たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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カニかま
いきなり猫の写真からはじまる今日の記事

かにかま1


うちのお局にして、意地悪三毛猫の大道を悠然とゆく、三毛猫みこもうじき4歳はこの時間となると仕事部屋にやってきて机の上にあがったり、膝にのってすりすりごろごろとあわただしい。

かにかま2


いったいどっからでるんだよ~その声はよぉ~ という猫なで声を発す。

かにかま3


なにかを必死に探索しているもよう。

かにかま4


おめあては、机の引き出しにしまってあるこれ

かにかま


そうカニかまであります。もう!カニかま中毒。こいつをいただかないことには絶対に引かない。この執念は立派。手段をえらばないの感あり。このカニかま、去年病気の三毛猫のんののために買ったもの。その時のあまりなのだけど、みこが一番これ好き。

無視していると切れて、書類や本を容赦なく破ったりする無法者!
根負けしてひとつまみ与えると大喜びで食べた後は、お礼のすりすりをしてから満足そうに去ってゆく。

なんとか隊もさえなかったけど、あっさり「つなぎ法案」取り下げとはね。国会議員時給1000円じゃないでしょ!怒る気力もないということで今日はたわいもない猫の話でした。

中国の食品は情報が十分にそろってからということで。また後日。
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イソップ寓話
肩こり指数 ☆☆☆

今日も小雪舞い散るさっむーい一日だ。暖冬かと思っていた今年の冬だったのだがやはりそこは腐っても鯛、地球温暖化とはいっても冬、大寒前後にしておもいっきり寒くなることに文句をいうのは大罰当たりというものである。

てなわけで、粛々と事務ワークに励む一日なのであるが、休憩をかねてちびちび本を読んでいる。何を読んでいるかって言うと、ついこのあいだ社会科学の書籍が一切ない書店で発見したイソップ寓話集(岩波文庫)なのである。

こいつ1つの話が短いからいつでも中断できるので休憩に読むのにとても都合がよい。なにもこの歳になって読まんでもよかろうともおもったのだが、このあいだの「決めポーズ」という記事でとりあげた「ここがロドスだ ここで跳べ」に大いに感銘をうけそれがたまらなくイソップ寓話への興味をかきたてたのだ。

決して恐れ多くも、ヘーゲル大先生やマルクス尊師のようにイソップの言葉を使ってカッコイイ「決めポーズ」をしてやろうなどという下心ではない。そもそも、私の乏しい知恵が生み出す文章にそれはなじまないようだ。意味がわかったことが嬉しくて、つい調子に乗って一回二回つかってみはしたが、顔から火が出て煙草が吸えるくらい恥ずかしい文章にしかならないことがよ~くわかった。

なによりも、こいつを読んでいるとそういった己の主体的力量を無視した行為の愚かさを指摘した話が山のようにでてくるのである。つまり、凡人は自分に無理のない内容を素直に書けばよいということなのだろ。無理して背伸びをした文章はつま先立ちのように不安定で、後ろから人差し指でちょっと押されたくらいでも大転けして怪我をするものだ。
とはいえその一方で、背伸びしないとつかめないものもあるし、押されて大転けしてみて気づくこともあるものなので、まあ徳は中庸でということだろうか。

話はついで、このイソップ寓話に絡んでなのだが”イソップの言葉”という表現がある。それは、左の筋の人間にはちょっと特別な意味合いをもっている。

その昔の奴隷制社会で奴隷として生きたアイソーポスは、抑圧された身分において人生訓を鳥獣になぞり語らねばならなかった。それは、おそらく「奴隷の身分で生いってんじゃねーょ」と主人にヤキをいれられるような時代だったのだろう。そのことから、1つにはことの真意を遠回しな表現をもちいて書きしるすこと。もう1つには、我々一般庶民が「自由平等」のこの世にあって実は社会の主人たる資本家様の哀れなる賃金奴隷であることをアイソーポス自身に重ね合わせ、”イソップの言葉”で語るというふうにいうのである。

このことは私の乏しい知識のなかで知る限りでは、レーニンの帝国主義論の序文のなかで登場する。

この小冊子はツァーリズムの検閲を顧慮して書かれた。だから私はよぎなく、もっぱら理論的な――それもとくに経済学的な――分析にごく厳重に局限しなければならなかったばかりでなく、政治について少数の欠くことのできない意見を述べるときには、最大の慎重さをもって、ほのめかしで、あのイソップ的な--のろわしいイソップ的な――ことばで、定式化しなければならなかった。ツァーリズムのもとでは、「合法的」な著述のためにペンをとろうとすれば、あらゆる革命家がそれにたよることをよぎなくされたのである。
 いま、自由の日に、ツァーリズムの検閲を考慮してゆがめられ、鉄の万力によって圧しつぶされ締めつけられたこれらの箇所を読みなおすことは、苦痛である。帝国主義は社会主義革命の前夜であること、社会排外主義(口さきでは社会主義、行動では排外主義)は社会主義にたいする完全な裏切りであり、ブルジョアジーの側への完全な移行であること、労働運動のこの分裂は帝国主義の客観的条件と関連するものであること等々を、私は「奴隷の」ことばで語らなければならなかった。

こうした時代の諸事情がこのての著作を読むものにとって難解なものにしている要因の1つなのである。

さて、インターネットはウエッブサイトから、より簡便に個々人が自由に情報を発信し意見を交わすことのできるブログへとその軸足を移し花盛りの感がある。いろんなジャンルでさまざまな方々が情報を発信しておられ、コメントをよせることも出来る。それを読み巡り、時にコメントをさせていただけることはとても楽しい。

いつまでもいつまでも自由な、素直な言葉で皆が語れるように、「最大の慎重さをもって、ほのめかしで、あのイソップ的な--のろわしいイソップ的な――ことばで」語らねばならぬ日の到来を断固として拒絶するために、「日本国憲法第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」ということを忘れてはならない。そう感じさせずにはおかない橋下新府知事の満面の笑顔とマックの店長さんの裁判であった。 といういいまわしは「イソップの言葉」だったりする(自爆)。今日はちょっと謙虚にリベラルかな。


世間の人々は小学生くらいで読んでんだろうな きっと ちょっと恥ずかしかったりする

イソップ

雪だ!さっむ
ちょっとかたくるしいの連発したので、再び本来の(?)お気楽路線ということで

これな~んだ?

