫の世界では病人には冷たいようで、というより動物が生き残ってゆくための知恵なのか、健康な個体は病気の個体を排除しようとする。話には聞いたことがあったのだが、まさか、ずっと生まれてから今日のこの日まで一緒に育ってきた姉弟でもそれがあるのだと知り、いささか驚きを通り越して畏敬の念さえおぼえた。

まあ、三毛猫はデフォでイケズの意地悪と聞いていたのだが、当ブログのイメージキャラのみこは、まさに典型的な三毛猫の王道で、退院してきたのんのを脅しまくっていたが、温厚なうりとなな、いつもはのんのに焼きをいれられていたこうに威嚇されるとはのんのも思ってもみなかったことだろう。

それが今日から、また三匹一緒に猫団子で仲良く寝ていた。まずは一安心といったところだ。


猫団子復活!!
猫団子復活



夕方、園芸資材をホームセンターまで買い出しにいった。毎年年末年始はバラの鉢替えや、剪定、消毒をすることにしている。かなり膨大な労力を必要とする作業なので、この連休中にやってしまわないと無為無策のまましょぼい春を迎えることとなるのだ。全力でお仕事やりきった結果、幸か不幸か新年早々つぎのお仕事の依頼がはいった。ここ1~2年産業予備軍がごとき私の仕事は、新年早々に依頼があることはなかった。

そんなこともあり、わりと余裕で園芸をしていられたのだが、今回の年末年始はちょっとあわただしいようだ。バラは気温が低下する休眠期に春への準備をなしきらねばならない。春にあっぱれとばかりに咲きまくるバラには水をあげて、ただただ愛でていればよいのだが、そのような結果を準備するのは、この寒い時期の地道な手入れが欠かさない。鉢土は2年ごとに替えねば地力が失われる。今年は鉢土を替えねばならない株が多い。癌腫に冒された株も幾つかある、それらは処分しなければならない。地植えの株に元肥をいれて、剪定をおこない硫黄石灰合剤で消毒。あ~あ!めんどくさ。


たぶんこの倍くらいは必要と思われる 左からパーライトとバーク堆肥、牛糞堆肥、赤玉土の小粒
のんのの治療費のため財政難につきとりあえずこれだけでスタート
園芸資材


電気ギター
時々のぞかせていただいている非国民研究開発の非国民さまが、衝動買いでフェンダーのテレキャスのシンラインを購入したことを記事にしておられた。

武装せる園芸家は遠い昔の昔のそのまた昔、ギターリストだったことがある。社会変革運動のさなかにおいて、多くのコレクションをあるときは、友に餞別として、ある時は質草にとてばなしてきたのだが、たった一本手放さなかった電気ギターがいまでも手元にある。

もっとも、アンプがないのでたまにいじることはあれど、好みだった大音量のウーマントーンで低周波の洪水みたいなことは何十年もしてはいない、ちょっと非国民さまの記事をみていて、若造だったころを思い出して涙ちょちょぎれ的感傷に耽ってしまったしだいなのである。そういえば、あのころはみんなギターを弾いてたよな~。それから、だれもが、憧れていたフェンダーのテレキャスター。


コイツものすごく重たい!首からさげて立って弾くと腰痛がでる(涙)
電気ギター

映画をみた
またもたわいもない話をいきます。つい先だって、のんのを動物病院に預けた後、ちょっと時間ができたので映画を見た。いったい最後に映画館に足を運んだのはいつだったろうか。たしか、浦賀にペリー総督が黒船できていたような~、というほど昔ではないが、すぐに思い出せないくらい遠い昔のことだ。

最近おらが田舎にも、ショッピングモールもどきがやってきた。そのワンフロアーが映画館なのだ。あまり大きくはない空間と、あまり多くない全席指定の座席。上映本数が多いという今風の映画館である。こいつがバスで15分、車で10分ほど、Door to Door感覚で行けるようなところに登場したのだ。

てなわけで、かつてははるばる七難八苦をこえ、繁華街まででていって日柄一日を投じ映画を見る手間が不要になったのと、ウイークデーサービスで1000円均一の日を狙っていけばとってもカジュアルな感覚で楽しめるので、ちょっとのってみた次第なのである。

さて前振りが長くなったが、何を1000円で見たかというと、「バイオハザード3」なのである。連続物で1と2をみてしまっていると、続きはだいたい面白くないものと十分に推測できるのは世の常識として、とはいえ怖いもの見たさと、いきつくところまでいってみたい見てみたいおもいでこれをチョイスしたのだ。

そんでもって、感想としては、大音響のサラウンドで頭が割れそうだった。この一点に尽きる。みんなこの臨場感が堪らないらしいが、私にとっては堪らない苦痛であった。まあ、選んだタイトルがタイトルだからまともじゃないのは覚悟していたのだけれど。それにしても、凄かった。
そして、映画の内容はというとこれから見ようという方もおられるかも知れないのでネタばれのような野暮なことはなしということでふれないことにするが、「バイオハザード4」もあるなと予感させる終わりでありました。

