たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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2009 しょぼい春 その2  お玉さまに捧ぐ
いやいや、らしくない、自制心が吹き飛んで、おもいっきり語っちまった! お仕事が済んだ開放感も手伝って。
お仕事しながら、ちらちらとのぞいていたお玉さまのところで”おもいっきりレジスタンスを叫ぶ”

まあ、それとしては一点の曇りもなく正論だとおもっている。自分の大切なもの、愛するものを自分で守らずに誰が守ってくれようか。みんなで力を合わせて守らずになにが守れようか。そもそも、憲法のオリジンが、イギリスやフランス、アメリカでも、旧封建勢力、あるいは宗主国を新興ブルジョア勢力が累々たる屍のうえに”ぶちのめす”「ゲバ」でもぎ取った血判状にほかならないことをいまいちど思い起こすべきだ。

それはそれとして、言い過ぎは素直に反省すべきで、これ以上の泥仕合は政治的判断からもすべきではない、お玉さまのところでの発言はしばらく慎むことにいたそう。それがイエローカードをいただいたものの誠意と反省というものである。

そんなわけで、今日は気分をかえて、しょぼい春をいきます。そして、大目にみてくださったお玉さまにささげたいとおもいまする。そして、ネッドさんみてたら、ごめんなさいね。言葉が悪くて。m(_ _)m 

それにしてもキンピ-さんがいった 「貴方(改憲推進派)は他人(自衛隊やアメリカ軍)に守ってもらいたいがために、9条が邪魔だと言ってるだけです。」という鋭い指摘には腰が抜けた。やはりだだものにあらず、はなっからマル民クオリティーに収まるようなお方ではない。これを党派選択のミスマッチといふ。

さて、能書きはこれまでにしてバラを貼らせていただきまする。


ブルボンのマダム・イザック・ペレールの開花の様子 フェンス仕立てにしている
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去年はぜんぜん咲かなかった 施肥のタイミングが遅かったのだ。
マダム・イザック・ペレールは春先になっての施肥はよくないと聞いていたが本当だった
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イングリッシュローズのプリンス いい感じである センターアイも可愛い
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開ききったお姿のハイブリッドティ オフェリア コガネムシに食われずここまで開くことはまれ
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ハイブリッド・パーペチュアルのチャンピオン・オブ・ザ・ワールド 
やたらとモチベーションのたかいネーミングである 大変強健で花付き抜群
摘蕾しないとポールったりミニバラみたいに小花になる 
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植えてから5年目のハイブリッド・ルゴサ コンラット・フェルディナンド・マイヤ
毎年一、二番を争う早咲き大輪の見事な花がこれでもかというくらい咲く
四季咲き性も抜群
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贔屓にしている相原バラ園ではじめて買ったのがこれ ブルボン クイーン・オブ・ベッダーズ 
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八重咲きのクレマチス 淡いパープルな色合いがとてもお気に入り 
でも名前を忘れちゃって名無しのごんべいさんなの
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ブルボン ルイーズ・オーディエ これも去年はさっぱりだったのだが今年はなかなかいい感じ
年があらたまっても咲かせてたにもかかわらず
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イングリッシュローズのウイリアム・モリス このバラのなまえの由来が、資本主義勃興期
イングランドで工業デザイナーだったウイリアム・モリス氏であるとはしらなんだ 
甥っ子は氏の熱烈ファン 氏のデザインした柄の枕をご愛用だとか
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ティーローズ フランシス・ドゥブリュウイ ティーで赤いバラはめずらしい 
あまり日照がよくない花壇に植えてある この冬に植え替えようと思っていたのだが
放置プレイ継続となった 
日当たりのよいところでおもいっきり咲かせてあげたいと思うお気に入りのバラ
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とかく頭をさげることが多い我がブログライフなのであります。
次回へつづく
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買った! 「有閑階級の理論」
amazonは箱がシンプルだが、ロゴがおしゃれなので小包爆弾にみえることはない 
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やっとこさ届きました。amazonでお買い物。たま~にコソーリのぞかせていただいている、でいっく氏のところの常連コメンテイターであるtodo氏の一押し本、ハイエクの「隷従の道」と ソースティン ヴェブレンの「有閑階級の理論」をtodoフェアーばりにプロモートしていた。

todo氏は新自由主義ハイエク教の「伝道者」で、その主張は私とはまったくといっていいほど相容れるところはない。そうしたうえで、少々公務員嫌いは鼻につくところはあれ、その論理は明快にして、確固たる信念はみあげたものである。どこぞのだ~れかさんみたいに、「不当な感情だ」とか、「言論の自由を冒涜している」だとか、訳のわからぬことを言って反っくり返ることがないので、私は惜しみない敬意をはらっているものである。
そんな氏がおすすめの2冊であるが、さすがに、ハイエクは貧乏を振り切って手を出すには思想的ハードルが高いのであるが、有閑階級の理論はいぜんかのブログで話題になっていたときから興味津々で、いずれ入手しようとおもっていたので、このtodoフェアーにのったというわけだ。

amazonにとんでゆくまえに、たまたま、タモ・ツン糖酒のところへ寄り道したら、マルエンの漫画、「続資本論」が素晴らしいというではないか、ご意見伺いのコメントを飛ばしてみたところ、はねられて書き込めない。どこぞで、ご機嫌をそこねるような発言を遣っちまったか、書き込み禁止ってか!まあ、「白」はお好きでないのはないとのことなので、いたしかたないかと、少々気落ちしながらでいっく氏のところへもどり2冊ポチをした。有閑だけだと送料がただにならないので。まあ、買い物ついでに、amazonは古いプリンターのインクも安いとのこと、非お仕事用プリンターのインクが切れかかっていたので、それもついでにポチ。

こんかいはじめて詰め替えインクを使ってみることにした。プリンターはものすごく安くなった。そう、オイラがPCをはじめて買った頃は、ものすごく高価だった。フロッピーディスクだって出たてで70万くらいしていたようなきがする。じっさいはじめてフロッピーを入手したときはだいぶ安くなっていたが、10万をはるかに超えていた気がする。いまでは1000円そこそこで売られているのだから、まことに資本主義は魔物である。

プリンターはインクがいわずもながら高い。インクを数パックかいかえるなら、本体を買った方がいいくらいだ。こういうのを”悪魔の商売”というらしい。灼熱の大地アフリカで裸足で暮らす原住民にただでサンダルを配っておいて、もう裸足であるけないようにしておいてから、高値で2足目のサンダルを売りつけるという、親切だかお節介だかわけのわからぬ、帝国主義的発想のビジネスモデルである。自分で詰め替えるのは少々面倒な気もするが、わりと私はこのての、ちまちました作業がすきだったりする、根っからのMuskel系である。