ミニルーター

これはミニルーターと申します。こいつで何をするかっていうと木やガラス、金属、石なんぞを削るのであります。簡単に言うと電動彫刻刀なわけです。

先端部分にルータービットとよばれるいろいろなかたちをした切り刃をつけて使用します。

ルータービット

そんでもって何を作ったかというと、これ

立て札

そう、猫額ガーデンの立て札なのであります。もう4年立ってます。まあ初期の作品なので素人根性丸出しで、ちょっと恥ずかしい出来なのではありますが。

でもって、その立て札のしたには、テラコッタの猫さんが苔むして鎮座しているわけなのであります。あ!猫さんは300円で買いました。私の能力では作れません。

ねこおぶじぇ


武装せる園芸家の庭のテーマは「猫の森」であります。そんなわけで公安当局の弾圧を少々気にしつつもちょっとだけ公開

コニファー


コニファーガーデンなのであります。バラと針葉樹で「とげとげ庵」。あんたの人格がにじみでているという指摘が知己の平和主義的園芸家からなされることもあるのですが。その指摘は残念ながら当たっていますビンゴです(苦笑)。
今日はな~んと雪であります。風邪が抜けきれぬ体には骨身にしみる寒さなのですが、幸いにも今日から数日は在宅でのデスクワークなのであります。ラッキー! 春まだ遠いそんな雪の日の風景でありました。
おそまつさまでした。


橋下新大阪府知事誕生
橋下新大阪府知事誕生だそうだ。圧勝である。ほのかに予想はしていたものの、まずは残念といわねばならない。

テレビでの一般市民へのインタビューで「何かを変えてくれそうだから」と言っているのを聞いた。いまの大阪のおかれているなんともやりきれないような閉塞感を如実に吐露した言葉と私は受け取った。

キワモノに走ってしまう大阪人気質とか、リテラシーが低いとか、マスコミによる知名度とか、対抗馬の役不足、共闘の問題などなど社会学的分析をすることにはさしたる意味はない、まして大衆蔑視に陥ることはナンセンスであるしと自らに言い聞かせつつ、結果だけを厳粛に受け止めねばなるまい。

だがそうしたうえで、この橋下知事はきっとやってくれるだろう。府民が度肝を抜かれるような「新しいこと」をきっと。この新知事はただ者ではない。大阪府民は彼を圧勝させた結果がもたらすものを否応なしに受け取るだろう。かなり痛いこととなろうが。そのこと自体が府民にとって貴重な政治的経験を積む大いなる契機となる。そういった意味ではあながち気を落とすことことでもあるまい。災い転じて福となす。

ヒトラーもムッソリーニも「民主主義」のもと「民意」の選挙で選ばれたのだ。
だが、その結果のもたらした過程は壮絶な困苦であったことは誰でも知るところであるが、その最後的な結末が、ヒトラーは日も当たらない地下の一室でピストル自殺、ムッソリーニはイタリア民衆にタコ殴りにされ縛り首のまま市中を引き回されたという歴史的事実を今一度思い起こそうではないか。コイズミ旋風あってこその参院与野党逆転ではないか。

さあ、また一週間のはじまりだがんばって賃労働に励もう!

謝罪と訂正のお知らせ
1月27日 のエントリ 「拒まれた討論」において、私との討論を拒んだ主体がお玉さまであるように読める記述となっていることにたいして、お玉さまをはじめこのエントリーをお読み下さった全ての方々に心から謝罪いたします。拙い文章でご迷惑をおかけいたしまして誠に申し訳ございませんでした。以後このようなことがないよう文章の推敲に心を配る所存でございます。

つきましては、当該エントリーの文章を一部以下のように訂正させていただきます。

訂正
きっかけは 、南京大虐殺に関して「虐殺については、多く見積もっても100人を超えているとは、私には考えられない。」というコメントだった。

きっかけは 、南京大虐殺に関して「虐殺については、多く見積もっても100人を超えているとは、私には考えられない。」という、最近お玉さまのブログで常連となっているとある方が書き込んだコメントだった。

かさねて申し訳ございませんでした。

なお、この誤りに気づきのきっかけを与えて下さいましたshiraさまには心より感謝しております。ありがとうございました。これからもひきつづきましてお付き合いいただきご指導いただけましたら何よりの喜びでございます。

拒まれた討論
昨晩、お玉さまのところにコメントをさせていただいた。エントリーは「ご高齢の方の戦争体験を聞く。」http://potthi.blog107.fc2.com/blog-entry-195.html#comment2949

きっかけは 、南京大虐殺に関して「虐殺については、多く見積もっても100人を超えているとは、私には考えられない。」という、最近お玉さまのブログで常連コメンターとなっているとある方が書き込んだコメントだった。

この方の仰せによれば「大学の研究論文や資料」と 「正確な知識と情報に基づいて書」いているということなので、私には知識がないのでそれを提示してくれと平身低頭にお願いしたのであるが。知識がないはずはないといって断られてしまった。

でも、本当にないのである。「虐殺については、多く見積もっても100人を超えているとは、私には考えられない。」などという言説に同意しうるにたる知識など断じてもってはいない。このことに関する歴史考証は専門外なのであくまで専門家の研究成果に依拠して論じることしかできないし、その被害者の数について私自身、断言できるものではまったくない。

さて、そうしたうえでこの方のいうところの根拠というのは、そのコメントを読むところによると
まず第一点は
南京大虐殺があったといわれている年は、まだ国民政府も降伏しておらず、戦闘は依然として継続中です。しかも、南京までの地域を完全制圧したわけでもないので、補給路の安全は必ずしも確保したとは言いがたい。よって、言葉は悪いですが、「一発でも弾を大切にしたい時期に、戦果に関係ない虐殺で、貴重な弾を無駄遣いをする余裕なんてない」と考えるのが妥当だと、私は思います。
という「弾薬節約論」であり。

つぎに第二点は
100人も「虐殺」なんてしたら、すごく目立ちますよ。いくら情報統制しても、とても隠しきれるもんじゃない。
はっきり言って、100人も虐殺すれば、『大事件』ですよ。首謀者や実行犯の重罪はもとより、軍中央の責任問題や内閣総辞職だって免れません。
従って、犠牲者が100人であったとしても、「責任を回避・軽減」なんてできやしない、ということです。
という「100人虐殺内閣総辞職論」なのである。

「弾薬節約論」は妥当なのか?生死をかけた戦闘である。しかも首都攻防戦なのだ。敵が死にものぐるいで攻撃してくるとき、「弾もったいない」とおもうだろうか?戦争は呵責無き殲滅戦である。そこからごく普通の常人が考える妥当は「撃って撃って撃ちまくれ」であろう。そうした混乱した状況で整然と敵兵と民間人を峻別して戦闘が行われようか?どうもこのお方は軍の輸送能力を過小評価しているようである。たしかに帝国陸軍の補給線は比類なき貧弱なもので、略奪による現地調達でそれをおぎなってきたのだが。弾がなければ戦闘をすることは困難だがそれゆえ戦闘を回避する選択もあるが、敵の攻撃と相まみえる戦闘中に弾の節約など考えていたら兵は生き残ること自体が難しいと思うのだが。

100人も虐殺すれば、『大事件』となり、軍中央の責任問題や内閣総辞職と言う事態が引き起こされるような軟弱な政治指導者が戦争をしていたのなら、その時点で庶民は戦争を頓挫させることも不可能ではなかっただろう。時は治安維持法下である。人民の言論や自由は著しく奪われていたのではないか。社会全体に他民族への憎悪という排外主義が蔓延していたのではないのか。庶民が心底好んで戦地に赴いたのではないと「平和」ないまに生きる私たちは思うものであるが、あの戦時下で庶民は戦争を運命にも似たものとしてうけいれていたのではないだろうか。国家による天皇、靖国という精神的支柱に「大東亜共栄圏」という「大儀」とどめは治安警察による徹底した弾圧により帝国主義本国の城内平和があってこそ、かの戦争は遂行できたのだと私は考えている。