帰りの道道、同伴のローザが、最近見た映画では文句なしにサイテーだったよね。気色悪いゲバとテロの連続じゃん。と吐き捨てるようにひとこと。

そ~ぉ♪、ワタシ的には十分満足モードはいってるけど。と私。

アンタはむっかしからゲバとテロばっかりだからね!とローザ。

わるかったね!と私。

たまには、心温まる話でもみたほうがいいよ。なんとかと子犬の物語みたいなの。とローザ。

という具合に感想を述べあっているとき、私の脳裏に去来したものがあった。
市場原理主義の行く末は資本の集積であり、独占資本の形成である。バイオハザードに一貫して登場する悪の権化「アンブレラ社」は究極の独占資本である。この世界にこの企業一社しか存在していない。そして、その膨大な生産力は世界を壊滅させ、人類はほぼ全てゾンビとなる。
ちょっと視点をかえてみると、人類はゾンビと化し自由と平等を獲得したともいえる。その映像の激しさから恒久平和と幸福を獲得したとは言いがたいものはあるが。
こういった形態での自由と平等の実現はゴメン被りたいものだ。
科学技術の発展が人類の自由と平等に裏打ちされた幸福へと導くのではなく、不幸に裏打ちされた自由と平等の実現となってはならない。そのためには、「アンブレラ社」のような「企業」は打ち倒さねばならない。たぶんバイオハザード4ではアンブレラ社は打倒されるんだろうな~といた雰囲気で映画は終わる。と虚実いりまじった戯言でありました。


ミラ・ジョヴォヴィッチはジャンヌダルク主演以来の隠れファンだったりする
バイオハザード3

Xマスイブの手作りケーキ
Xマスイブである。だからってどってことないのは、私が宗教をもたないからで、敬虔なクリスチャンの方が読んでおられたらいきなり憮然とされるかも知れないが、先ずはお許し願いたい。

このXマスイブは私にとって、発泡ワインを飲み、鳥とケーキを食し、プレゼントをかつてはもらい、いまはあげる日以外のなにものでもない。それは、幼稚園児のときからこんにちに至るまで変わらぬスタンスである(笑)。

しかしながら、そんな敬虔なクリスチャンが聞けば激怒するかもしれない内容のXマスイブではあるが、平素宗教とは縁もゆかりもなく暮らす庶民にとって、とても心弾む一夜なのだ。ご馳走とプレゼントがいただける日、ハレの日なのだ。

私が生まれて初めてどこでどういういきさつでXマスを知ったのか、記憶が定かではないが、あのころは前後左右どこをみても皆貧しかった。ケーキと鳥が確実に食べられる日がXマスだった。すくなくとも、私の周辺の人間関係は皆そうした認識で一致していた。

視点をちょっとかえてみるならば、高度経済成長とともに成長してきた私たちの世代は、戦後の復興の恩恵をプリミティブ形態なれどまさに身をもって体感することのできる、そんな日がXマスであったともいえる。

高度経済成長がいきつくところまでゆき、JAPAN AS No.1 などと言われた時代から、バブルをへて、平成の大不況とそれにつづく「構造改革」という庶民に受難のいまにいたるまで、ケーキも鳥もいとも簡単に買える。コンビニができてからはもうその気になれば毎日Xマス状態も可能だ。それも300円ほどで。

あきらかに、スタンスはかわりはしないものの、そこへの思い入れのようなものはかわった。いまから数十年前、ローザ・ルクセンブルク(配偶者)がXマスに鯖の切り身の塩焼きと納豆オムレツを食膳に並べたことがある。それにたいして、私はお膳をひっくり返して「こんなのXマスじゃねえ!」と憤慨したことがある。ローザは学生時代に知り合った頃よりも戦闘性は低下したものの、断固としてそれを片付けることはなかった。
一週間お膳はひっくり返ったままの後、私は自己批判し鯖と納豆オムレツを片付けた。
ローザにとってはもはや、貧しき時代の風習であったXマスはなくなっていたのだ。

私はその納豆オムレツ問題の後もことさら、スタンスをかえることなく今日に至るのであるが、ここ2~3年のあいだに思いが微妙に変化しつつある。それは、いつまでXマスにご馳走がいただけるかなという思いである。そんな思いから、ことしXマスにケーキを食卓に置くことが叶わなかった世帯もあろうことだろうと思いをはせる。格差社会はこんな年一回のハレの日にも確実に影を落としているように思うのだ。

そんなこともあって、うちではことし初めて手作りケーキでXマスにのぞんでみたのである。たしかに結構安くできた。スポンジだけは、失敗してお好み焼きになるリスクを回避するために市販のものを購入したのだが、デコレーションはお手製である。初めての素人仕事なのでそれなりではあるが、ちょっとはまってしまうほどに面白かった。

次回はスポンジも自作してみることにしようと思う。でも、やがて自作ケーキの材料すら手に入れることが叶わないほどの貧困にみまわれたなら、その時こそ、敬虔なクリスチャンとなって神に祈りを捧げるか、あるいは、社会変革の主体として身を捧げるかどちらかとなるであろう。たぶん、後者になるとおもうけれど・・・・


庶民がXマスにケーキも食えなくなったら革命だ!手作りケーキ1号
てづくりケーキ

回復の兆し
あっというまに一週間がたってしまった。ひさびさの更新です。

きびしい一週間であった。仕事も納期に追われ、猫たちの状態も悪く、ローザ(配偶者)との関係も最悪の一週間だった。

それはさておき、まず、あけっちさま、アッテンさま、美也子さま、shiraさま、maiさま、ミッターマイヤーさま、東西南北さま、Landybirdさま、三毛猫のんのと私に励ましのお言葉をかけていただきまして誠にありがとうございました。のんのは先週の水曜日に退院させました。