資本論が漫画で読めるなんて夢のようだ。まあ、漫画は漫画なりだとは思うのだけれど、いったいどーやって漫画にしたのか興味はつきない。なんたって、剰余価値学説をあつかった第一巻ならなんとなく漫画にもなりそうなきがするが、このたびの「続資本論」は2巻3巻が漫画になっているらしい。総資本、総労働とか、平均利潤とか、利子生み資本、地代などなど、とうてい私の発想では漫画には向かないテーマばかりである。まあ、糖酒おすすめということで間違いはあるまいて。いっぽうの有閑階級は460ページのなかなかの圧巻にて、さぁーてどっちから読もうかといえば、todo氏には申し訳ないが、資本論からさきにということで、有閑はもじどおり、有閑にまかせて、ぼちぼちいかせていただこうかと。

それにしても、このたびの買い物、いったいこの3品のうち商品確保にどれが手間取ったのか、いっこうにコンビニ決済用バーコードがとどかなんだ。発送予想が6月1日になっていた。いいかげん、忘れかけていた頃になって、お支払い用バーコードがメールで届いていたのには少々あきれたが、それでもロングテールなんとかのamazonは実にありがたい。私もすっかり年をとって、注文してから商品が届くまで、じっといい子でまっていることができるようになったのも幸いである。若い頃はわずかな雑誌の情報をたよりに、調べ上げ、何百キロももろともせず車を飛ばして買いに走ったのが懐かしくすらある。もう、そんなナンセンスな情熱はない。

宇野本につづいて、久方ぶりのお買い物にときめいてしまう私は、やっぱり俗物かも。物象化はいけない!なんて思いつつ、商品の魅力に負けにけり。

中身はこんな感じ 「続資本論」はわずか190ページほどしかない 興味をそそる
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おはり。



おわび
いらしゃいませ愚樵さま

速攻のコメントをいただきありがとうございます。ひさかたぶりに”銭”のエントリーを連チャンであげておられたので、”銭”からすっかり疎外されている私ではありますが、なにかしら言わせていただこうかと、頭をひねっていたのですが、どうしても真っ正面からの対抗的言論にしかならないので、そちらへコメントさせていただくことをやめ、自ブログの記事とさせていただいたものでございます。

さて、冒頭、センスのよくないタイトルをつけたことをお詫び申し上げねばならないと思っております。すみませんでした。これでは、かの”くわくわ88”と同類です、と言われても致し方ないかと反省しております。
やれ、「及第点」とか「半分正解」とか、いけしゃあしゃあといえる「精神」は持ち合わせていないので、対抗的言論をたてるときは、それ相応に慎重であらねばならないと常々思ってはいるのですが・・・

とはいえ、ときには膝詰めでぎっちりお手合わせ願いたいという思いも否定できないのですが、そんなわけで「耳元でそっと」という表現となった次第でございます。決して敬意を失するような、悪意にもとづくものではないことを、これから私が書こうとしている内容も含めてご理解いただけたら幸いでございます。


1.物神崇拝とは

では、本題に入らせていただきます。
”物神崇拝”でありますが、実は愚樵さまの記事を読ませていただいて、私の頭に最初によぎった言葉は”物神崇拝”なのであります。資本論のなかでも、この第一章商品は大変難解で、ほとんど宗教、何度読んでもその奥の深さに戸惑うばかりなのですが、物神崇拝にさきだち、”物象化”という言葉がございます。この言葉は、生産手段と労働力の分離を前提として、分業によって社会の構成員が生きてゆくために必要な物資を生産する、いわば社会的生産が、生産手段が私的に所有されているという事実から、私的生産としてとりおこなわれ、個々の生産物を”商品”として交換しあうことによって、社会的生産へと還元する”商品経済”では、人と人とのつながりが、”物と物の関係”としてたちあらわれるということであります。人の労働の成果である物が商品となるとき、商品はあたかも自らの出自を押し隠すかのように、生みの親である”人の営み”をはるか後景にへと押しやり、まるで、天から舞い降り、地からわき出たように社会に登場するのであります。それは、現代っ子が、マグロが切り身で海を泳いでいる、畑にりんごがたくさんころがっているように思っていることが一時問題となっておりました。それから、このご時世、私自身が顧客に言われることなのですが、「べつに薩長くんじゃなくてもいいんだよ。おなじ仕事をより安く納めてくれるならだれでもいいんだよ」と、それは物象化の端的な例であるといえます。さらに詳しい説明はぜひお読みいただきたいのですが、こちらへお任せするとして先へ進みます。
http://okumedia.cc.osaka-kyoiku.ac.jp/~shakai/seiyosi/sisousi070607.htm

商品による物象化は必然的に、あまたの商品があり、それらがあってこそ、貨幣はそれらの橋渡しをすることができることを貨幣は欠落させ、商品の交換を媒介する貨幣の一般的等価物(あらゆる商品の価値を表現し、いかなる商品とも交換可能なもの)としての機能が生まれつきのものであり、神がごとき力のように現象します。
これが物神崇拝であります。貨幣を貨幣たらしめているのは、貨幣自体がもつ「垂直」な権威でもなければ、貨幣に権威を付与する国家権力でもない。貨幣の背後に網の目のように張り巡らされた、商品経済が貨幣をして物神崇拝へと導くのであります。それは、征服者に略奪された目も眩むようなインカ帝国の金銀の財宝ですら、豊かな商品経済が支配する本国にもちこまなければ、貨幣たり得ず。それ自体、装飾品としての美しさから、征服者に精神的な満足をあたえることはあっても、トイレにすえられたトイレットペーパほどにも役には立たないこと。戦争などによって、生産力が著しく低下し、商品のネットワークが各所で寸断された”物不足”の状況では貨幣が悲しいくらい無力であるということからも明らかであります。