故本多書記長は著作撰2巻の「戦争と革命の基本問題」のなかで戦争と政治の関係をこう記している
「戦争が超人間的な運命でも、仲良く交際していた国家と国家とが、突然に不可抗力の力で戦争に巻き込まれるという具合におこる不可知の事件でもなく、また、平和に生活していた国家に突然ほかの国家から侵略がおこなわれて戦争がおこるというものでもないこと、戦争が国家間の厳正な利害関係の衝突、いいかえるならば、国家間の利害の対立と、それにもとづく国家間の政治的・外交的な交渉が、その継続として戦闘力の行使を手段とする軍事的交渉に発展したものであり、自己の国家意思を、強力を行使して相手国家に強制しようとする積極的な政治行為であること、それゆえに戦争が激烈な絶対戦争としての性格を強くするか、それとも中断と停止をともなう平静な性格に後退していくかは、戦争遂行国家の政治指導者の政治目的の大小と、それに動員される民衆の政治的高揚の度合いによって決定される」

戦争は天災でもなければ、運命でもない。私たち庶民が戦争をおこさぬよう政治に積極的にかかわってゆくことでかならず願いは達せられる。皆が結び合い、知恵を絞り考え実行してゆくことによってきっと。


ようやく中巻半ば、10年近く経ってもちっとも読み進まない「戦争論」 小林某とは関係ないよ
戦争論

釣り
バイス


さてこれはなんだろな? はい!答えはバイスといいます。何をする道具かというと、これで釣り針を固定して毛針を作るのであります。

なにを隠そう、いやべつに隠すようなことではないが、武装せる園芸家は漁師もするのであった。自分でも少々自嘲ぎみにいえば「道楽者」なのである。でもドイツイデオロギーの「私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり・・・・・」の下りではないが、かなわぬ夢とわかりつつも、貧しいながらそんな暮らしを追い求めた頃があるのだ。

とはいえ最近は諸事情により漁にいくことがなくなったので文字通り過去形で語られるものなのであるが。
以前サラリーマンをしていたときの同僚に影響されて始めたのがフライフィッシィングなのである。

このフライフィッシングとやらはとてつもない金食い虫の道楽で、こいつに非常に沢山の貨幣をもっていかれたことかと、いまでは反省するばかりなりなのである。今回紹介のバイスを始まりに、さまざまな毛針を作るためのマテリアルと呼ばれる獣毛や羽毛が非常に多種多様に必要なのである。いまや、入手が困難なマテリアルも数多くあり高価なものも多い。

フライとよばれる毛針はその発祥を古代メソポタミアにまでさかのぼることができるそうなのだが、リファインされたのはやはり帝国主義の先駆けにして、その富を後ろ盾とした道楽者王国のイングランドである。そこでは、じつに多種多様なフライが考案され今日にいたるまで古典的なフライパターンとしてその筋の文献には製造工程や使用される状況や特徴にいたるまで詳細に解説されている。それを参考に素人さんはフライを作るわけなのである。

バイス2


昨今では、水生昆虫の生態にかかわる研究成果なども十二分にとりいれつつ、この世界の先端をゆくプロなどは自らのオリジナルパターンなぞの開発に余念がなく、このての情報誌をときたまのぞくと”おぉっとびっくり”というようなフライを見ることがある。
まあ、しょせん私のような俗物漁師は釣れてなんぼなので、”とんでもフライパターン”でもありなのであるが、やはりこだわりをお持ちの方々は、この状況でこのフライをつかってこの流水のここで釣らねばならないというこだわりをもっておられる場合が多いので”とんでもフライパターン”を嫌うようである。

フライ


そうしたこだわりの方々は詳細にデーターをとり状況を分析しタクティクスを楽しんでおられるようである。もちろん釣り上げたあとは魚を傷めないようにリリースする、キャッチ・アンド・リリースをもっとうとしている。そうそう、漁協の成魚放流を心から憎み、自然の荒々しい試練にたえぬいたピンシャンのヤマメ・イワナを心より愛して止まない方々である。当然自然保護活動との親和性はすこぶるよく、長良川河口堰問題などにも積極的にかかわっておられる方もおられると聞く。

さて、話を私レベルに戻すのだが、このフライフィッシングとやらその釣果のほどはというと、じつにたいしたことがないのである。それは、私の腕が悪いということに帰されるものであるとは思うのだが、まあ、周辺で聞いてみてもミミズをつけて釣った方がたくさん釣れるよという評価が多いことも事実なのである。

だ・け・ど このフライフィッシングの一般的手法であるドライフライといって水面に毛針を可能な限り自然に流し、それにここで魚が食いつくはずだという目論見どおりにイワナが水面に顔を出しフライをくわえてゆく様は、この釣法の醍醐味であるというのは釣れてなんぼの俗物漁師にも十二分に理解できるものである。

15年くらい前、とある山村の奥に2年ほど暮らしたことがある。仕事が5時に終わると速攻で同僚と3~40分山奥へとはいり毎日イワナ&ヤマメを釣りにいったものである。釣果は2時間ほどで2~3匹程度であったが、それは至福の一時であった。その後、私はその地を去ることとなり、同僚へは一本のロッドを餞別がわりにゆずり、その地を後にした。いま暮らしているところも、本屋に社会科学系の書籍が一切ないという田舎なのであるが、いかんせん河川の規模があまりにも小さく、渓流魚の魚影がとてつもなく薄いところなので当初はなんどか足を運んだのだが、ここ数年はまったく釣りにいったことがない。今年はひとつしばらくぶりに足を運んでみようか、釣れたらとても嬉しいが、釣れなくても日柄一日穏やかな気持ちにさせてくれる。それが私にとって釣りなのだから。 

病床での思い
肩こり指数 ★☆☆

風邪をひいた。昨日の朝から咳がでて怠い。てなわけで今日は休ませてもらった。

さきの「眠い!!」の記事でコメントをちょくちょく寄せていただいている土岐さまからコメントをいただいたのだが、ちょっと内容がつかみきれなくてコメントが返せません。せっかくコメントいただきましたのに、すんませんです。

さて、とはいえいただいたコメントに思ったことはあるのでちょっと書いてみるのですが、私がその昔、○中の活動家であったころは毎日毎日5時起きであった。当時は平均睡眠時間は3~5時間くらいだったろう。そのころ、池袋のF社に居候(常任ではない)していたのであるが、飯田橋まで直行であれば3~40分のところを数時間かけてたどり着くのである。たどり着いたらそこで、ビラまき情宣、オルグ、立て看板作りなどなど一日展開し、夕刻8時ころ撤収。社に戻り翌日のビラの原稿を書くもの、原稿から版元をおこすもの、版元からビラを印刷するものと分担で作業をする。そのほかにも沢山の任務があった。そうしたあわただしい時間の合間でひたすら学習をしていた(人もいる)。