少々食欲がでてきたとのことで退院させたのだが、はっきりいって状態が大きく好転しているようにみえなかったのだが、このまま預けておいても良くならないような気がしたのだ。はっきり言って、ローザが友達から料金が安くて親切と聞いて連れて行った病院はハズレだったようだ。まあ、あまり詳しく書いても腹しか立たないのでひとつだけ。

決定的な事件はのんのの退院の翌日の夜におきた。再入院に備えて点滴のラインを残しておいた医者の処置が悪く、ずっと私の仕事部屋のラックの下でうずくまっていたのんのが、トイレにでてきたとき、その点滴のラインのついた前足が、3倍くらいに腫れ上がっているのをみてビックリ仰天した。

すぐに前足のボンテージをとらないと壊死してしまう。速攻でタモ網をつかって捕獲を試みるが失敗。医者の評価をめぐって、ローザと激しい怒鳴り合いとなった。小一時間怒鳴りあって、固い意志一致を勝ち取った後は、共同作戦でもって心を鬼と化し、病身ののんのを網で追い回して捕獲。のんのを押さえつけ、とっても大切にしていたフライフィッシング用のライディングネットをあっさりとハサミで切り、点滴のラインのついた前足をその穴からだして、きちきちに巻かれた包帯と、紙テープをハサミで切り取り点滴の針を取り除いた。凄まじいのんのの叫びとともに、まさに修羅場であった。

私とのんのとの信頼関係は完全に崩壊した。翌日から、のんのは私を見て逃げた(泣)。とはいえ、土曜日から、食欲もだいぶでてきて、水もちゃんと飲んでいるようだ。今日は、朝から家の中を徘徊するようになった。まだ、片眼がぱっちりとはいかなし、涙目も少々に鼻水はでるようだが、前足の腫れもひき、元気が戻ってきたように思える。

先週の月曜日から食欲のなかった、三毛猫ななは水曜日には多少食欲がもどり、いぜん鼻水がでるものの今日はおかわりを要求するほどに食欲は回復した。
やはり、月曜日から食欲のなかった、家庭内野良で二毛猫(サビ猫)のぴよも、いぜん鼻水はでるものの昨日から食べ始めた。

ようやく、回復の軌道に乗ったという気がしている。よかったよかった、一安心である。ほんとうに皆々様のあたたかい言葉をいただいたことがとても嬉しく思えた辛い辛い一週間であった。そして、更新を怠っている間も訪れて下さった皆々様に心から感謝であります。


脱衣場の洗濯かごにこもってなかなかでてきてくれないのんの
のんの回復中


鼻水がでるが食欲がもどったなな
なな回復中


回復一番のこう 薬をまぜてあたえた猫缶の味が忘れられず毎日激しく要求!
こう完全復活


病気猫のためにクリスマスプレゼントの猫コタツを早期投入するも利用者は元気なみことうり
ねここたつとみこ


修羅場の跡 タモ網があたって壁に穴があいちまった
修羅場のあと


修羅場の跡 大事にしていたタモ網(ライディングネット) あいた穴が悲しい
修羅場のあと2

「暴力の復権のために」と「薬害C型肝炎集団訴訟」
肩こり指数 ★★★★

私のブログで階級と同じようにしばしば登場してくるであろう言葉に”体制内”という言葉がある。ここでいう体制とは経済システムとしての資本主義を維持する国家体制のことであり、それは国家権力による暴力の独占に担保された、法イデオロギーの支配により「正当化」された体制のことである。

このあたりの仕組みを知るためにいままで、「資本論」をはじめ「家族・私有財産・国家の起源」「帝国主義論」「国家と革命」などを筆頭にさまざま書物に出会ってきた。そうしたなかでも、暴力の社会的本質に関する考察から国家と法の支配を論じ暴力革命の復権を著した、本多延嘉氏の「本多延嘉著作選第二巻」収録されている「戦争と革命の基本問題」の最後に書かれている、「暴力の復権のために」という論文は群を抜いて、他に比類なきほどに素晴らしいものであった。

さて、相互リンクしていただいているアッテンボローさまのところで「戦争と革命の基本問題」を連続物でとりあげておられるのだが、私の浅い理解とそれにもとづく早とちりからいらぬ混乱を招いてしまったことがある。そんなこともあって、以前から紹介させていただこうと思っていた「暴力の復権のために」なのであるが、私という浅学フィルターを介してでは、故本多書記長の意を正しく伝えることができないのではないか、と言う思いとのあいだに少なからざる葛藤をかかえてきた。

今回は意を決して、私が論文の一番のお気に入りとしている部分を誠に勝手ながら、一部引用させていただくことにした。ブルジョア政党ではないので、「著作権」などと言われることはないとは思うのだが、一応、この論文の著作権は革命的共産主義者同盟全国委員会にあることは明記させていただこう。ついでに、ただいま品切れのようであるが¥1900で本多延嘉著作選第二巻は通信販売していることもつけ加えておこう。