マルクス氏はそうであるがゆえ、資本論を「貨幣」から書き始めることはなかった。彼が下向して下向して分析をおしすすめた結果、資本主義社会のアトムとしてみいだしたものが商品であったわけで、彼はここから商品発生の歴史的プロセスをなぞるように価値形態を展開してゆきます。偶発的に成立する物々交換からはじまり、やがて市場(いちば)ができ、市場で貨幣が流通するようになる。そして、貨幣は蓄積され資本となり、資本はさらなる自己増殖のため、利子生み資本を生みだし、利子生み資本は貨幣を貸し付け、信用創造をなしたとき物神崇拝は完成することをあきらかにしています。ですから、貨幣をいくら眺めてみても、手に取ってみても、その動きを観察しても、その機能をつぶさに論じてみても、貨幣それじたいからは謎の実態はみえてこない、PとQがそれぞれ100円をもって交換をおこなうには、それに先立ち100円として表現されるべき社会的生産物がなければならない。P,Q,Rの3人がそれぞれ100円をもっているのであれば、総貨幣量300円にきっちり相対する社会的生産物がなければならないのです。ないものは売れないし、買うこともできない、貨幣は交換を媒介するだけですから。したがって、Pが100円使い果たしたときPの手元には100円分の商品が残っているか、消費されているか、その両方かであり、ズルをして、残高を5円あることに書き換えても、社会的生産物が5円増えるわけではない、文中でさりげなく財として一般的に語られている部分にこそ貨幣の実体は存在するのです。

実際の数億人という国家的規模の場合、ことは複雑を極めるわけですが、各個別の資本は、しのぎあい、競い合いながら、市場という物象化の権化のようなコロシアムで、商品は価格を上下させながら壮絶バトルをつうじて、商品のなかに内在する社会的価値を実現してゆく、「価値法則」が貫徹するのでありまして、貨幣が金によってその価値を裏打ちされている限りは、残高0を5円に書き換える不正はしっかりバレるものです。人は”お金”にはよしも悪しくも、時として人の命を奪ってでも求めてやまない、恐ろしいほどに、シビアーなものですから。


2.社会主義革命とは

マルクスは物神崇拝の根源を商品の持つ二重性にあるとみました。具体的な有用性としての使用価値と、交換を目的とした価値であります。使用価値は個別具体的で私的な労働であり、価値は抽象的な社会的な労働です。
そうした二つの要因の統一として商品がある。商品は、前に書いたとおり、社会の構成員が生きてゆくために必要な物資の生産を、生産手段と労働の分離を前提として、生産手段が私的に所有されていることを根拠に、資本の自己増殖を第一義的な目的として、利潤追求のため、社会的分業が私的な生産活動としてなされることが商品を根底から規定しているとマルクス氏はかんがえました。

であるならば、生産手段を私的な所有からひきはがし、社会が所有する。働く者たちすべての共通の財産として律してゆけばいい。銭金のために働くのではなく、直接的に社会的労働として実現する。世のため人のため自分のために働くということが社会主義的な労働観であったとおもうのです。そして、そこでは、無政府的で常に膨張と縮小をともなう不安定な生産活動や、相対的過剰人口=労働予備軍は解消され、だれもがこの世に生をうけ墓場にはいるまで、安定した仕事と収入がえられ、豊かな暮らしをおくれるはずだったのですが・・・


3.スターリニズム

ここからの話は、私自身いまだ深い迷路のなかに、一筋の光明さえみいだせない状態での思索なので、自信満々で語れる物ではないのですが、あえて書かせていただきます。

スターリン主義の話がスターリンとトロツキーで止まったままでいぜんとして書けずにいます。
主体の問題としてとらえ返したときにどうしても理論的に突破できない、とても深くて重い問題がそこにあるからです。おそらく私のような”庭木の盆栽”が墓に足を入れた後、まだ考えつづけても答えがでるようなものではないのですが。考えて、考えて、考え抜くことより、ただ一ついま現実に直面する諸問題に誠心誠意むきあうこと、実践的な関わりの中にのみ、答えにむかっての道しるべをみいだすことができるのではないかと、思う今日この頃なのでありますが。

さて、スターリンとトロツキーのつづきはいずれ、あらためて記事としてあげることとしたうえで、かるくさらっておきたいと思います。

スターリンとトロツキーの対立の中核をなした問題が、一国社会主義建設の路線の是非をめぐるものでした。
内戦により疲弊した国内経済の立て直しのため、苦渋の決断として導入されたNEPですが、はじめはなかなかうまく機能しませんでしたが、人の欲にうったえるNEPはやがて爆発的にロシア経済を順調軌道にのせます。
スターリンを頭目とするロシア革命の不当な継承者たちは、こうしたNEPの「成功」を背景に、自己の特権官僚としての現状を固定化すべく一国社会主義建設路線を定式化し、それに反対する世界革命をかかげるトロツキーほか、左翼反対派を徹底的に粛正したのであります。そののちほどなくして、NEPは歴史的破産をとげ、スターリンは富農を皆殺しにし無理矢理、農業を集団化しガンガンに”ノルマ”を課してボコボコに収奪をするのであります。農業の集団化と同時に導入された「計画経済」なるものはとんだ食わせ物で、破綻をしまくるのであります。それは、工業化のための基礎となる基幹産業をおこすためのプラント設備、機械を作るための機械である工作機械は、先進資本主義諸国から買い付けなければならないのですが、自分たちは計画経済でも、それをとりまく世界はつねに価格を変動される魔物のような資本主義です。計画は無残にふみにじられてゆきました。

4.計画経済

そもそも計画経済というのは、100人の国民に毎月一本の歯ブラシを支給するとして、毎月100本、年間1200本の歯ブラシを生産することを意味するものではありません。すべての生活物資、靴、パンツ、電球などなど、莫大な生活物資を計画的に国家が生産する。そんなこと想像しただけで目眩がしそうです、できるはずがない。でもスターリンはそれをやった。本来であるならば、資本主義の矛盾の展開は、商品の矛盾からはじまり、さらに展開されるといきつくところは恐慌なのでありますが、その科学的根拠として、ケネーからパクった再生産表でマルクスがあきらかにしたように、基幹産業をなす生産財の生産は、消費財の生産よりもはるかに急速に発展するという傾斜生産であったわけで、国家が生産を管理するのであれば、ここを管理するだけで事足りるはずなのであります。たとえば、年間鉄鋼生産量○○トンという具合さきにきめておけばいい、トロツキーはそう考えていたし、それは現実的で合理的なものであると思うものです。消費財の生産は市場の任せるままでもいい、その上限だけをさだめておけばいい、あとは、緩やかな過剰生産でよいのです。そのほうが、多彩な文化を生み出しうるだろうし。人民服、人民自動車1種類は楽しくないですから。

ではなぜ、そんな不合理な計画経済がまかりとおったのか。それは、一国社会主義という鎖国がもたらした工業化の困難によるもの、先進技術の導入ができず、すべてを自前で開発せねばならないがゆえの途方もない困難であったし、それに輪をかけたのが、一国社会主義へとつきすすむ契機ともなった、帝国主義的干渉戦争ののちもつづいた重包囲のまえに屈し、国を閉ざしハリネズミのように重武装をすることをもって、先進資本主義国との通商を有利なものに導こうという反人民的な外交戦略でありました。本来、人民の生活を豊かなものにするための生産活動はその多くを核武装を頂点とする、武器の生産へと第一義的に割り当てられ、人民の生活物資は、まさに一人月に歯ブラシ一本、年間服2着のような窮乏生産を余儀なくされたのであります。