あまりたちいったことは書けないが、まあこんな暮らしをしてきたのである。そこで出会った人たちはまさにスゴイ人ばかりであった。私は振り返ってあのようなスゴイ人達と出会う機会をえたことは、その結果として失ったものも少なからずありはしても、それを補って余りあるほどに素晴らしいことであったと思っている。人生脇道を進んでみて初めて知ることができる貴重な体験もあるものだということなのだろうか。

それにしても、たかだか一週間ほど忙殺されたくらいで風邪をひくなど歳をとったものだ。市場原理主義が叫ばれるなかで過労死でなくなる方が社会問題となるご時世に。
労働者のそんな悲惨な現状に耐える力強さのなかに、次の来るべき社会の担い手としての可能性をみいだしたマルクスではあったが、レーニンのいうように「人はいる、しかし人はいない」という現状を打ち破り階級として組織するコアな部分がどうしても必要なのだ。

いま私がいた古巣は東西に分裂したようである。ここから事態は如何なる方向にすすんでゆくのかはまったく予断を許さない状況である。客観主義的傍観者であってはならないと思いつつも、まずはなりゆきを見定めたいというところである。いまなお非合法非公然の体制を維持している党派は少ない。この地平を継承することができるのか、あるいは市民運動がその手工業性を乗り越え、新たなコアとして登場し、多くの犠牲をはらってもそうした地平を獲得し進んでゆくのか。私のような者には見通すことはかなわないが、そうした動きが求められる時代なのだと病床のなか、曇り空をながめつつ思った次第なのである。


本文とは全然関係ないが、のんの復活 まだ片眼で涙がでるけど極めて元気
近づいてきて、ひっくり返って甘えたりする 関係改善(喜)
のんの復活

災難は忘れたころにやってくる
あ~忙しかった。と過去形ではなく、明日も5時起きなのだがとりあえずはひと山越えたという感じである。ただ、明日は全国的に雪が降るようなさっむ~い一日となるようだ。当地でも今晩から雪になるようだ。てなわけで夕刻にチェーンを車に巻いておいた。

先週巷は3連休だったようだが、産業予備軍の私はおもいっきり残業付きのお仕事であった。今日はお休みで、たっぷりと寝た。本当は早起きしていまだ放置状態にあるつるバラを剪定せねばと思っていたのだが、朝からいきなり雨を確認し寝ることとあいなった次第である。

さて、ブログはここ3日ほどのぞくこともできなかった。というのは「遅延書き込みデ-タの紛失」のエラーがでてブルーバックとなり、そのままフリーズ。再起動するもBIOSが立ったあと起動に至らず。な~んと起動用のハードディスクがない!起動用のハードディスクは500Gで2パーテーションを切り100GをCドライブで起動ディスク、400GをDドライブとしてプログラムとデーターディスクとして使っていたのだが、それをBIOSが認識していないのだ。

くっそ~!はずれのハードディスクをつかんじまったぜ。という思いで頭がいっぱい。最近はハードディスクはあまりの低価格ゆえに、製品のチェックが十分ではないそうな。たしかに、私がはじめてハードディスクを手に入れたときはDOSが3.3のころで、40M容量にして外付けが7万円だったように思う。ずいぶんと大容量の低価格になったのだから致し方ないかもしれないが。当然バックアップなんかしてはいない。まだ4ヶ月しかたっていないので、ディスクが跳ねることははなから想定外。ディスクを交換して復旧することの道のりのあまりに長いことを頭に浮かべると思いっきりめまいが襲う。

だが、それしか道はない。いままでもこの「遅延書き込みデ-タの紛失」のエラーとやらはでたことはあるのだが、それは外付けのディスクであったので、いまは遅延書き込みをしないに設定してあるのででることはない。でてもDOS窓をあけてCHKDSKコマンド
で復旧してきたのだが、このたびは起動ディスクが逝ってしまったのでWindowsが立たないからDOS窓は開けない。CDで起動し回復コンソールからDOSをあげて復旧しようとしても、肝心のディスクがBIOSで見えていないのではなすすべがない。

はっきりいって初めての災難、初めての経験である。どだい睡眠時間が4時間ほどになっての状況で立ち入ったところまで詳細に点検して復旧することは難しく交換用のディスクを買いに行く時間もない、さしあたっていまの仕事でPCが必要な状況ではないことも考慮すると出先のPCを借りて最小限の処理でまにあうという判断から放置することにしたのだ。

とはいえ、投げておくこともできないので、昨晩の土曜日夜を徹して調査復旧を試みたのだ。見通しは暗かったがとりあえず筐体をあけディスクのケーブル周りを入念にチェック問題は見つからなかった。とりあえず気をとりなおして電源を入れるといつもの倍以上の時間をかけてBIOSが起動。な~んと消えた起動ディスクが復活しているではあ~りませんか!その後、起動プロセスでチェックディスクが始まり、Dドライブを調べ始める。フリーズしてるんじゃないかって猜疑心が心を支配するほど進まないカウンター、最終的に4時間かかって終了。そのあいだ戦争論を80ページも読んでしまった。

どうもインデックスでエラーがあったようだ。イベントビューアのシステムを確認するとかなりまえからエラーがでていたようだ。パソコンはとても便利だし、価格も信じられないくらい安くなったし、高性能なものとなった。OSもWindows95や98のころにくらべたら信じられないくらいXPは堅牢にできている。だが、災難と不幸は忘れた頃にやってくるの言葉通り、いつかは跳ねるハードディスクなのである。本当はレイド1でミラーリングすればよいのだろうけどね。ディスクが大容量になるにつれてロシアンルーレットはますます危険なものになる気がした。まあ、原因は不明なのだがとりあえず復旧できたのは誠にありがたい限りであった。

更新をさぼっているにもかかわらず、私の拙いブログを訪れて下さいました皆々様に心より感謝申し上げまして、今日はこれまで。


おいおい いったいどこがわるかったんだよぉぉ!
PC.jpg

眠い!!
うわぁあ!仕事が忙しい。朝も5時起き、5時半出撃だぜ。てなわけでスーパー眠い。

ので、2~3日更新をさぼります。記事を上げるだけの”ぱわぁ”がありませんです。
てなわけで留守にしますが、またのおこしをおまちしております。では、では、失礼サンです。

ニャン間関係
今日は猫の話をしよう。うちにはすでに紹介したとおり、6匹の猫がいる。
アメショウミックスうり、三毛猫みこ、三毛猫なな、三毛猫のんの、茶トラ猫こう、サビ猫ぴよ。

いままで、一匹飼いではわからなかったのだが、本来縄張りをもち排他的な生活をする猫が完全室内飼いで限られた空間のなかで生活をするということが実に微妙な協調と対抗のようなあり方をもって為されているということを知り非常に驚いた。それと、それぞれの性格が全く違うということがとても不思議な思いである。

うりは温厚で中立的、恐るべき食いしん坊であるし、みこは意地悪、我が儘、気まぐれ、甘えん坊。ななは物静かで消極的。のんのは活発で積極的。こうはフレンドリーだが、いろいろと要求が多く泣き虫。ぴよはビビリンであるが活発にして意地悪、いまだに家庭内野良。