<「暴力の復権のために」一部抜粋>
周知のように、暴力の形而上学者と呼ばれるジョルジュ・ソレルは『暴力論』で、いわゆる暴力を「公権力の強力」と、総罷業をイマージュとする暴力とに理論的に分割し、後者のうちにプロレタリアートの神話の復活を要求したのであった。それは、ドイツ社会民主党を中心とする第二インター総体の修正主義化にたいするアナルコ・サンジカリズム的批判の極点をなすものであったといってよいが、だが、このような形而上学的な暴力の区分法によっては、なぜ暴力が国家権力の暴力(法的強制力)という形態をとって完成するのかという秘密をときあかすことはできないのである。
ブルジョア国家がどうして民衆の暴力―それが政治的形態をとったものであれ、非政治的形態をとったものであれ―を禁圧し、解体し、国家的独占に集中する傾向をもつのか、と言う問題は暴力そのものの本質にかかわるものとして解明されねばならないのである。

では、いったい暴力とはなんなのであろうか。暴力とは、じつは、共同性の対立的表現、いいかえるならば、他者への対立を媒介として表現されたところの共同性とみなすことができるであろう。本質的に人間の類的生活を他者(他共同体)との関係において極限的に表現するものであるからして、暴力は組織的な有機性として究極的な表現様式をもつわけなのである。
一匹狼なぞという暴力の美学的な形象は、暴力が支配者の独占的表現となり、抑圧と収奪の武器となり、民衆が自己の暴力性を喪失した状況のなかで生ずる暴力の観念的転倒いがいのなにものでもないのである。暴力は人間の類的性格に根底的に基礎づけられたものとしてのみ暴力たりうるのである。もちろん、人間の人間としての類的生活は、人間生活の社会的生産(それは、労働における自己の生活の生産と、生殖における他人の生活の生産を二契機とする)を根拠として積極的に実現されることはいうまでもない。

悠久の昔から、人間は個に死して類に生きる自己の本質を、社会として実現することをとおして大地の酷薄な試練に耐え、他の動物群との生存競争に勝ちぬいてきたのであったが、生産力の飢餓的な水準に規定された原始共産制の時代にあっては、他の共同体にたいするものとしてはその社会的生産力が暴力として発現したであろうことは否定すべくもないのである。暴力は人間共同体=類的生活の歴史的な分裂に根拠を有するものであり、それゆえ、その止揚はその人間史的分裂の止揚を意識的に推進する過程をとおして実現されねばならないのである。だが、人間社会がその分裂を止揚しえていないかぎりにあっては、他者との対立という粗野な契機のもとでではあれ、暴力が共同体を内的に規制し、その英雄主義を鼓吹する人間的表現であったことを見おとしてはならないのである。人間が人間を搾取し、人間が人間を抑圧する疎外された現代文明の階級的暴力と比較するならば、原始人達の戦争と略奪を主要な形態とする共同体間の交通様式の方がはるかに人間的だともいいうるのではなかろうか。

社会的生産力の発展は、地勢的条件によって制限されていた人間の交通様式をいっきょに拡大するとともに、人間共同体のせまくるしい地方的分裂を克服し、暴力として表現される粗野な共同性を止揚する人間史的前提を成熟させたのであるが、にもかかわらず、こうした前提条件の発展は、暴力の本質的止揚にむかってではなく、社会の階級社会への転化と、それにもとづく暴力の国家的独占をもたらしたのであった。すなわち、社会が階級社会に転化するとともに共同体の幻想的形態としての国家が形成され、それが共同性を表現するがごとく機能するようになったのであるが、それは同時に、共同性の対立的表現としての暴力が、自己を喪失し、自己に敵対する外的な暴力に疎外されていく過程を示すものであった。
ところで、このような暴力の分解、いいかえるならば、生産者からますますはなれ、かれらにたいする支配力として、かれらの剰余労働を略取する強制力として外化してゆく暴力と、支配階級にたいする抵抗と反乱をとおして自己表現を回復していく暴力との分解のなかで、前者のヘゲモニーのもとに後者を擬制的に包摂していく規範的役割をはたすものが、いうまでもなく法の社会的性格であった。もともと、法現象は、国家権力を実体的基礎として統治形態を規範化していく過程であるが、それは、人間史的に再構成するならば、歴史形成の根源的契機としての人間の社会的行動様式を、行動主体の自由な意志にもとづくものから、超人間的で外的な運命力―それは、支配階級の階級意志として現象するのであるが―に規定されたものへと疎外する過程以外のなにものでもないのである。

ところが、このような人間的暴力の疎外された規範化でありながら、あたかも人間行動を超人間的に規制する運命力のごとく現象し、階級利害を貫徹していく法現象にたいして、共同性の対立的表現としての暴力を歴史推転の根源的力として積極的に復権し、宿命的な法規範から目的意識的な人間実践を解放していくという立場と展望にたつのではなく、法を事実追認的に整合化し、その適正な運用によって人間社会の抑圧的秩序を永遠化しようとしているのが法イデオロギーの転倒した構造なのである。(改行は私、薩摩長州によるもの)



ついせんだっての、薬害C型肝炎集団訴訟への大阪高裁によるペテン的「和解」の線引きを断固としてはねのけた原告団の勇気ある決断に感動した。あっぱれだ!自らの命を削ることになろうとも、すべての被害者の救済をもとめて止まない意志こそまさに人の心だ。

たいする、大阪高裁の和解案のお粗末さはなんだ! はからずも、みずから法の支配の破綻をさらけ出すもの以外のなにものでもない。司法の合理性は幻想にすぎないことを満天下にあきらかにしたものだ。行政の長である福田総理のあの他人事のような口ぶりはなんだ!