計画経済というのは、体のいい言い方とは裏腹に、徹底した農民からの収奪を軸として、かつて敗色濃厚な大日本帝国がおこなった、生活物資の配給制度のようなものだったのであります。それはすなわち、資本家が絶滅し、すでに私的な生産活動が廃絶されたにもかかわず、農業国で、遅れた工業国のロシアは当初の生産力の低さにくわえ、帝国主義列強の重包囲と重圧に屈し、一国社会主義建設路線へと誤った道を選択したがため、特権的党官僚が、自国の農民と労働者、そして、大ロシア主義の名の下におこなわれた民族支配を、むき出しの暴力と収奪(資本が生産物を奪うことを搾取といいます)をもって、死と貧困を強制しつづけたことがソビエトの悲劇の真実であったわけなのであります。

遠い昔モスクワでオリンピックが開催されたことがございました。それに先立つこと、数ヶ月前、ソビエト軍はアフガニスタンに侵攻をおこない、西側世論は制裁として雪崩うってボイコットを決定したわけですが、ソビエト共産党は、モスクワ周辺で暮らす青少年を大規模に集団疎開させる計画をもっていたといいます。その理由は、先進資本主義国のさりげない”ハイテク”(デジタルウオッチとか)を目の当たりにしたら、自分の国がどれほどビンボーなのか気づいてしまうからです。かつてソビエト共産党の最後の書記長ゴルバチョフが日本を訪問したとき、目をまん丸にして、こういったそうです「日本は高度に発展した社会主義である」と。しょせんは、鎖国ソビエトの経済力などその程度のものでしかなかった。それは、四畳ひと間の借家暮らしの貧乏人が、大見栄を張ってポルシェを買いはしたものの、ローンにおわれ、三度の飯もままならぬまま、来る日も来る日も16時間労働に精をださざるおえないという状況にも似て。


5.マルクスはこう考えていた

最近、的場昭弘氏の「マルクスだったらこう考える」という本を読みました。くわしい”どくしょ かんそうぶん”はまたのちの記事ネタとして、なぜマルクスが古くさいものになったかということを的場氏は書いています。
マルクスは一国資本主義を分析したと。それを跳躍台にしてなされたロシア革命は必然的に一国社会主義建設を路線化した。それゆえに、資本のダイナミックなグローバリゼーションな展開の中で、一国社会主義建設路線は陳腐なものとなり瓦解してゆかねばならない運命だったと氏は分析しています。

はっきりいって、いきなり違和感満々で、ドブに捨てたろうかとおもいました。マルクスは、ドイツイデオロギーのなかで、共産主義(社会主義)は世界的な市場の転覆をもって、そのスタートにつくものであると書いていて、一国社会主義建設路線なんぞはなっから口にもしていない。金がなくてマジで困っているときに、昼飯代で買ったので捨てるのも惜しいとぼちぼち読んでみて、どうもこの本は、従来、共産主義、社会主義とおもわれていたものが、実はそうではない。マルクスがいっていたとされるものが、実はそうではないのだ。ということを書いているということに気づきました。それは、スターリンが定式化した多くの、そう、唯物史観などもふくめて”嘘っぱち”の暴露であり、批判であり、マルクスの復権への試みであると私は読みました。ですから、本の表題は「マルクスだったらこう考える」というより、「マルクスはこう考えていた」というのが適切なのではないかなと。ドリンドリンもそうだったのですが、ソビエト崩壊からはやくも18年の月日がながれ、あの「社会主義」はなんだったんだろうという、それなりに核心に迫ろうとする庶民向けの著作がすこしづつではありますが見られるようになってまいりました。そして、それと軌を一にして、すっかり忘却の彼方へと追いやられたマルクスを扱う著作も庶民向けにリニューアルして登場してきています。なかにはとんだクワセモノもありますが。


6.マルクスが生きていた

マルクスが生きて、雄弁に語っている。関曠野氏の講演を読んで率直に私が感じた感想です。これがなかったらはなっから、いくら私が”銭ヲタ”でもコメントを書く気にはならなかったでしょう。
たしかに、お重の隅をつつくようなことをいえば、マルクス的には産業革命は終わり無く、毎日が産業革命の連続であり、資本主義は毎日更新の資本主義だったりします、言葉と言い回しは微妙に異なれども、たとえば、文中の時間と共に生産費用の中で「A(可変資本)に対してB(固定資本)の比重がどんどん増える」はストレートに資本の有機構成の高度化のことであるし。「絶えざる生産の拡大、近代企業の宿命」も資本の自己増殖そのもの、もしかしたらコソーリ「資本論」を読破していたのかも、まあ、それはべつにして、クリフォード・ヒュー・ダグラスという人は”秀才”だったのだとおもいます。本物の経済学は、銀行資本に飼い殺しにされた経済学者には決して見ることのできぬ、真実を暴き出すことができる、哲学者のマルクス、ビジネスマンのリカード、そしてダグラス。大変よい話を読ませていただいたとおもっております。

せっかくですので、とりわけダグラスがマルクスの思考に接近しているとおもわれるところを抜粋してみます。


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「オートメ化が人間の基本的な欲求を効率的にどんどん満たしてしまう。その意味ではオートメ化は基本的には結構なことです。ダグラスも「オートメの製品は味気ないと言うけれど歯ブラシや鉛筆とかそんなものを手仕事で作ってどんな意味があるのか」と言っています。オートメ化できるものはどんどんオートメ化すべきだ。オートメ化が進むことによって、人間はつらい、単調な労働から解放されるのであると。問題はむしろオートメーションがちっともそれに見合う恩恵を庶民にもたらしていない、豊かさをもたらしていないことです。逆に人々を機械による失業などで苦しめる形になってしまっている。こうして豊かさの中の貧困というべき現実が生じている。」


「だから政府が自ら通貨を発行すること自体はいいんですが、何が公共の利益かについてのしっかりした人民の合意があり、その合意を反映する政府があり、それをきちんと実行する財務当局があること、それが政府通貨の発行に不可欠な条件です。皆さんもご存知のように、最近自民党の一部で政府紙幣をやったらいいという議論が出てきています。自民党は散々利権バラ撒き型公共事業をやってきたけれど、今は国家財政の大赤字のせいでそれになんとかブレーキがかかっている。そこに政府紙幣の話が出てきて、これはいいアイディアだ、これでまたノーブレーキでバラ撒きができるわいと思っているのなら、とんでもない話です。」


