たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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一年草
今日お仕事からもどって、まだ日があったので一年草を植え付けた。そう、「切りまくりの午後」という2月24日にあげた記事に登場する苗である。実にひと月以上植えずに庭に置きっぱなしにしておいたのだ。あまりの自堕落ぶりに、思わずちょっと反省。今年は園芸のモチベーションがいまいち。

例年、年末のころに一年草をプランターに植えることにしているのだが、今年はこんな体たらくである。今日植え付けた冬春間の一年草はおそくとも6月ころには夏秋用の一年草に植え替えることにしているので、2月ちょっとのお付き合いとなりそうだ。短い付き合いに思わずごめん。

冬春用はビオラ、ノースポール、プリムラポリアンサ、ガーデンシクラメンあたりが定番となっている。夏秋用はトレニア、アメリカンブルー、マリーゴールド、バーベナが定番だ。これでおおむね我が庭から花がないという事態は回避できるのである。
130種を越えているであろう四季咲き性のバラ群も(怖くて正確にカウントしたことはない)ときに一番花と2番花の端境期においては花がない場合が生じるのである。

ところで、いまだ人気のイングリッシュガーデンは時代の変遷とともに様々なスタイルをバリエーションとして確立してきたものであるが、いわゆるボーダー花壇に代表される草花密集して段々畑のように咲きまくり状態の中核をなすものは宿根草であり、多年草なのであるが、実は私はこのなかでも宿根草が苦手である。いままで枯らしに枯らしまくってきたものである。どうも相性が悪い。一番の理由は、花期を終えやがて地上部が枯れるとどこへやらと言わんばかりに、まさに地下にもぐってしまうのがよろしくない。

バラは施肥など、とりわけ休眠期における寒肥のふせこみなど株周辺を掘り返すことが必要であり、そのさいコンパニオンプランツとして植え込まれた宿根草を掘り出し、根絶やしにしてしまう、誤爆が発生してしまうのである。てなわけで、宿根草で生き残っているのは、キク科の3から4種類程度のものしかない。

てなわけで、低価格にして成長旺盛な一年草を年2回のサイクルで植え替えて栽培している次第なのである。一年草の成長は早い。宿根草や多年草のように数年の緩やかな成長時間を必要としないぶんだけ一気に成長する。そのさまはまるで「生き急ぐ」の感すらある。だが、冬春の一年草は夏の暑さが越えられない、夏秋の一年草は冬の寒さが越えられない。やがては萎れ枯れてゆく定めなのだ。

年2回の植え替えのとき、盛りをとうに過ぎ、もう余命幾ばくもない一年草を棄てるとき、「ごめん、そしてありがとう、来年また会おう」と小声でくちにする。ちょっとセンチな瞬間。おもいっきり咲きまくって終わる一年草は小さくて素朴な愛すべき花たちなのである。



まずは土をつくる。バーク堆肥と赤玉土の小粒でいく。ちょっと手抜き、バラの場合の調合はもっと面倒。牛糞とかパーライト、燻炭、ピートモスなどをさらに加え調合する。

土作り1


調合比率は1対1

土作り2


まぜまぜする

土作り3


ノースポールの植え付け完了 白い清楚な小花が素敵!

ノースポール


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「涙の谷」
先日、ヘーゲル法哲学批判序説を引用したのだが、そのなかで「宗教への批判は、宗教を後光とするこの涙の谷(現世)への批判の萌しをはらんでいる。」という下りがあるわけなのだが、このなかの「涙の谷」という表現がちょっと関心をひいた。

読んでいるときは(現世)と注釈があったので素直にそのまま読んだわけなのだが、以前とりあげた「ここがロドスだ」につづいてなんともこの意味深な「涙の谷」が気になって気になって仕方なかった一日なのであった。

てなわけで、帰宅してからググってみたところ、聖書からの引用であることがわかった。いっやあ、便利な時代になった。広辞苑は完全に乗り越えられた。現代用語の基礎知識も歴史的使命をおえた。ただ、利用するには多少リテラシーがないとまずいかもしれないが、便利便利でお手軽簡単。

「涙の谷」というのは「嘆きの谷」ともいって、特定の地名ではなく荒廃と嘆きのある場所 という意味の言葉らしい。ほとほと宗教とは縁もゆかりもないない私には初耳であった。もっとも私の知らぬところで世間の常識とは言わぬまでも、インテリゲンチャのあいだでは広く知られていることなのかもしれないが。あいにく私はその類ではない。