このことは、さきの記事の階級でもふれたことだが、社会の主人が企業であることが目に見えるかたちであらわれたと言える。そして、その結果、もたらされた薬害が体制内に包摂することができないほどの大きな問題であった場合、国家はこのように民衆を見殺しにするだろう。だ・け・ど・・・民衆の怒りはそんな国家体制にたいし暴力をもって体制を突き破るような闘をもって貫徹されるものとなるだろう。でなければ、すべての薬害被害者は救われることはない。全国原告団の山口さんや福田さんがいついつまでも涙ながらに総理福田に頭を下げてお願いし続けるとおもったら大間違いだ。なめんなよ。

おそらく一生片付かない机の上に置いた「秘宝」著作撰第二巻と老眼鏡
著作選第二巻

苦悩
三毛猫のんのの健康状態が非常に悪い。熱はずっと40度、食欲は絶無、脱水状態だ。
うずくまったきりほとんど動かない。今日は咳が治まっているようだが、目は両眼涙目でぐじょぐじょ、鼻はずるずるである。もう四日飲まず食わずですっかり毛並みも悪く痩せてしまった。誠に不憫でならない。

このままでは、じり貧の衰弱死の危険を感じ、朝一で動物病院につれてゆき詳細な検査と積極的治療をお願いし、のんのをあずけてお仕事へ。

夕刻帰りに、動物病院によって説明をうけた。去年のふくの件もあって「もはや手の施しようがありません」といわれても真っ正面から受け止める決意をもって臨んだ。
検査の結果は、白血球の数が正常値の倍くらいあるので炎症がある。脱水症状が進んでいる。猫エイズと白血病の感染はシロだった。鼻気管支炎と恐らく目の炎症が複雑に絡み合い、症状を悪くしているとのこと。脱水症状を解決することが当面の急務なので、点滴と抗生剤による処置をしたいので入院させていただけたらとのことであったので、お願いした。

のんのとその姉弟たちは、家にきて2度目の冬をむかえるのであるが、いまだに人慣れが十分ではない。ようやくさわることができるようになったが、まだ抱くことはできない。人間との信頼関係は強固ではない。そんな猫を見ず知らずの環境の中に投入せざるおえないことは、そのストレスたるやいかほどのものかと思うし、かかるお金も少々ではない。でも、まだ2歳半だ。助けることができるものならなんとかしてあげたいと思ったのだ。

ここ数日、苦悩していた。ブログの更新意欲も失うほどに。妻のローザ・ルクセンブルクとも軋轢を生み出すほどに。

でも、縁あってうちにきた猫なのだから、片眼を失おうと、鼻がずるずるだろうと元気で生きていてくれさえすればという思いだ。毎度のセリフではあるが、たかが猫にと言われようと、たかが猫されど猫なのだ。打つ手があるのなら、のんのをまだ死なせるわけにはいかない。

そうそう、せんだってのんのに噛まれた親指は自力で治しました。転倒した世界をここに見いださないように、これくらい大目にみてちょーだい。

死ぬなよ!のんの
のんのだきしめる


愚痴
いっや!まいったまいった。猫の健康状態がよろしくない。とりわけ症状が悪いのが三毛猫のんのだ。じゃれていて片眼をひっかかれたのか腫れて熱が出ている。全身状態の悪さから、日和見感染していた鼻気管支炎が発症している。昨日今日と動物病院に連れて行ったのだが、いまだ好転の兆しはない。

おまけに今日はゲージにいれるときに思わぬ大反撃にあい、右手親指を噛まれてしまった。たいした噛み傷ではないがちょっと血が出た、速攻でイソジンで消毒、コロスキン(塗布タイプの絆創膏でほとんど接着剤)でガード。

少々腫れている。ちょっと痛い。もしかしたら「猫ひっかき病」になったかも。これでさらに腫れて熱がでたりしたら、完璧にそれ。これってミノファーゲンしか効果がないと聞いたことがある。つまり、医者にいかないと治らないってことか。

あ~あ、年の瀬にきて、あわただしいばかりで思うようにいかない日々が続いている。
そうそう、せんだって記事にしたマイスターシュテュック149を使って、日曜日に思いっきり年賀状を書いた。半分ほどだが、今回はイラストだけPCで印刷し、手書きバージョンにしてみたわけだ。さすがに、その書き味はあいかわらず素晴らしいものだった。この時点で半分とはいえ、年賀状ができているというのは快挙であり、この一点だけ思い通りといったところだろうか。

ことしも、あと20日を残すのみ、残された日数で全てが丸く収まるようもう一がんばりである。まあ、だめでもそれが世界の終わりを意味するものではないからいいのだけれど。
日本人的思考回路にもとづく、一応の区切りと、目標として。そうしたうえで、のんのの病気が快方にむかってほしいと祈るばかりである。