「まず、生産はあくまで人々の消費のためにあります。だから経済は生産と消費がプラスマイナスゼロで過剰生産とか過少消費がないことが望ましい。それゆえに価格は、それによって生産と消費が均衡するようなものであるべきなのです。ところがダグラスが実際の商品の価格を調べてみたら、その大部分を構成しているのは生産設備の減価償却費や銀行への返済や将来に備えた研究開発費などで、労働者の賃金給与は僅かなものでしかなかった。つまり機械制大工業の時代には、価格は需要と供給の均衡によって自ずと決まるという古典経済学の説はもう通用しないのです。

そしてこの価格の歪みという問題の解決策は市場の中から自然に出てくることはない。というのも、その根本原因は、銀行が自分の金融的利益の観点で実体経済に介入し社会の生産と消費を左右していることにあるからです。」


「ところでダグラスは、ベーシック・インカムではなくて国民配当(National dividend) という言葉を使っています。これは配当なんだと。どういう意味で配当なのかというと、まず、社会の結合と協力から新しい富が生まれるんだということですね。

個々人の労働の成果とか対価ということではなくて、人々が結合し協力すること自体から新しい富が生まれる。そうした富は言うならば、共通の富のプールをなしている。その共通のプールから富をもらう、引き出す権利は誰にでもある筈だということなのです。それは誰がどれくらい懸命に働いたかとか、そういうことには関係ながない。しかし生産は個々人の労働能力の結果や成果であると考えているかぎり、この発想は出てこないでしょう。富とは共通のプールをなすものという発想がないとね。そこでダグラスの独特の主張なんですが、彼は文化的遺産、カルチュラルヘリテージというものを強調します。これは彼のエンジニアとしての現場体験から出てきた認識です。」


「そして冒頭で申し上げたケインズの言葉ではありませんが、基礎所得が保証されたらビジネスはやらずに芸術や学問や文化活動に携わる、そうした人たちがいっぱい出てきて、どこに問題がありますか。そういう人たちは購買力で経済に貢献してくれればいいんです。そういう文化で社会に貢献する人々こそ真の国力を作り上げるでありましょう。有能でバリバリ働く人が環境を破壊し社会の存続を危うくしている、それが現代という時代です(会場笑い)。」


「つまり現代においては生産の問題はすでに解決している。今日の問題は分配であり、それゆえにマネーを分配の手段として考える視点が必要である。そうしてこそマネーというものを客観的に、サイエンティフィックに考察できる。そういう意味でマネーは切符のようなもの、経済生活に参加して社会から排除されないための切符なのです。これを逆に言えば、現代の「貧困」とはたんにビンボーということではなくて、社会から排除され人間として否認されていることなのです。


「別の言い方をするならば、現代においてはマネーは一種の生活インフラ、電気や水道のような生活インフラだということです。それを呪物崇拝で、マネーとは何か神秘的な力を発揮する力や特権の源泉と思う、そういう発想は根本的に間違っています。結局マネーを価値を保蔵する手段とみなすこと自体が呪物崇拝なのです。そういう意味で、人民が合意した公共の利益に基づいて発行される公共通貨ならびに国民配当は、マネーを人々の生活インフラに変えていくための制度です。もちろんチャンスがあったら商売をして儲けることは否定されていません。しかしマネーはそれ以前に基本的に生活インフラでないと困るということです。さもないと経済がおかしくなります。」


「現代社会は今後、この焦点をめぐって揺れ動くことになるでしょう。そして問題をさらに掘り下げてみると、これはマネーについての考え方の対立であることが分かります。マネーは特権と権力の行使を可能にする神秘的な呪力を発揮するものという考え方。そうではなくて、マネーは万人が人間らしい生活を自由に享受するために社会の連帯から生まれた生活インフラの一種であり、マネーによって人間は美しく楽しい不安なき人生を生きることができるという考え方。この二つの考え方の対立なのです。

そして現に、これは時代の争点になってきています。オバマ・ブームのアメリカでも、経済危機が深まる中で社会信用論に近い主張を掲げる動きが随分広がってきています。連邦準備銀行を廃止せよ、ベーシック・インカムを実施せよ、という議論は少なくともオンライン・メディアではすでにありふれたものになっています。そしてアメリカ人は、アメリカで最初にベーシック・インカムの実現を訴えたのは公民権運動の偉大な指導者マーチン・ルーサー・キング牧師であったことを思い起こしています。日本でも似たような動きが連鎖反応のように広がる可能性があると思います。それにこそ期待しております。

そして冒頭に申し上げましたように我々が直面している現実が恐慌であるとするなら、恐慌は社会信用論が提示した三つの方策、公共通貨、国民配当、正当価格、とくに最初の二つですね、これによる以外に解決されることはないであろうと確信しております。」

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7.いかになしとげるか

すばらしいビジョンです。時代が時代なら速攻で特高警察が踏み込んできて一斉検挙ものの内容、社会主義のある一定段階での姿が論じられているとおもいます。ただ、これを素晴らしいアイデアとして賞賛することはいくら賞賛してもいいともうのですが、はたして、実際にいかにして実現するか、実践的な運動をどう構築してゆくかという問題となると、関曠野氏ははたして、金融資本の解体、国家による社会的富の直接的な生産と消費への再分配が、既存の国家の枠組み自体を根底からぶちこわすものであり、それをなさんとする勢力があれば、国家権力は、警察&軍をもってしても徹底的に粉砕するであろうことが理解できているのかははなはだ疑問なところではあります。 それほど氏はつきぬけてマルクスばりの「革命的」なことを説いていると私は感じています。

不良債権で真っ赤に燃え上がる銀行資本に脱糞ものの巨額な公的資金を投入して恥じないのは、それが、まさに国家の心臓であり、それにとってかわって国家が、直接的に最低必要経費分をのせた超低金利の融資をおこなうなら、銀行資本はだまって滅ぶにまかすだろうか、外資はそれでも投資を続けるだろうか、そんなことは絶対にありえないと私は思う。

「だから政府が自ら通貨を発行すること自体はいいんですが、何が公共の利益かについてのしっかりした人民の合意があり、その合意を反映する政府があり、それをきちんと実行する財務当局があること、それが政府通貨の発行に不可欠な条件です。皆さんもご存知のように、最近自民党の一部で政府紙幣をやったらいいという議論が出てきています。自民党は散々利権バラ撒き型公共事業をやってきたけれど、今は国家財政の大赤字のせいでそれになんとかブレーキがかかっている。そこに政府紙幣の話が出てきて、これはいいアイディアだ、これでまたノーブレーキでバラ撒きができるわいと思っているのなら、とんでもない話です。」