極楽浄土の楽ちん世界であるあの世に対比し、いっやーなこと、辛いこと、苦しいことなどなどろくでもない事で満ち満ちている現世を「嘆きの谷」「涙の谷」と聖書が表現して以来、こんにちまで基本的にその意味するところに異議をとなえる必要がないくらいはまり言葉ではあると思うのだが、はたして「涙の谷」という言葉の意味がどれほど妥当であるかを考えてみる。

グローバリゼーションの進展を逆手にとった国際競争力という恫喝と、生の資本主義のルールである市場原理主義への回帰がまたたくまに「涙の谷」をいたるところでもたらしただろう。仕事がない、失業中だ、食っていけないほど賃金が安いなどなど。嘆きと涙はとても増大したにちがいない。世に満ち満ちた嘆きと涙がやがて引火点をむかえ、導きの使徒によって怒りとして燃え上がるのか、あるいは発火点をむかえ自然と大爆発をおこし「涙の谷」を木っ端微塵に粉砕するのか、あるいは聖書を枕に粛々と嘆きと涙に暮れるのか、今の情勢下では見通すことはかなわないけれど・・・

聖書は世界にあまねくいきわたり、各国語に翻訳されている書籍ナンバー1であることは有名だが、ナンバー2は資本論である。このランキングが逆転したとき、人の死が涙をもってうけいれられることをもって、あの世を「涙の谷」とよぶ日がくるかもしれない。きて欲しいな、とたわいもない願望なのであった。


ちょっと不思議な魅力を感じてしまうこの一冊 もちろんもってはいない 
マル・エン&レーニン全集すらもってないのだから

聖書

宗教  チベット暴動によせて
肩こり指数 ★★☆

ついこのあいだお仕事で街中にいたとき、昼時に近くの大きな本屋さんをのぞいた。そしたら、廣松版の「ドイツイデオロギー」が岩波文庫ででていた。大昔の学生の頃それを有り難く拝読したときは、大月の文庫本であったのだが、この廣松版はかなり高い評価を聞いていたので入手しようと思っていたのでラッキーとばかりに速攻で買った。

ついでといってはなんであるが、そのとなりに並んでいた「ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説」もあわせて買った。若きマルクスが(たしか26歳くらいだったか)ヘーゲル左派を跳躍台に弁証法的唯物論を形成してゆく初期の過程の著作である。大昔から関心があったのだがなぜか読むことがなかった一冊だった。ユダヤ人問題が60ページほど、ヘーゲル法哲学のほうが25ページほどの小冊子だ。だけど、どちらも難解でじつに手強いお話なのである。まるでカタツムリが這うようなスピードでしか読み解くことがかなわない代物であった。

さて、無神論として一般に理解されている唯物論であるが、それによってたつマルクス主義は神を、宗教を否定するものとしてとらえておられる方が、この間のチベットの暴動と中国共産党の暴力的鎮圧をめぐる論議のなかで思いの外多いものだと私は感じた。
マルクス主義=中国共産党VSチベット仏教=宗教という対立構造としてとらえ、中国共産党のチベット人民の虐殺を肯定する意見もあれば、その逆に中国共産党の暴挙を非難するをもってマルクス主義を否定する意見もある。はなはだ事は複雑怪奇なる様相を呈しているように見えた。

私ら「反帝国主義・反スターリン主義の旗のもと」に両足をつっこんでいたものにとっては、中国共産党は共産主義ではなくて、その疎外形態であるスターリン主義の党である。であるがゆえに、チベット人民による中国共産党による抑圧に抗するチベット人民の怒りの決起を断固として支持し、中国共産党の虐殺行為を激しく弾劾するものである。ということになるのであるが、それをもって欧米列強の帝国主義国家群が連呼する中国批判に一体となって同調するものではない。なぜなら、米英を軸として、日本も日々イラク人民の抑圧に荷担しているものであり、それ以外の帝国主義国家群もそれぞれの勢力圏において新植民地体制のもと他民族を抑圧搾取収奪をなしているものであるからである。

帝国主義の抑圧搾取収奪は悪である。そして、スターリン主義の抑圧搾取収奪も悪である。どちらにしても人民に対する暴挙には弾劾の声を上げてゆなねばならないと考えるものである。
このような立ち位置については相互リンクをさせていただいているアッテンさんが自ブログの「アッテンボローの雑記帳」にたいへんよい記事をあげておられたのでスターリン主義の解説も含めてお読みいただけたらということで、今回、スターリン主義の話はのちの記事に譲りたいと思う。