皆々さまにおかれましても、なにかと気ぜわしい師走ではありますが、病気や怪我などに注意して下さいましね。


絶不調の三毛猫のんの がんばってなおそうね
のんの不調


階級
肩こり指数 ★★☆

私のブログではよく階級と言う言葉が登場する。これなしにはマルクス経済学は全く論じることができないほど重要な語彙である。

ちょっと前まで、我が国ニッポンでは一つにで高度経済成長を物質的基礎として、二つに安保闘争の激動期が終息し、三つに労働運動が体制内化するなかで、一億総中流意識などと言って階級の「か」の字もないようなことがいわれた時代がある。それから、時がたって今日、格差社会となってどうだろうか。貧富の差は確実に拡大した。失業者も増大したし、労働条件は非正規雇用の増大にみるように働く者にとって圧倒的に後退した。

では、そうした苦悩せる労働者が自らの階級というものを自覚しているのだろうか?
それは、そうともいえないところが残念なところである。ちょっとまえなら、国鉄労働運動、全逓労働運動などにおいて、明確な階級性をもって闘争が打ち抜かれていたものであり、その先端部において労働者の階級というものは啓蒙され続けてきたのであるが、前者は中曽根に後者は小泉による「分割民営化」を梃子に全体重をかけた解体攻撃にさらされ、その地平を大きく後退せざるおえないものとなった。

し・か・し・痛い目にあえばあうほど湧いてくるのは怒りで 、怒りは自らの階級的自覚を呼び覚ます呼び水である。痛い目にあった者同士が結びあえば、階級として結束し自覚が生まれる。階級としての自覚がさらにより広汎な結集をなし、階級はより大きく強いものとなる。

それでは階級とは何なのだろうかというと、レーニンによれば「ある一定の社会のなかで、生産手段をもっているかどうかによって区別され、社会の労働組織の中で異なる役割をはたし、社会の純生産物のわけまえをうけとる方法と分量の違う、人間の集団である」ということになる。

生産手段を所有する階級は、生産手段をもたない階級を労働させ、彼らが生きてゆくのに必要な生産物以上の生産物(剰余価値)を生産させ、それを搾取する。
生産手段を所有する階級は生産手段をもたない階級への搾取を存続させるために、幻想的な共同体としての国家を生み出す。うみだされた国家は、政治的暴力である権力によって担保され、その正当性をイデオロギーによって保証される。

奴隷制社会における奴隷制的生産様式では、階級は奴隷所有者階級と奴隷階級であり、封建制社会における封建的生産様式では、階級は封建領主と農奴である。そして、資本主義社会における資本主義的生産様式では、資本家階級と労働者階級なのである。

とここまでが、原理論である。現実はそう簡単に割り切れないように見えるかもしれない。
営業マンは?デパートガールは?浜崎あゆみは?松井秀喜は?弁護士先生は?町工場で従業員と一緒になって働く事業主のおやじは?

いつの時代でも生産様式が変化するときは革命的な変革をなすものではあるが、それは急進的に為される場合もあるし、比較的緩慢に為される場合もある。諸条件によってさまざまな形態をとるものである。どこでも、時と場所が異なれば、それぞれ事情というものがあるものであって、はい!今日から資本主義社会だからね。とスッパリとはいかないのだ。

どの社会においても過度的には、前社会の残渣であるとか、次の社会へむけての萌芽としてのウクラードが存在するものなのだ。そのことが、幻想的共同体の国家を正統なものとするイデオロギーとともに階級を深い霧で覆い尽くしてしまう。

営業マンもデパートガールも労働者階級である。マルクス経済学が労働者を産業資本(生産現場)における労働者だけを射程にしたものであるという誤った認識は、幾度となく遭遇してきた。しかし、マルクスは資本論において、労働者・地主・資本家の三方向から資本主義社会の全体像をとらえ、その基本的な仕組みを解明したのであって、おおよそ彼の生きた時代に、今日の資本主義社会のファクターはすでに存在しており、考察のメスは隅々まで入れられている。営業マンもデパガもともに流通資本から生じそして、独立した商業資本によって搾取されるところの労働者である。

浜崎あゆみも松井秀喜も興行資本における労働者であると同時にそれ自体が、多くの興行資本によって搾取される労働者による協業によって生み出された商品なのである。

弁護士先生と町工場のおやじは、小資本家である。今日資本主義社会において原理論を離れ、階級を理解するうえでとても重要な位置を占めるものは小資本家であると思う。

とあるブログで、日本において顕著に大企業と中小零細企業の2極分化が生じ、かつ対抗的に共存してきたのかの理由も知らず、「大企業の事業部社員が、中小零細企業の下座に座って『勘弁してくださいよ』と言うのを何度も見たことがあります。別のブログで、変に反抗されたのですが、そいつ、商売やビジネスをわかってないな、と一発で判明しましたよ。」と言う発言を見かけたことがあるのだが、それは小資本家というものの特殊な階級的位置づけはおろか、経済の「け」の字もわかってないな、と一発で判明したものである。

話があらぬ方向にいきそうなので小資本家についてはとても重要なので、後ほどあらためて記事をあげるとして、資本主義社会においては、誰かに雇ってもらう、どこかに勤めなければならない者は、体を使おうが、頭を使おうが、超能力を使おうが労働者であり、搾取される労働者階級なのである。