という、とんでもない話が現実とおってしまう可能性はおおいにあろうかと思うのだけれど。そうでないのなら、やはり、民衆の怒りを組織して、暴力としてそれを解き放つ、暴力革命をもって「何が公共の利益かについてのしっかりした人民の合意があり、その合意を反映する政府があり、それをきちんと実行する財務当局」を民衆自らが自らの手でつくりだせるように変革せねばならいでしょう。

それほどに関曠野氏の提示したものはとてつもなく大きくて、重い。数年に一度の清き一票を、たいして面識もなく人柄も知らぬ、候補者に投じてなしとげられるようなチープなシロモノではまったく無いと私はおもうのですが・・・


さて、必要以上に長文となってしまいました。いま、今週納期の内職をしています。かなりいそがしく、PCのモニターを連日20時間ちかく眺め続けての作業で、頭がぼーっとし、目がしょぼいをとおりこして、眼球がいたいです。えーと、いただきましたコメント中の「労働は人の本質でありますが、人の本質は労働ではありません。つまり労働は人の本質を構成する一パーツです」と、「貨幣と労働とを2項対立的に扱ったもの」の二点がどうしても理解できなかったので、お答えすることができなかったことを最後に付け加えさせていただきます。

愚樵さまの独創的にして柔軟、かつへそ曲がりな(笑)思索は、ともすると、ドグマにおちいりがちな、というかドグマそのものかもしれないが、統一した世界観で石のように凝り固まった、私の粗末な脳髄に活力をあたえてくださいます。そんなわけで、まいどたのしく記事を読ませていいただいておるしだいでございます。

まあ、ですから、”くわくわ88”とおなじじゃん!などとつれないことをおもわず、これからもよろしくお願い致します。あ!、それから、TBいただきましてありがとうございました。m(_ _)m

おはります。

なお、コメント欄への投稿にかえて、サシでのやりとりを希望することもあるので、そうしたときのために新たにカテゴリーを設けることにしました。”業務連絡”というカテゴリーを設定します。



愚樵さまの耳元でそっとささやく
貨幣は選ばれし”商品”で、商品の本質は”交換価値”であり、交換価値の実態は”労働です。
ゆえに、貨幣が「水平性」をデフォでもっているのではなく、貨幣が膨大な商品群と同じレベルにとどまり、それらの価値を尺度として表現し、流通を媒介する、いいかえれば、膨大な商品群が貨幣を「水平」たらしめているのであります。ついでにいえば、生産手段から切断され、自由になった労働は、自らを自由に売ることができる、二重の自由を獲得するわけですが、この互いの価値を等しいものとして交換する労働力の商品化こそが、自由と平等のスタートラインに他ならないのです。

労働は人の本質であり、労働力は人が生きるための力です。それが商品として扱われるならば、商品が飛ぶように売れるときはよかれども、だぶついて売れ残った商品は捨て値で売り飛ばされるか、過剰生産の農作物のように廃棄されるのです。ところが、生身の命が宿る労働力はそうはいかない。そんな理不尽なありかたに抗うものとして、社会主義革命が準備される時代があってこそのベーシック・インカムというオルタがあるのだとおもいます。ですから、きっちりとそれを実現しようとするならば、道筋は社会主義革命と重なるよりないと、私はおもうものです。

さて、貨幣に話をもどしますが、貨幣が抽象的な社会的労働としての価値を交換価値として表現するということは、その物質的根拠を明らかにした上で、たしかに「情報」という言葉に置き換えが可能なのかもしれません。しかしながら、そうした「情報」をつかさどる銀行資本は、私たちの貨幣をデジタルアーカイブにして、決済の利便性をはかるものではありません。流通過程において貨幣が、抽象的な価値章票として流通してきたものが銀行資本に集約されるとき、単純な「情報」として表現されはしても、それ自体はあくまで抽象的な価値章票の延長線上でしかありません。預金通帳はそれ自体、”貨幣”なのです。

そもそも、銀行資本のような利子生み資本にさきだったものは、産業資本や商業資本のような実体経済をになう機能資本がより多くの商品を貨幣に替える試みとして、貨幣の直接的なやりとりの枠を突破し、契約にもとづいて商品の先渡し、前貸しをはじめたことが、”商業信用”のはじまりなのであります。その際の契約は一定の利子を含んだ現金を支払うことを約束した約束手形を振り出すものです。商業信用が発展すると、やがて、手形の決済のための現金の預け入れや、引き出し、相殺などを専門にあつかう”貨幣取扱い資本”が機能資本から分離独立し、さらにそれが、銀行資本と発展し、ひろく社会のすみずみで退蔵された貨幣をかき集め、”機能資本への貨幣の貸し付け”をはじめたとき、貨幣は貨幣が貨幣を生む、利子生み資本へと転移することをもって信用創造を始めるのであります。

この信用創造は貨幣が”金”に足をおろしている限りにおいて、自立的、自然発生的に発展してきたものであります。それは、いいかえれば国家の「垂直」な信用保証など必要とせずとも、一定の段階までは古典経済学者がいうように調和は保たれるのです。しかし、この資本主義的生産様式がつきすすむ無政府的で爆発的なまでの生産力の増大は過剰生産という段階に突入すると、必ず崩壊する。その崩壊を回避するために、国家は貨幣を”金”から切断し、管理通貨制度という綱渡りをはじめるのです。投機の失敗で火だるまになった銀行資本に莫大な公的資金を投入して救済したり、春闘で勝ち取られたわずかばかりの賃上げを、銀行券増刷によるインフレで無に帰すことは、預金通帳の残高を改ざんするよりもはるかに罪深きことであるとおもうのであります。



おぉお!目眩がしそうだ
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しょぼい春2009 その1
風の中のすばる~♪ 砂の中の銀河
みんな何処(どこ)へ行った 見送られることもなく~♪

プロジェクト ペケ

この物語は、バラの無農薬、無肥料、無剪定・・・ 完全放置栽培への挑戦と、壮絶な結果の物語である!