ここで話を本筋にもどすのだが、「宗教は民衆のアヘンである」とマルクスは言った。
マルクス主義の弁証法的唯物論を語るときよく聞いた一言である。今回のチベット暴動にかんする諸意見の一つがアヘン=麻薬=悪という社会通念から宗教=悪という等式を導き出し、一般論としてマルクス主義が宗教にたいして敵対的な立場をとっていると思っておられる方が結構多いと感じたのは冒頭のさわりで書いたとおりである。

この「宗教は民衆のアヘンである」という下りは、このたび買った「ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説」という本のヘーゲル法哲学批判序説の冒頭に登場する。ちょっと長いが引用してみることにする。

「反宗教的批判の基礎は、人間が宗教をつくるのであり、宗教が人間をつくるのではない、ということにある。しかも宗教は、自分自身をまだ自分のものとしていない人間が、または一度は自分のものとしてもまた喪失してしまった人間か、いずれかの人間の自己意識であり自己感情なのである。しかし人間というものは、この世界の外部にうずくまっている抽象的な存在ではない。人間とはすなわち人間の世界であり、国家であり、社会的結合である。この国家、この社会的結合が倒錯した世界であるがゆえに、倒錯した世界意識である宗教を生みだすのである。宗教は、この世界の一般的理論であり、それの百科全書的要綱であり、それの通俗的なかたちをとった論理学であり、それの唯心論的な、対面にかかわる問題であり、それの熱狂であり、それの道徳的承認であり、それの儀式ばった補完であり、それの慰めと正当化との一般的根拠である。宗教は、人間的本質が真の現実性をもたないがために、人間的本質を空想的に実現したものである。それゆえ、宗教に対する闘争は、間接的には、宗教という精神的芳香をただよわせているこの世界に対する闘争なのである。

宗教上の悲惨は現実的な悲惨の表現でもあるし、現実的な悲惨にたいする抗議でもある。宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である。

民衆の幻想的な幸福である宗教を揚棄することは、民衆の現実的な幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてもつ幻想を棄てるよう要求することは、それらの幻想を必要とするような状態を棄てるよう要求することである。したがって、宗教への批判は、宗教を後光とするこの涙の谷(現世)への批判の萌しをはらんでいる。」

マルクス主義者はいままさにそこにある現実を無視して即時的に、敵対的に、宗教を嫌うものではなく、否定するものでもない。民衆が宗教を必要としなければならないそんな社会のありかた、抑圧や差別、搾取・収奪による民衆の現実の悲惨を心より憎み、それを否定すべく社会を変革することをつうじて現実的な幸福を実現し、宗教を民衆が必要としなくなることをめざすものである。マルクス主義は人間の解放を目指すものである。

かつてのソビエトロシアのスターリンのように宗教を直接的に弾圧し根絶やしにすることがマルクス主義ではない。社会において過度期的には宗教が根をはる土壌はそうやすやすと尽きることはあるまい。そのことにたいしてマルクス主義者は宗教者のデリケートな宗教感情に十分な配慮をし、粘り強く啓蒙と説得をおこなう闘いをとおして、獲得してゆかねばならないのである。そして、それをもって宗教が根をはる土壌を革命をもって変革してゆかねばならない。事は一足飛びになせるほど単純ではない。まして宗教をもって現世の苦痛を癒すことをもって生きる善意の人民にたして、安直に暴力を用いるのはナンセンスである。

チベット人民の社会がダライ・ラマを頂点とするチベット仏教を軸に政教一体のものとして形成されている現実に、「無知蒙昧な、時代遅れの封建社会を正す」がごとき言説をもってチベット人民を抑圧するはお門違いもはなはだしい。そうあってはならないからこそ、民族の自決は原則として貫かれなければならないのだ。中国人民は「改革開放」路線がひらいたパンドラの箱をスターリン主義の打倒への闘いへの突破口となしてもらいたいものである。断じてその災いが、都市と農村の矛盾が、チベット人民のような少数民族へ排外主義的に転化されることがあってはならない。暴動が中国農村部各地へと広がりをみせていることは否応なしにそうした歴史的選択をもとめられることとなるのではなかろうか。