猫ずきの間では、体毛の色とキャラにおおまかな相関性があるという風なことがいわれている。その言説によると三毛猫は意地悪らしい。私のしるところでも意地の悪い三毛猫といった話をいくつか聞いたことがある。だがうちに関するところでは、「三毛猫性意地悪」はみこだけのようだ。てなわけで、茶飲み話のタネ程度に関心を寄せているにすぎないのだが。まるでクレッチマーに代表されるによる人のキャラ分類のようでもある。まあ、どちらにしてもたわいもない話であるが。

みこは誰に対しても寄り添ってくるものを威嚇する意地悪なのだが、なぜかぴよと仲良しなのである。一緒にいることが多い。ぴよもだれとも寄り添うことはないのだが、みこは例外らしい。
ななとのんのはいつも一緒である。2匹のツーショットは実にアルバムを見ると多い。
姉妹だから生まれてからずっと一緒なのでそうなのかもしれないが、くわしいことは私にはよくわからない。
ところが、みこはななを激しく嫌っているのである。近づくことを許さない。そして、ぴよはのんのを追っかけ回して苛めるのである。
こうはうりのところへわざわざ寄ってきて仰向けに平伏し降参状態から姑息にもちょっかいをだす。

毎度このパターンである。これ以外のケースはみたことがない。相性なのだろうか?
科学的に解明するような代物ではないが、実に興味深い人間関係ならぬニャン間関係なのである。ニュースを聞いても、仕事にいってもぱっとしない話題が多い中にあって、毎日楽しませてくれる猫たちなのであった。

意地悪シスターズ ちょっとピンぼけ
みことぴよ

「岩国市新市庁舎建設を勝手に支援する会」
昨日は新「テロ」特措法成立に対する怒りの記事をとりいそぎあげたのだが、本当は別の記事を上げようと思っていた。

その話はというと、ちょくちょくのぞかせていただいている情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)さまの「岩国市新市庁舎建設を勝手に支援する会」へのカンパを、ようやく時間がとれたので郵便局まで出かけていってしたという話を書こうと思っていたのだ。

この「岩国市新市庁舎建設を勝手に支援する会」というのは、http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/1024e23b6593bae40d90381a6048177b のリンクをたどっていただけるのが手っ取り早いのだが、軽くふれておくと、岩国市が空母艦載機の岩国基地受け入れに反対しているため、国が支払を停止した市新市庁舎建設のための助成金を、岩国市の判断を支持する市民からのカンパによって補おうという闘いであります。

すでに、岩国市庁舎は老朽化がすすみ、立て替えが早急に必要であるとか。
私にカンパできる金額などたかが知れているので自慢話にもなにもならないことは百も承知の上であるが、あえてそのことを記事させていただこうと思ったのは、人民と国家の乖離が岩国市の問題にみてとれるからだ。国家は人民の意を代表するような仮象をまといつつ、真のオーナーである資本家の利害を貫徹する。

そうした資本家の利害はあたかも人民の総意として公共の名をもって、いな、こんにちでは露骨に国策、国益として人民に強要される。ニッポンの資本家達は、アメリカ帝国主義の軍事力を後ろ盾として自らの権益を守ろうとしている。そのために岩国市の市民に騒音と事故の危険を平然と押しつけてきた。このたびの空母艦載機の岩国基地受け入れはさらなる騒音被害と事故の危険を押しつけるものだ。

そうした国家の住民無視にたいして、断固たる拒否を示した岩国市民の意志に、助成金をカットするという暴挙をゆるしてはならない。ニッポン国民のために岩国市民は耐え難きを耐えよなどということを認めてはならない。そんなことを許し認めるならば、やがては国家の名の下に個々人の権利はことごとく蹂躙されるであろう。

この小さな市の反逆をまずは、皆が支えてゆこうではないか。岩国市のある山口県はその昔、長州といった。近代日本のながれを生み出したのは、長州が幕府軍を撃破したことによって始まったのではないか。この小さな市の反逆は地域住民のエゴなどではない!
反戦闘争である。憲法9条を守る具体的な行動である。この小さな市の反逆を支えきることができるならば、全国の市民の力で国の横暴をはね返すことができたなら、それを突破口に全国の反基地闘争・反原発闘争・市民運動もかならずや勇気づけられるに違いない。小さな力を結集して大きな勝利をつくりだそう。

国益・国策に一人の人権も侵されることがないよう断固として反対して行く道が、国家最大の事業である戦争を阻止し平和憲法を守って行く具体的行動である。と思った次第なのであります。カネで人の魂を買うようなやり方はダイッキライだ。そんな権力がキライなお方は、ヤメ蚊さまのご提案にご賛同されますことをお願い申し上げます。


怒!新「テロ」特措法成立
新「テロ」特措法が成立した。無念の思いである。2005年9月11日の衆院選の大敗北がいまでも悔やまれる。しかし、過ぎたる事を悔やんでも仕方ないので。

第一に、この油注ぎパシリ法がほかでもない、アメリカ帝国主義のアフガニスタン&イラク人民にむけての侵略行為の兵站活動であり、紛れもない軍事行動であるということを徹底的にはっきりさなければならない。アメリカ帝国主義の意をうけたカルザイ政権など軍事的梃子入れ無しにはもはや存在し得ない。日本は事実上の参戦国家なのだ。

第二に、この油注ぎパシリ法は、格差社会の進展から貧困に苦しむ庶民の血税を、侵略を支えるのみならず給油活動をつうじて企業に独占的な利益をもたらすものであるということだ。イラク戦争に端を発した度重なる原油価格の上昇は庶民の生活を確実に圧迫してきている。「国際社会の要請」なるペテン的言辞をもって、資本家の利害を貫き民衆にさらなる困苦を強制するもの以外のなにものでもないのである。

日本人民はこの新「テロ」特措法の成立に断固たる怒りをもって、自公連立政権を打ち倒し、政権交代をはたさねばならない。選挙は近い、それまで怒りを忘却してはならない。

敗北を怒りにかえて頑張ろう!

でも、政権交代を勝ち取っても民主党がだめなら、そんときは大衆的実力闘争をしょう。と思う。

Resistance
ときたまのぞかせていただいている、あおざかなさまの「あおざかなの買い物日記」にPFLP(パレスチナ解放人民戦線)のサイトでみつけたと貼ってあった画像に、いたく感銘をうけたので貼らしていただくことにした。
ブッシュが9.11以降「テロとの戦い」を連呼するものだからついつい忘れかけていた言葉 ”Resistance”。そう、レジスタンスなのだ。

抑圧されている民衆民族が自らの尊厳をかけて抑圧者にたいして命をとして闘うこと、それはレジスタンス。断じてテロリズムなどではない!