そして、資本主義社会の進展が資本そのものを商品と化し、一個人の私有をはなれ株式市場を媒介としてその社会的価値を変動させることは、とりもなおさず生産の社会性の証左に他ならない。しかし、同時にいわゆる「財界」とよばれる一部の資本家階級のもとに生産の指導と管理はしっかりと握られているということでもある。

彼ら資本家階級が資本主義社会の主人なのだ。それは、「越後屋」のように表舞台に華々しく登場することはめったにないが、政治家、官僚、軍や警察、マスコミといった手駒を巧みに使いながら自らの階級的利害を貫いてゆくのだ。

私たち働く者の真の敵は、中国大陸にあるのではなく、朝鮮半島にあるものでもない。
私たちの働く社会の頂点にひっそりと君臨する資本家階級であるということを知ることから自らの階級の自覚は始まるのだ。

最後までお疲れ様でした。バラ貼っておきます。
ハイブリッドティー ブルームーン
ブルームーン

万年書けるから万年筆ってか?
肩こり系をいこうかと思ったのだが、ども今一つ鬱から脱出できない。書いてはみるのだがどうも論点が拡散するばかりでまとまらない。話がどんどん大きくなってしまう。
このパターンが私の学生のころからの、書き物の絶不調をあらわすバロメーターとなっている。

と・こ・ろ・が・である。ここ一番でこの危機を回避することのできるスーパーツールがあったのである。というより、いまでもある。

それがこれ、秘蔵の逸品モンブランのマイスターシュテュック149である。
Meisterstück149


昔の昔、若き学生であった私は、これがほしくてほしくてたまらなかったのである。これさえあれば、きっとすんばらしい論文が書けるとマジで思っていたのだ。いま思うと顔から火が出て、ライター不要で煙草が吸えるくらい無知蒙昧な妄想なのであるが、そう信じていたのである。

ちょうど学生生活なかばのあるとき、製造元の近くへと行く機会があり、がんばる自分にご褒美のノリで買い求めたものである。私は語学は全く駄目で、母国語すら怪しいレベルであるが、若さとはすんばらしいもので、生き生きした躍動感あふれるボディーランゲージは、相手を理解に導くのに過不足はなかった。と信じている。たぶん。
はたして、なんぼ払ったのかいまでは覚えていないのであるが、ちゃんと売ってくれ、希望通りの極太字用を手に入れることができた。

以前にも書いたのだが、私は亜法学部に入り、途中から幽霊学生でひたすら不経済学部の授業に通っていたのであるが、一応卒業はするつもりだったのでレポートの提出と試験には参加していた。いじめのようなレポート攻撃も、気分ノリノリのときは苦にもならないのだが、不調の時はさっぱりである。そこで、こいつの登場なのである。いつもはペン先が減るのがもったいないのと、御利益の乱用をさけるため神棚に納めてあるのだが。

こいつを手に取り、書き始めると不思議なことに考えがまとまるのである。ある種の集中力が発生するのだろうか、大胆に不要な枝葉を整理してゆく、自然に結論へと導くのである。と言う気がしていた。そののち、卒業を放棄したのちも、ビラの原稿を書いたり、根性のこもったレジュメを作成したり、ここ一番のときはこいつのお世話になってきた。

その後、庶民となってからはほとんど文字をかかなくなり、つい昨年ブログの「コメンター」をはじめるまでの数年は年間800文字程度、原稿用紙2枚分くらいしか文字を書かない生活をしてきたのである。

近年のIT技術の飛躍的進歩は庶民にもパソコンをひろく分け与え、そのワープロ機能は悪筆、筆無精にとっておおいに福音となった。せんだって「失敗だ~」とぼやいていた例のキーボードもぼちぼちと慣れてきた。そうそう思考を寸断することなく文字が文となり論となるようになってきた。

そんな時代にあって、守護神の万年筆もほとほと出番がなくなってしまった。ちょっと寂しい心持ちである。人生、歳を重ねると、熱病のような激情に支配された行動は失われ、若かりしころの思い入れ、思いこみもすっかりと影を潜めるようになる。神の宿りしスーパーツール、モンブランのマイスターシュテュック149は、若き日の熱い思いのいっぱい詰まった秘蔵の逸品として、いまでは机の引き出しの中で眠っている。
そう、週末にはひさびさにこいつでおもいっきり、書きまくってみようかと思った。

てなわけで新カテゴリー「武装せる園芸家の武器」の第一回、万年筆でありました

感謝の気持ち
おめでとうございます。東西氏。 そして、私の拙いブログに毎度ご訪問いただき心より感謝いたします。まっとうな人生を歩んでいるものでしたら、キリ番獲得者になにかプレゼント致したい気持ちでいっぱいなのですが、あいにくヤクザな世界に身を置いたはぐれものであります。どこぞに暮らす何者かも明かすことのできない日陰ものであります故、平に平にご容赦下さいませ。

おかげさまで、ぼちぼちとカウントをかさねてまいりました。本当にたわいもない話に毎度おつきあいいただけることに日々感謝の気持ちを忘れないように努めております。
とはいえ、ちょっと力がこもると思いっきり左に行ってしまったり、思いっきり左の読者の皆様には味気ない話をしてみたり、園芸ネタ、猫ネタに傾いてみたり。なかなか方向は定まりませんがまあ、いろんな方々と様々な接点で交流できたらという考えから「お気楽系」ということで記事をあげておりますので、ご理解のほどよろしくお願いします。