「他の民族を抑圧する民族は自由ではあり得ない」いまいちどこのマルクスの言葉をかみしめる必要が全世界の人民にはあるとおもう。


難しい本であった どうも哲学系は苦手 歳をとるほどにますます
ユダヤ人問題



おわった!
やっとバイオハザード4が終わった。お仕事はまだちょっと忙しい状態がつづいてはいるが山は越え先はみえた。

ひさかたぶりにやりこんだゲームであったが終わってみて感無量である。3回やってしまった。というのは難易度がAmature・Easy・Normal・Professionの4ランク設定されている。Amatureはいくらなんでも簡単すぎそうだったのでEasyからはじめたのであるが、これがなかなかむずかしい。コントローラーのレスポンスの悪さともあいまって討ち死にしまくり。日曜日に速攻でコントローラーを買いに走る。でもって成績はというと

命中率68.6% 総撃退数798 死亡回数97 クリアー時間32:00:26

これでやめようと思ったのだが、Normalを選択するとなんと、そのしたに世界標準の難易度と書いてあるではないか。このグローバリゼーションの進展の世にあって、世界標準といわれると引くわけにはいかない。この難易度で再チャレンジをはじめた。おおむねEasyで勝手が知れているので、明確な戦略をもって臨む。敵戦闘力は数、力ともにアップしているが、そこは早々にライフルを入手しひたすら狙撃に励む。ヤバイとおもったらひたすら逃げの一手。防衛戦争の絶対的勝利はゲリラ・パルチザン戦争の基本中の基本。
てなわけで成績は

命中率86% 総撃退数918 死亡回数55 クリアー時間30:08:46

だいぶ調子がでてきたのでProfessionalに勢い臨んでみたのであるが、かなり難しいという評価に違わぬ強力な敵戦闘力と桁外れの機動力にいきなり翻弄される。雑魚キャラに2発殴られたら死亡する。ショットガン5発以上叩き込まないと倒せない。それにしてもProfessionalってこれで飯が食えるわけじゃなかろうとわけのわからない疑問をいだきながらもひたすら狙撃に励む、敵に囲まれたら手榴弾、回復アイテム満載で累々たる屍をこえて前進する。成績は

命中率81% 総撃退数918 死亡回数215 クリアー時間48:26:02

まあ、私はあまり腕のいいゲーマーではないのでこんなもんだと納得しているのだが、それにしてもやりがいはあった。ちょっと謎解きが単純すぎるきらいはあるが、ゲームバランスとしては絶妙なところをついていて下手は下手なりに楽しめるものであった。暴力論に鑑みてあまりすかっと爽快な代物ではないのではあるが、そこは過度期に生きる者の宿命と開き直ってやり込んだわけであるが、青少年にさせたいような代物ではない。
バイオハザードまにあのお仕事仲間が言うところによると、これをやっているとそこのうちの小学生は恐ろしがって跳んで逃げるそうである。いたって健全なご子息であると思う。

レーニン主義を体現するような、レーニンが残した多くの政治的教訓を織り込んだレーニン全集のようなゲームが希望である。せっせせっせとオルグをしてまわり、党をつくり、宣伝・扇動をおこないながら人民を階級として組織し、建軍をなし一斉武装蜂起で権力奪取。プロ独樹立まで革命のリアリズムを体験できるようなシミュレーションがあればすばらしい。レーニン全集を読む手間が省ける。ときには秘密警察による弾圧あり、ファシストの襲撃あり、スターリニストや日和見主義の裏切りや敵対ありでなかなか内容豊かなものができるとおもうのだが。戦争物や三国志のような政治色が濃厚なゲームがあるのだからできないことはないとは思うのだけれど、テーマが「反社会的」だから無理か。とたわいもない妄想とともに、親指の腱鞘炎を残してゲームにかける日々はおわりますた。

こんな感じで村人が束になっておそいかかってくる
biohazard4.jpg


このたび新調したコントローラー 左手の親指がすっかり腱鞘炎でおもいっきり痛い ただいま湿布中
ゲームコントローラー


KIZUNA
肩こり指数 ★☆☆

先日、樵という記事をあげた。樵といえば愚樵さまなのであるが、「たかが木とはいえ大切に育ててきたものを切って倒すというのは、あまり爽快な気分とはいえないものだった。」書いてみたもののプロは職業的信念をもって木を切っておられるのであろう、ちょっと失礼な物言いだったかなと思いが及んだ。