なにを作ったか
先日紹介した道具でなにをつくったかというと、その1キャットタワー

キャットタワー


その2 猫トイレ

ねこといれ


この接合部分がスライド丸鋸の芸達者なところ

とめぎり


その3 棚板

たないた


ところがこの棚板、つけてみてわかったのだが、高すぎて手が届かず、あとからつくったのが
その4 踏み台

ふみだい


踏み台にも収納できるようにつくった

ふみだい2


ので、あまり棚板に積極的意味がみいだせなくなった。
戦争論の説く、物事は目的と目標を誤ってはならないという例


たわいもないお話でした。

切る
今日は久しぶりに武装せる園芸家の武器を公開しよう。それもとびっきり強力な奴。

園芸家は実は日曜大工を趣味にしている。まあ、物作りが好きなわけだ。
知り合いから半端の材木を分けてもらったり、ホームセンターで2×4木材を買ってきては、気が向いたときにちまちま作って楽しんでいる。

木工は決して上手な方ではなかったが、すきであった。というより、好きなのだが、できの良い物はない。ということだろうか。

近年DIY思想の伝道者たるホームセンターがいたるとこにできてから、プロユースの機材が容易に入手できるようになり、それらを活用すればド素人でもそこそこ精度の高い物作りができるようになった。やはり、素人がノコギリと金槌でつくった物はそれなりにしかならないということだ。

とりわけ、素人にとって切るという作業はプロには遠く及ばないものだ。この点を克服すれば、いとも簡単に高精度の物ができる。ということで、今回は切る道具を公開します。


一発目はジグソー 直線曲線自由自在に切れる おまけに安全 でもあまり厚いものは苦手
ジグソー



二発目は電動丸鋸 厚物でもバリバリ切断 でも気をつけないとキックバックで
我が身へ向けて跳んでくることもあり 危険な一品
まるのこ



最後はスライド丸鋸 なんでも正確無比に一発切断 極めて安全 もちろんプロユース
弱点はお値段 素人が手をだすにはちょっと勇気が必要かも
すらいどまるのこ



これらを使って何をつくったか、という話はまた後のお楽しみということで。まあ、たいした物は作ってないけど・・・ (続く)


よかったよかった
行方不明になっていた岩田和輝くん本日1月8日午後3:00無事発見され保護されそうです。よかった、よかった。よくがんばったね。 

「人命がかかっている緊急情報です」の記事は喜びをもって削除いたします。

サイト http://www.netplanna.com/iwata/kazuki.htm

冬に咲く花
なんとなく園芸に力が向かわない年のはじまりである。なんて、のんきなことを言っている場合ではないほどに世の中では、いきなり株価は急落し、原油価格に連動し物価は上昇している。

昨日経済3団体が年頭共同記者会見をひらいた。テレビで見ていたのだが、恐るべし「楽観論」。まあ、事実上のニッポンの「オーナー」がだっめっすなんて絶対に言いっこないのは当然だけれど。

総理大臣の諮問機関である「規制改革会議」が年末(12月25日)「規制改革推進のための第2次答申」をちょくちょくとのぞかせていただいている 情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/ae7f5297e0335d1a2bea2a1c8945df2dのところでとりあげていたので拝読させていただいたのだが、働く者からまだまだ搾り取ろうという魂胆のようである。

搾るだけ搾ったらあとはカスばかりなりで、購買力は無きにひとしい。その矛盾をかの財界のトップはどうするのかをあっさりと言ってのけていた。アメリカの景気がひえてもインドや中国の景気が熱いから全然大丈夫だと。どうやらせっせせっせと死ぬほど働いてその労働の成果は我がものとなるのではなく、インドや中国のごくごく一部のお金持ちのところへと海を越えていってしまうようだ。まことに新年早々無念のおもいである。

我が家のブラウン管TVもそろそろ死滅にむかってカウントダウンが始まったようだ。ニッポンの頂点にいる「オーナー」がかくのごとく考えている以上、地デジに対応するのは並大抵の大事ではかなわない一年となることが早くも見えたようであった。

まあ、いきなり新しい年のはじまりから失望ばかりしても仕方がないので、冬はさびしいばかりの庭で、ひそやかに咲いていた花を今日は貼っておきます。
新年仕事始めからいきなり厳しい現実に直面し、お正月気分もいまひとつ抜けきらず、鬱にはいりそうな方々へプレゼント。癒されて下さい。そうそう、カテゴリーをバラから園芸にかえました。


ぼちぼちと咲き始めたロウバイ春はすこしずつやってくる
ろうばい



いまひとつ咲かないさざんか 地球温暖化?
さざんか2


ガリカ系オールドローズを思わせる見事な花 さざんか 茶毒蛾つかなければ完璧
さざんか


片隅で咲きまくっていた白いお菊さん
しろいお菊さん

「決めポーズ」
肩こり指数 ★★☆

「戦隊ものヒーロー」のなんとかレンジャーにはいわゆる「決めポーズ」というものがある。
かの永遠の名作時代劇ドラマ「水戸黄門」には、印籠をだして「ひかえおろう!」という「決めポーズ」がある。私ら庶民はここに最大限の魅力を感じてしまうわけなのであるが、多くの歴史的評価をくぐりぬけこんにちにいたるまで生き残った古典的名著にもそんな「決めポーズ」にも似た印象深いフレーズがある。

最近とあるブログでみかけた奇妙な表現に「ここがロドスだ、ここで跳べ」という言葉がある。

私はこの意味知らなかったのだが、そのブログで初めてその意味を教えてもらった。ひとつ賢くなった。ちなみにがぜん興味が湧いたのでググってみたら膨大な検索結果が出てきた。あまりの多さにもしかして、世界の常識? 知らなかった自分の無知を思わず恥じてしまった次第なのである。

その意味というのは、イソップ物語のエピソードの一つで、とある街で法螺吹き男が「オレはよ~ロードス島(ロドスのこと)でさ~、ものすごく高くジャンプして(たとえば20mくらいの感じ)それを見ていた人みんなを仰天させたんだぜ~。嘘だと思うのならロードス島にいって聞いてみな」とえっらそうに自慢をしていたらしい。そしたら、そこに居合わせた男が「ここがロードス島だよ!ここで跳んでみろよ」と言って法螺を一蹴したというお話から、真実のまえに理屈はいらないといった意味合いから「論より証拠」といった意味をもっているのだそうだ。

それに似たような表現で、「ここにバラがある、ここで踊れ」というのがある。こちらはバラがここにあるということを、すでに事をなす支度は整ったと言う意味を込め、ここで踊れという言葉に躊躇することなく事をなせ!といった意味であるそうな。
この二つの表現はどちらの意味にも使われているようだ。また、この他にも解釈はあるらしい。

さて、意味は2008年に知ることになったのだがこの言葉、いまをさかのぼること数十年前に知っていたのだ。初対面は大学で比較政治論の講義で「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」を扱っていたときのことだった。冒頭の一発目にこの言葉は登場していた。