な~んて、力こぶもんで語るようなお話では、まったくありまへん。早い話が、パニックにて一切バラに心を注ぐことがかなわず、いくつかの鉢植えの土替えをしたくらいで、開花の春をむかえてしまったという、誠にお恥ずかしい限りのお話であります。

これまた、すっきりブログの更新を放棄して、”金”ウイークに何をしていたかというと、ひたすら雑草取りと庭木の剪定にあけくれておりました。今回もかなりおもいきってコニファーを間引きました。庭の風通しをよくするために、予想をはるかにこえて巨大化したコニファーを断腸のおもいで、下枝を落としローソク仕立てにしました。4tトラック一杯くらい剪定枝や雑草がでましたが、なんのためらいもなく隣の空き地に捨てますた。

まったく手入れをせずに咲かせたのははじめての経験であります。やはり、状態はよろしくなく、まず、いきなりうちではでることの無かったうどん粉病が発生。つづいて、越冬黒点病が勢いを増しつつあります。
不思議なことに今年はコガネムシの襲来は控えめにおもえます。

まったくの無管理状態で、バラはどれほどの活力を維持できるのかを知る意味で「貴重な体験」であったかもしれません。入場料をとるようなところでは、それなりにプロがきっちり管理しているバラ園ですが、パブリックな施設で栽培されているバラは厳しい予算の制約から、ツボをおさえたぎりぎりのせんでの栽培管理がなされているそうな。これもまたプロの匠と呼んでいいものだとおもいます。

これからは、その辺の匠の技を習得したいものとおもっています。そうした意味で、底を知ることは決して無意味ではなかった、と自己合理化していたりする自分がいたりします(笑)。

品種によっては危篤状態もあって、赤信号点灯中ですが、まあ、花数こそすくなくはあれ、わりと大輪に咲いたかなという感じです。うちは、ほぼ100%四季咲き性の強い品種なので、まだ取り戻しが可能です。能書きはここまでにして、今年一番目のお庭の様子をはり、”しょぼい春”シリーズのはじまりとさせていただきまする。



玄関先アーチのティーローズ ソンブロイユとノアゼット マダムアルフレッドキャリエールはどちらも強健なつるバラ 一切剪定しなかったらドームのようになった それでも花の大きさ 花数ともに問題なし 無管理でも可ということだろうか?
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ピエール・ドゥ・ロンサールと混植している八重咲きのクレマチス 今年は爆発的に開花 いっぽうのピエール君は毎度三桁の花をつけるが 今年はさっぱり かつてなく大輪ではあったが
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イングリッシュローズのセントセシリア 気温が10度を上回った頃、鉢土を替え、根洗をしたのが悪かったのか、スロースタート 葉にちらほらとうどん粉病がでている。
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イングリッシュローズのエグランティーヌ 花数少なく、大輪。コニファーがつくる日陰がよろしくないのかシュートがでない。ので、コニファーの下枝を落とした。そろそろ主幹を更新せねばということです。
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去年勢いがなかったハイブリッド・ルゴッサのコンラット・フェルディナンド・マイヤーは爆発的に開花。花数、大輪で文句なし。まるで凶器のようなトゲトゲの枝が大暴れで咲きガラを切りに足を踏み入れることもできないのは問題なのだが。これも放置栽培可かも。
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ハイブリッドティーのオフェリア このバラは開きはじめのこの頃が一番美しい。オフェリア香とよばれる香り高きこのバラは、コガネムシの格好の標的なのだが、今年は難をのがれている、不思議だ。
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イングリッシュローズのクラウンプリンセス・マルガリータ 素晴らしい! はじめて咲かせたときこんな美しいバラがあるんだろうかとおもった。カタログデーターによると、超巨大化するグラハム・トーマスと同じ樹形になるらしいが、なぜかうちのはならない。モダンシュラブのカクテルを3年ほど育てたところに植えたので、連作障害が発生している可能性はある。毎年バークを投入してきたので、ぼちぼち地力が回復するであろうと期待しているのだが。
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つるバラのアンクルウォーター ほったらかしていたら、枝が大暴れでドーム状態。これまた、花数、大輪は例年をはるかにうわまわった。写真はまだ咲き始めの頃のもの。これも放置栽培可。ただし鋭いトゲは危険であることはいうまでもない。
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なぜか今年はクレマチスの調子が絶好調! どれもたいへん大きな花をつけた。なんでだろう~♪
バラにはちょうどよい量の肥培管理もクレマチスには過肥なのか?疑問はつきない。
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小ブル企画なれど、これも人の営みということで次回につづきまする。m(_ _)m


”おーまい・ごー”10 & 買った!宇野本
武装せる園芸家は、となりに隣接する空き地で焚き火をしたりします。PC関連のパッケージなどの不要物とか、対権力、秘密政治警察、対秘密経済警察のガサ物なんぞを却するのが主目的でありますが、ときとして、燃えるゴミを出し忘れたときなども焚き火したりします。はっきり言って、エコではないとは自覚しているんですが、やはり、エコがエコとして人類共通の目標として達成されるには、”人間解放”とどっこいしょなくらい重い扉をこじ開けるような、資本との激烈な闘争なくして達成されえないと思っています。それほどのものとして、エコが組織されなければ、せいぜいエコブランドの買い換え戦術に回収されるのが関の山かと。

さて、話を焚き火にもどしますが、春まだ遠い2月の中頃、クローゼットに押し込んでいた空のパッケージをひっぱりだしてきて、却をしておりました。少々は周囲の目もきになるので、焚き火はいつも日が落ちてからしています。残り火がはっきり目視で確認できることも夜ならではです。
寒い時期なので、暖をとりながら、気分は”一人キャンプファイアー!”、ちょっと周囲を気にしながら、ワルシャワ労働歌なんぞをマジで歌ったりして、火にはなんともミステリアスな力を感じてしまいます。

だいぶ燃え燃えも収まってきて、棒でこねくり回していると、なにか本のようなものが燃えている。
もうすでに半分以上燃え尽きた本を棒で開いてめくってみると・・・

”おーまい・ごー”宇野本が燃えているぅう!!

大事に大事にしまっておいたが故、しまいなくした「新マルクス経済学講座」2巻と3巻がメラメラと真っ赤な炎につつまれておりました。ここ半年家中をさがしまくって、なお見つからなかったのに。マザーボードの空き箱の中にしまっていたのか! 無念! あまりの悔しさにせめてブログネタにしたろうかと撮っておいたのがこちらの写真。
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この「新マルクス経済学講座」は、宇野式マルクス経済学の入門書としてつとに有名で、とりわけ第一巻は30年以上もまえには、結構あっちこっちの大学で原論の講義のテキストに使われていたのであります。
オイラもこれをたずさえて、せっせせっせと閑散とした大講義室に足をはこんだものです。
とりわけ、今回灰にした、2巻3巻の帝国主義に関わるところの講義は、情勢論を導く武器としての宇野式経済学の真骨頂をなすもので、じっくりと読み返してみたいと思っていたので、ひどくガッカリしました。”整理整頓は革命家の第一級の任務である”というレーニン氏のお言葉は正しい。ワタシが挫折したのは当たり前かも。

 お金に忙しいばかりの日々が通り過ぎ、ようやくお金の再循環がはじまり、少しは余裕がでてきて、ふと、「新マルクス経済学講座」はどこかで売ってないだろうかと検索をかけてみました。さすがに30年以上もたっては、絶版の模様。再出版の要望署名があるくらいなので、それなりにいまでも人気はあるようですが。探すと、ぼちぼち単巻での流通はあるようです。中古のバラ買いも、無いよりましかと半ばあきらめかけたとき・・・

買った!宇野本 4巻セット、送料込みで3790円なり、在庫一セット限りとのこと、速攻でポチ!