とはいえ、とりあえずはその気持ちを私が知ることはできないので、あまりたちいったところを思索するならば「万物の霊長たる人の業」といったところをめぐっての話となろう。まあそれは今回はふれないこととして、”「私」と社会とを結びつける絆 ”というお題で愚樵さまが記事をあげておられたので拝読させていただいた。ちょっと話が難しいと思ったのですべてをつかみきれてはいないのだが、絆というものに思ったところをちょっと書いてみようとおもった。

原理論レベルで資本主義的生産様式において社会の絆というのはお金である。それ以外はない。だが、実際は地縁血縁などのお金を絆としない関係性も現実には存在する。まあ、とかく世の中は原理論どおりにはいかないものでそれぞれ個別具体的な資本主義の発展における歴史的諸事情というものがあるものだ。だが、原理原則はそうしたバリエーションの奥底で貫徹されるものである。

そうした地縁血縁の絆は、以前”封建社会への憧れ”でも書いたのだが、封建社会の残渣である。生産力の発展が社会を維持してゆくに精一杯の段階では、村々での地域共同体における個々の構成員は生産の共働を基軸とした運命共同体である。そうしたありかたを根底的に規定していたものは、生産手段としての土地の所有であり、それにもとづく自給自足経済であった。

封建社会での絆はこの生産手段としての土地を物質的根拠とし、それにもとづく共働をつうじて個々人の頭の中に芽生えた共同の観念である。
資本主義的生産様式の確立の条件である本源的蓄積の過程の重要な条件の一つは、この土地という生産手段を人から暴力的に引きはがし着の身着のままの「自由人」をうみだすことであった。それは同時に封建社会の絆を切断してゆく過程に他ならなかったと言える。

土地を追われ「自由」になった人は同時に生活の糧を手に入れる術と絆をうしなった。そんな彼が生活の糧を手に入れる手だては自らの労働力を資本に商品として売り渡し、賃金というお金を得ることだった。それは、新しい絆の獲得だった。雇われた職場ではすぐに気さくな仲間ができたかもしれない。それは、ともにお金を得るために集った仲間だ。床屋にいくと話し上手なおやじがきれいに散髪をしてくれる。それは散髪料を支払うことが前提のことだ。資格や地位を求めることがより多くのお金を呼び寄せるための自己投資にほかならないといったら砂を噛むような話だが真実である。
これも以前”年を重ねてわかること”で書いたことだが、金の切れ目が縁(絆)の切れ目であり、お金がとりもつ人の縁(絆)なのである。そんな社会だからこそ銭金ぬきのつきあいがとても眩しく素晴らしく思えるのであり、封建社会への憧れがときとして頭をよぎったりもするものである。

資本主義的生産様式においては個々人に分断され取り替え可能な労働力商品として存在する。その商品を社会のなかに結びつける絆はお金なのである。
しかし、封建社会ではそうではなかったと私は考える。共同体の構成員は共働の必要からとても濃い関係性をもっていたのではなかろうか。だれもが家族をこえた「かけがえのない者」だったのではなかろうか。固く結びあうことによってのみ、社会的生産力を維持し得たのだから。いわゆる「村八分」という共同体のルールが、それを宣告された者にとって死にも近い意味をもっていたことがうかがえるのである。それでも、火事と葬式の時だけは付き合いをするというこのルールは逆説的にも、共同体の結束の強さの証左であるといえる。

私は犯罪被害によって、「かけがえのない者」を失った悲しみは当事者だけの感情であるということが、資本主義的生産様式のもとで、個々人が社会において分断され孤立しているという、他人の不幸が自らに直接的な影響を与えることがないという「虚構」、人間本来の「個に死して類に生きる」本質から疎外され、「家族」という閉じた形態ををもって存在する現状から生み出されているものであると思っている。極めて、歴史的社会的本質にを根ざした感情なのだ。

人はその本質的ありかたから他人の悲しみに肉薄し共有することはできる。そして、強く結びあうことをもって分断を乗り越えたとき忌まわしき犯罪の根を断ち切る前提としての諸関係をうちたてることができると考えている。そのとき私たちはお金にかわる新たな絆を手にすることができるであろう。

次回不定期につづく・・・かも


今年2年目のクリスマスローズ はじめての開花 ちょっとしょぼい
くりすますろーず


ラインゴールドという品種のコニファー ほったらかしで丸くなる 下枝が枯れ込んだのでスタンダードにした
らいんごーるど

今年はお仕事が忙しい。儲かって暮らしがよくなるわけでもないので、ただのくたびれ儲けなのだけれど。とはいえ、毎度のセリフなのだが「明るいニッポンの夜明け」をみるまではとにかく生きてゆかねばならないので賃労働に励むのである。