「 19世紀の諸革命のようなプロレタリア革命は、たえず自分自身を批判し、進みながらもたえずたちどまり、すでになしとげられたと思えたものにたちどまっては、もう一度新しくやりなおし、自分がはじめにやった試みの中途半端な点、弱い点、けちくさい点を、情け容赦もなく、徹底的に嘲笑する。この革命は、自分の立てた目的が茫漠として巨大なことに驚いて、たえず尻ごみするが、ついに、絶対にあともどりのできない情勢がつくりだされ、諸関係自身がこう叫ぶようになる。
ここがロドスだ、ここで跳べ! ここにバラがある、ここで踊れ!」

その筋ではプロレタリア革命が如何なる性質のものであるかにふれた有名な下りとされている記述である。だけど、その当時ノンポリだった私はこのマルクスの壮大なフランス革命叙事詩のようなこの著作に関心がもてず、一年通しての講義でもボナパのことくらいしか記憶に残っていない。当然意味不明のままこんにちに至っていたというわけだ。

つぎにこの言葉に遭遇したのは、資本論のなかだった。といっても如何せん意味が不明なのでな~んの関心も示さなかったのだけれど。それは、第一巻の第二編「貨幣の資本への転化」第二節「一般定式の矛盾」の最後に登場する。

「貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきである。したがって等価物どうしの交換が出発点として考えられる。まだ資本家の蛹として存在しているにすぎないわが貨幣所有者は、商品をその価値で買い、その価値で売らねばならぬ。そしてそれにもかかわらず、この過程の終わりには、彼が投入したよりも多くの価値を引き出さなければならない。彼の蝶への発展は、流通部面で行なわれなければならず、しかも流通部面のなかで行なわるべきものでもない。これが問題の条件である。ここがロドスだ、ここで跳べ!」

いわゆる流通過程で価値増殖は生じないということをここ第二編の「貨幣の資本への転化」で論じているのだが、その結論への誘いの言葉がこの難解なる下りなのである。

「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」と「資本論」で登場するこの喩え「決めポーズ」がマルクスはとてもお気に入りのようだ。検索から知ったことなのだが 「 ここにバラがある、ここで踊れ !」というのはかのヘーゲル大先生が「法哲学」という自著の冒頭でマルクスに先だち使っているそうだ。マルクスが大先生から多くを学んだ証といったところかも知れない。

ところで、せんだって記事にさせていただいた「暴力の復権のために」を故本多書記長はこう結んでいる。

「プロレタリアートの暴力性にかんする自覚もまた、けっして自然発生的に形成されていくのではなく、革命的前衛の組織的実体を媒介としてはじめて形成されていくのであり、しかも、それは、革命的前衛を中核とするプロレタリアートの暴力性の組織化と、それの政治的勝利を主導力として実現されていくのである。

革命的共産主義者の党は、プロレタリア解放の鼓吹者であるばかりでなく、その組織的実践のうちにプロレタリアートの暴力性を先行的に表現していく戦闘者集団でなくてはならないだろう。まさに、武装された伝道者として党が大地に確固としてたちあがったとき、はじめてそれは、政治と軍事との機械的分離をプロレタリアートの暴力の復権として統一していくことができるのであり、前衛指導部として歴史の試練にたえうる根拠を形成したことを意味するのである。

まさに、プロレタリアートの暴力こそは、破壊のための情熱のおたけびであり、建設のための理性のめざめであり、自由のための連帯のあかしである。人間社会に階級対立や社会矛盾のあるかぎり、プロレタリアートの暴力は、エジプトを脱出した荒野のモーゼのように、人間解放の炬火に焼かれながら休息することなくたたかいつづけるだろう。革命詩人ハイネによれば、知恵の女神は、オリンポスの山で、男女の神々が裸で酒や食物を酔いくらって楽しんでいたとき、こうした喜びのさなかにあっても、よろいをまとい、かぶとをかぶり、槍を手から離さなかったそうである。ギリシャ神話の知恵の女神が身をもって示した知性の暴力性を、現代の革命的前衛が自己の組織的実践としてうけとめるかどうか―七〇年代における革命の時代の到来は、このようなものとして準備されているのである。」
(改行は薩摩長州によるもの 本多延嘉著作選第二巻より引用)

世に天才とよばれる先哲はしばしば故事を引き、その溢れんばかりのパトスをさりげなく表現するようだ。それに裏打ちされたロゴスをうけとる凡人は努力を惜しんではならないということなのだろう。すべてを受けとろうと思うのであれば。
学問に王道無しという言葉の重さをあらためて感じさせる「決めポーズ」のような言葉 「ここがロドスだ、ここで跳べ! ここにバラがある、ここで踊れ!」なのであった。


寝しなに睡眠薬がわりにちびちび読み返す資本論 前回は大月のもの 今回は岩波
CP直営の新日本出版はどうなんだろうか?
しほんろん

剪定
昨日今日とよい天気だ。大晦日と元日がしこたま寒かったのがうっそぉのようだ。
絶好の園芸日よりである。のだが、はかどっていない、というより他にやらねばならないことができて、後回しにしたのだ。それも今日午前中に片がつき、一杯やりつつ昼食をいただき一休みしたのちぼちぼちと武装して園芸を始めた。

さしあたって手始めにバラの剪定をはじめたのである。バラの剪定は「汝の敵に剪定させよ」といわれるくらい思いきっていけぇ!なのである。とはいえ、きりゃあいいてもんでもなく、なおかつ、品種によってまちまちなところがあるのでちと面倒でもある。

決まり事のようにあつかうことができるのは、モダンローズの旗頭であるハイブリットティくらいのものだというのがどの教科書でもいわれていることのようである。
つるバラはそれらとは全くと言ってよいほど剪定はことなるし、はやりのイングリッシュローズなどは、ただいま考え中といった水準のようだ。もっともそれは、瞬く間に世界中で大量に、さまざまな環境で栽培されている、複雑怪奇な交配を繰り返した品種群ゆえのことなのだろうが。

一般に、ハイブリットティに代表されるモダンローズは 人差し指くらいの立派な枝をのこして、かなり深く剪定するようだ。最近は私もそうしている。そのほうが花数はすくなくなるが大輪の花がつくのだ。もちろん枝先の細枝を払う程度の軽い剪定もありで、そうした場合花数は中輪だが多くつく。そのあたりの選択は自由であるが、必須で切らねばならない枝は、細枝や、枯れ枝、2年くらい経過した古枝、株の中心にむかって混み合うように伸びた懐枝、枝と枝がかさなりあった交差枝は剪定して株をすっきりとさせた方が病気の発生を抑制する上でも、細枝をのこして開花のエネルギーを徒長に浪費することを防ぐ意味でも有利なものとなる。

一方こんにち流行のオールドローズは、その樹形がモダンローズのブッシュ型といわれる太枝が何本か天に向かって直立するタイプではなく、シュラブ型といわれる比較的多くの枝が茂るように長く成長しこんもりとした樹形をなすものが多く、細枝にも花をつけるので枝を多く残すように剪定をする。もちろん枯れ枝、古枝、懐枝は取り除くが比較的あさめの中程度の剪定をおこなうようである。