さて、今日は、ときどきのぞかせていただいております、かつさまのところで自戒の意味も込めて、興味深い記事があがっておりましたので紹介させていただきます。

エントリーは「無敵の人々」http://plaza.rakuten.co.jp/kngti/diary/200712030000/

「コメンター」に一年ほど励んでまいりました私としては、少々耳の痛くなるような話でもあるのですが、そうしたことへの反省の気持ちも込めて、ブログを続けさせていただこうと思っております。とはいえ、本質はとてつもなく「過激派」でありますので、時には「ぶちきれる」こともございますが、広い気持ちでお付き合いを願えればと思う次第でございます。

初コメ1号にして、666キリ番を踏んでくださった東西氏と、日々拙いたわいもない話におつきあいいただいている読者の方々に心より感謝いたします。ありがとう!!

武装せる園芸家 薩摩長州 

すっかり冬になりました。ああ、夏が恋しい。
過ぎ去りし夏に思いを馳せて。そしてもうすぐパールハーバーの日がやってくるので、パールハーバーを貼っておきます。

ハワイ1


ハワイ2


戦争はもうごめんだぜ! 「侵略を内乱に転化せよ」

しょぼい秋その9 (祈るような気持ち)
とっても鬱である。
日本の10年、20年先の展望を大きく左右するであろうコアなところで混乱が生じている。とりあえずは、事のなりゆきを見定めるより仕方がないのだが、祈るような気持ちである。

てなわけで気分転換に思いっきりバラを貼ります。

イングリッシュローズ アンブリッジローズ
アンブリッジローズ


イングリッシュローズ メアリーローズ
メアリーローズ


モダンローズ ホームズアンドガーデン
ホームズアンドガーデン


モダンローズ チャイコフスキー
チャイコフスキー


ティーローズ サフラノ
サフラノ1


サフラノ2


ハイブリットムスク バフビューティー
バフビューティー1


バフビューティー2


モダンローズつる リバプールエコー
リバプールエコー


ぼちぼちバラも終わりかも

トランスコミック発見!
肩こり指数 ☆☆☆

まいどのぞかせていただいている、ココロさまの「わんばらんす」が植民地にかかわる記事をあげていた。ふと目についたトラックバックに雅無乱さまの「にほん民族解放戦線^o^」というのがあった。

呼ばれるままにトラックバックを伝わって、おじゃまして読ませていただいた。植民地なんてもう存在していないかのように考えている人がとても多いのではないかとおもう昨今のこと、真っ正面からこれをとりあげていることにうなづきつつ読ませていただいた。

とりわけ関心をひいたのは冒頭でとりあげておられた「トランスコミック」という漫画だ。 「柄谷行人氏の大著「トランスクリティーク」をベースにしながら、そのエッセンスを数ページに凝縮した信太正閏氏の作品である」との紹介文があった。

これが実によくできている。わずか数ページの漫画なので経済学的に深いところまで立ち入ることができないのは致し方ない、それなりにバックボーンがある人にはあるなりの深度でに読むことができるし、それがなくてもちゃんと読んで論が通るところがすばらしい。

政治学的に読んだ場合、主義が違えば素直には受け取れない部分もあるがそれも一つのイデオロギーとして寛容にうけとることができるのであれば、ベースになっている認識はそう大きく違いないのではないだろうか。なかなかの秀作であると思う。


改めて紹介させていただきます。

雅無乱さまの「にほん民族解放戦線^o^」http://blog.goo.ne.jp/nanbanandeya で発見した
トランスコミックhttp://www.tcxpress.com/comic_00.html# 

私は国際社会の動きをみるときに立脚点としてきたものは、対スターリン主義と対決しながら、帝国主義国家間が争闘戦を貫いてゆくという構造のなかに植民地支配に抵抗する民族解放の闘いを封じ込めることによって「安定的な国際平和」が続いてきたとの認識である。

ソビエト連邦の崩壊は、そうした枠組みもまた崩壊させた。民族解放の闘いはいたるところで関を切った。帝国主義国家間の争闘戦もまた、バブルの崩壊という名の「恐慌」を市場原理に回帰することをもってくぐり抜けははしたが、より大きな政治的経済的危機を日々拡大再生産している。

「南北問題」が激しく噴出する。「テロとの戦い」と言うスローガンのもとに帝国主義者は自国の抱える矛盾をそこにむかって転化しようとする。

これからの国際情勢は、帝国主義とそのもとで抑圧・搾取・収奪されつづけてきた民族との対立を軸にみてゆかねばならないと思うものである。
そして、それは同時に我々抑圧する側で生きる民族にとって、真に自国の反戦平和を願うのであれば抑圧されている民族へ対する深い思いやりの気持ちがなければならないということを提起する。戦争は他民族にたいする激しい憎悪と差別と排外主義などの精神諸力を原動力とするからだ。

私たちは、自国においては格差社会が生み出す、働く者同士を分断し不当な競争へと駆り立てる差別・排外主義をこえてゆかねばならない。と同時に、国際的には他民族への差別・排外主義をもこえてゆかねばならないのである。でなければ、働く者の日々の苦痛と不満は他民族への排外主義へとむけられるであろう。それは、いつか来た道に他ならないのではないだろうか。と、この漫画を読んで思い起こした次第である。
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