てなわけで、さきにもふれたがバイオハザード4にずっこりはまってしまったせいもあって、すっかりとブログの更新を放棄してしまった。これほどはまったのはTOMB RAIDERいらいのことである。わりと武装せる園芸家は凝り性で、はまると抜け出せない性分なのだ。

元来の拙いブログに、更新の放棄が付け加わったら訪れてくださる方など皆無となろうところと私は考えていたが、にもかかわらずのぞいてくださる方がおられることはとても感動的ですらある。根っからの筆無精にして、勉強嫌いの浅知恵モノゆえお許し下さいマシ。

あやまりついでに、武装せる園芸家は庭木にも詫びなくてはならない。全然庭仕事が進行していない。このところ一気に春めいてきて気温も上昇、バラの芽が動きはじめている。ようやく今日、鉢植え、地植え、つるバラ、全ての剪定が完了した。


剪定前のつるバラ
マダムアルフレッド・キャリエール


剪定後のつるバラ
つるバラ剪定後


剪定枝の山=トゲの山
剪定枝の山

すっかりと期を逸してしまった硫黄石灰合剤の散布はもうできないだろう。園芸をはじめて初めての失態である。なんとなくしょぼい春の予感。なんとかして取り戻し策動をせねばならない。次の日曜日に強力な武器を投入して一斉武装消毒をすることにしよう。放置し続けてきた雑草も一斉殲滅せねばならない、どうか雨が降りませんようにと祈るのであった。

さて、今日の園芸のメインの作業は、コニファーを7本切った。全長4mから6mほどの6年ほどそだてたものだ。針葉樹は葉と葉がふれあうほどに密生すると急速に枯れ込む。蒸れと日照が不足することが理由なのだろうが、いよいようちの猫額ガーデンもそのような状態をむかえたのである。


ばっさりと切り倒したのはブルーアイスという品種
コニファー 合掌1


合掌・・・
コニファー 合掌


去年からずっと迷っていたのだが、ついに踏ん切りをつけた。それにしても、たかが木とはいえ大切に育ててきたものを切って倒すというのは、あまり爽快な気分とはいえないものだった。全ては、数年あるいは数十年さきの景観をイメージして庭をつくる能力が不足していたことによるものなのだけど。
園芸は奥が深い、政治にははるか及ぶべくすべもないにせよ。だだ、それは無策の失敗を切って捨てることがゆるされないかぎりにおいての話ではあるが。合掌




3.14
ちょっと更新をサボってしまった。お仕事に火がついているのと、バイオハザード4が佳境にはいっている(笑)。書かなくなると、書けなくなるところが凡人の証か。とはいえ今日は危ない系サヨクのおっさんとしては感慨深き日であるので号外的に一言。

3月14日は1975年、本多書記長が虐殺された日である。私はその後に結集したので故人を知る者ではないのだが、それはそれはすごい人だったそうだ。100年に1人といえるような革命家であったそうである。

本家本元でも、それに連なる所でも、縁あるところでもほとんど話題に上らなくなってしまった3.14がこんにちの前衛の分裂と混乱ともあいまって30年をこえる月日の重さを実感させる。

階級闘争の地平は時として混乱による停滞はあれど後退はしない。かつての指導部はこう口にしていたものだ。いつだって敗北をかさねつつ、その敗北に学び一歩ずつ前進してゆく。前に進むが故の困難は「勝利に向かっての試練」である。

レーニンは勝利すれども、後継のトロツキーはスターリン反革命に敗北し、革命は裏切られる。スターリニズムはファシズムに勝利をもたらし民衆を世界大戦の惨禍に叩き込む。そうした歴史の事実と総括は闇に追いやられても決して消し去ることはできなかった。

そんな語りべの1人として当ブログも微力ながら、これからも自らの再学習もかねて本多延嘉著作選の紹介を少しずつではあるが続けてゆこうと思うものである。故人への哀悼の思いをこめて。

更新サボタージュ中にもかかわらず訪れてくださった方々には心より感謝いたすしだいでございます。ぼちぼち通常モードへ戻してゆこうと思っております。ご愛顧ありがとうございます。<(_ _)>


革命家本多延嘉氏 (著作選第6巻より)
本多氏
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