チャイナローズのルイ14世
ルイ14a


ルイ14b



チャイナローズの粉鐘楼
粉鐘楼a


粉鐘楼b



ハイブリッドパーペチュアルのヴィックスカプリス
ビックスカプリスa


ビックスカプリスb



モスローズのサレット
サレットa


サレットb



イングリッシュローズはその作出地であるイングランドの冷涼な気候とことなり、高温多湿の夏をもつ日本の場合は、多くの園芸家の指摘の通りその多くは育ちすぎ、シュラブというよりつるバラのような成長をするようである。以前は伸びた枝を横に倒し誘引し、つるバラ扱いしていたのであるが、まだ株が若いこともあってか花付きはまずまずなれど、どうも花の小ぶりが嗜好にあわず、少々強めに剪定して大輪の花狙いをしている。まあ、この品種は幾つかのブッシュ型を除いては、好きなように切ればいいようであるし、それでも良好な開花が期待できるようである。ただ、一般的に表されているほどに強靱でもなく、もちろん弱くはないが、ほったらかしでもガンガン育ちバリバリ咲くようなことはないということは、去年のしょぼい秋でよ~くわかったので、それなりに株の風通しをよくすべくすっきり剪定しておくことは重要なようである。


イングリッシュローズのポートメリヨン
ポートメリヨンa


ポートメリヨンb


総じて、私の嗜好は大輪なので、生粋のつるバラをのぞいてかなり大胆に鋏を入れるようになってきている。まあ、栽培量が拡大していちいち思考して切っていたら時間がかかりすぎるのでばっさばっさと骨髄反射で切りまくっているというのが本当のところなのだけど。

つるバラはちょっと気が遠くなるくらい手間がかかりまくる。基本は、3年以上経過した古枝はばっさりと切り、新しく伸びた長い新枝を横に倒し誘引する。その際の剪定は先端部を15から20cmほど切り詰めるようにする。先端の細い部分では花は付かない。
横に倒し誘引し今年咲かせた枝はそこから伸びた枝分かれ部分を一芽から二芽残して切る。もちろん徒長した弱い分かれ枝は元から切る。この2年目の枝は横に倒さず直立させても一芽二芽残した部分が成長し花をつける。そうして、すっきりと剪定し誘因するわけなのだが、トゲトゲの枝が顔面にむかって鞭のように飛んでくることもあるし、無理な誘因で枝を折ってしまうこともある。面倒で危険な作業である。それでも、つるバラの咲きっぷりのよさは時にニッポン人の心の花である桜をも凌ぐものである。私はつるバラのしたたかな強さと咲きっぷりのよさと、ときに手に負えないじゃじゃ馬なところがとてつもなく愛おしく思うのである。(続く)

浦島太郎
レーニンの著作に「なにをなすべきか」そのすじで通称「なになす」とよばれる本がある。
必読の一冊である。すでに私の粗末な頭の中ではその多くの部分が風化し印象的な部分が断片的に残っているに過ぎないが、その核心ともいえる部分の一つである外部注入論はその筋の者であるなしにかかわらず、その評価は善し悪しあれど、その妥当性はいまだ失われていないと私は確信している。

さて、些細なことをきっかけに、ちょっと読み返してみたいところがあったので、大掃除がてらさがしてみたのだが、見つからないのである。これはとても大切にしていたものの一つなのでなくすはずはないと執念もって探したのであるが見つからない。やがて、執念はフェードアウトし、最後に手にとったのがいつだったか思い出せないくらいの代物だから、度重なる引っ越しで失った可能性は大だという思いに感情がおちついてゆく。

てなわけで捜索を打ち切り、amazonにでも注文しようと思って検索してみたところ、おいおいというお値段がついていた。な~んとコレクターアイテムとなっていたのだ。
すっごいショック!!まさか、絶版になっていたとは、とほほな気分になった。左翼の衰退がいわれて久しいが、まさか「なになす」がコレクターアイテムとしてプレミアがつく時代がおとずれるとは想像もしていなかった。
そんなはずはとおもい、amazon以外の本屋を検索してみたのだが、絶版にて古書市場にも流通はないようだ。

時代の移り変わりはこういう風にして為されるのだという妙な実感だけが胸の中に広がって、何か言いしれぬ不安と寂しさのようなもので心がいっぱいになった。

まあ、かくなるうえはレーニン全集のたしか第5巻に「なになす」はあったような気がしたのでそいつをゲットしようか、それともいっそ、アッテンさんが全集を全巻オークションでゲットしたそうだし、まねっこして私も全巻手に入れて生涯をかけて読んでみようかというおもいがメラメラとわき上がってきた。一年が始まってまもない日のことでありました。

追記 むっかし読んだ「青春の墓標―ある学生活動家の愛と死」がamazonで6450円よりで売りにでていた。これにもびっくり。まるで浦島太郎になった気分になった。



縁起物干支のねずみ夫婦 とある作業所のしょうがい者の方の丹精込めた作品
旦那ねずみは猫どもの襲撃にあい拉致暴行を受けるも間一髪無事生還
縁起物

謹賀新年
新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

文句なしこの冬一番の寒さだった。あたたかい日が続いていたので寒さが身にしみる。
あいにくの雪の舞う天候に、園芸にはいまだ着手できていない。ちょっとでばなを挫かれた感じか。

さて、今年も旧年とかわらず、猫ネタ、園芸ネタ、昔話もありの政治ネタ・経済ネタ、日々の雑感をとりあげてゆきたいと思っております。生来の筆無精にして、勉強嫌いの横着者でありますのでぼちぼちと進んでゆくつもりであります。なにとぞ飽きず懲りず怒らずお付き合い願えましたらなによりの幸いと思っております。

「平成」なる元号が登場してはや20年目だ。それはふりかえって権力の切なる願望とはうらはらに、どこが「平成」といえるくらいの激動の連続だったと思う。先の見えづらい激動期への突入の号令が「平成」であったのではないだろうか。

最初は失われた10年、つぎの10年は痛いばっかりの「構造改革」、おつぎはどんな10年とあいなることやら、そんな結節点となる2008年の始まりはちょっと怖いけど、興味をそそられるものではある。勇気をもって方向を見据えてゆこうと思う。

とはいえ、毎度のセリフではあるが、あかるいニッポンの夜明けを拝むには、とにかく生き抜いてゆかねばならないので、私にも皆々様にも頭上から幸運が降り注ぐことを心からお祈りしてという、社会科学「信奉者」の言とは思えない発言をもってご挨拶とさせていただきます。



新年




ニャンケさまよりさっそくに新年のご挨拶をいただきましたのでここで、お礼をのべさせていただきます。

あけましておめでとうございます。ようこそお越しくださいました。お気楽系ブログではありますが、ときにはコアなことも取り上げさせていただいております。もともと理論家ではない私でありますので、勘違い、間違い、暴論、暴言がときにございます。そんなときは、やんわりとご教授ねがえたらと思っております。いまだ党派性は残存してございますが、それをこえて細く長いお付き合いを願えればなによりの幸いであります。
そちらもちょくちょくのぞかせていただいておりましたし、ニャンケさまのご意見も拝読させていただいておりました。かさねて、こちらこそよろしくお願いいたします。
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