無事ご到着のお姿 小包爆弾ではありません(笑)。
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ポストの中に無理矢理詰め込んであって取り出すのに一苦労。民営化したら郵便屋さん仕事が悪くなった。
角の梱包が破れてたりする。そうなったのは、国民みんなの責任だから文句は一切いえないけれど。
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4巻そろい踏み。まっさらのデッドストックとはおもわなんだ。ハードケース、帯封標準装備。学問の志に萌萌だった頃を思い出す。ちなみに第一巻は定価900円也。
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こちらは、ちょうど”利子生み資本”のところを参照していたので、難をのがれた第一巻、30数年前に使っていたもの、定価は1600円也。1978年2月28日初版第10刷のもの。
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なんと、こんかい入手したものは、1972年5月10日初版第1刷 だったのでした。
オイラはついにはじまった世界恐慌の時代に、必ずマルクス主義は復権すると信じているので、この初版本は読まずにコレクターアイテムになるまで後生大事にとっておこうか、なんて邪悪なおもいが頭をよぎるくらい、いい買い物でした。とはいえ、ワタシに買われたことによって、日本階級闘争はさらに10年遅延停滞を余儀なくされる可能性も否定できないですが。まあ、そのへんのところは歴史のアヤということで。






覚悟
雨が続くと~♪ 仕事もせずに~ キャベツばかりを~ かじいってたぁ~♪
 (かぐや姫 赤ちょうちん)

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当家の大御所、うりちゃんが一心不乱に口にしているのは、”キャベツ”なのでした。


おいおい、なんぼうちが買掛金の決済に四苦八苦していたからって、諸君らを飢えさせたことはないぞ。
第一に、諸君らはニポーンのプロレタリアート人民のように「辛抱」したりはしない、飢えたら速攻で立ち上がるではないか。轟々たるシュプレヒコールの鳴き声をあげ、物を蹴散らし、建具に爪を立て、暴徒と化すではないか。

なんて、冗談はそこまでにして、このうりちゃん、たいへんな食いしん坊なのであります。ついせんだっては、生のさつまいもやかぼちゃを食べておりました。毎度の企画倒れシリーズ、猫遍歴にも書きましたが、このうりちゃん、もともとどこかで飼われていて捨てられたので、野良猫時代はたいへん苦労したようです。そんなわけで、食べ物に関しての執念は他の猫を圧倒します。なんでも食べます。

そんなうりちゃんも、うちにきて8年、9歳となりました。猫エイズキャリアーなので、健康状態にはそれなり注意をはらってまいりましたが、気がつけばもうそんなに年を重ねていたのにびっくり、もうじき”じいさん”の仲間入りです。そんなわけで、あいかわらずの食いしん坊に、元気満々ではあるのですが、去年の秋ごろから毛並みが悪くなり、気がついたらめっきりと痩せてしまってました。

年齢的にみても、もうぼちぼち覚悟をせねばならないかもしれないと、すっかり鬱の海に沈み込むようなおもいなのですが、これはいたしかたないことでありますな。辛くても最後まで看取ってあげるのが飼育者のつとめということで・・・ 湿っぽいお話でした。


おお! 食いしん坊がもう一匹

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うりのおっちゃん、ワタシにもちょーだい!

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やだよ!! 


おはり







ワロタ
おもたい話がつづいたので、今日はかるいのをいきまする。

たまたまネットで捜し物をしていて遭遇。おもわずワロタ
おいら、猫好きだけど、さすがにファシストとスターリニストに似てたら引くなぁ。
レーニン猫はとてもかわいい。はたしてマジ? コラ?

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そしてもうひとつ、たまたま出会い頭的に発見。いったいどぉーすると、できるのか教えてちょーだい。プロジェクトX(ぺけ)のパロディー。おもわずまじっすか!





NKさまの言葉
肩こり指数★★☆

今年の冬は暖冬で雪もほとんどふることもなく、あっというまに過ぎ去った。とりわけ、当家が直面した危機はそんな時の流れに拍車をかけた。なにかお金と仕事に追いたてられているあいだに、気がついたら5月になろうとしている。明日は働く者の祭典、メーデーだ。今年はいっちょどんな案配か、近しいところへ足をはこんでみようかとおもっている。

さて、協賛趣味者ご必見の「隔離論争掲示板」をひと月ぶりにじっくりと読ませていただいた。一時、減益氏などが板をにぎわせていたりして、見るに堪えないものがあったのだが、いつも、様々な思いをいだきつつ、発言者の一言一句をかみしめるようによませていただいている。

最近は、当ブログでも機会あるごとに生で、というか、できるだけ生で、その発言を掲載させていただいているNKさまが、よく登場されておられるようだ。

今回も、たいへん胸を打つすばらしい書き込みをしておられたので、先にあげた、「ストライキについて」との関連として、またまた、誠に勝手ながら、掲載させていただこうとおもう。お題は「派遣村の衝撃」、そして、もうひとつは「反面教師として」、最後に「レーニン主義と動労千葉」。今日は「派遣村の衝撃」の全文と「反面教師として」の一部をあげさせていただこうとおもう。「反面教師として」は革共同中央派への批判として書かれたものなのであるが、それ自体それゆえにコアな内容を含んでおり、党の一連の流れを知るものでないと理解が難しいと私は考えている。それゆえ、抜粋させていただこうとおもう。すみませんm(_ _)m。

「派遣村の衝撃」は氏がこの闘いを、単なる救済事業ではなく、政治闘争、実力闘争であったと看破しているものである。

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派遣村の衝撃 投稿者:NK 投稿日:2009年 3月 8日(日)01時32分10秒
 
いわゆる「年越し派遣村」の闘いは、人間の生死がかかる切迫した事態のなかで、これが単なる救済事業などではなく、公園使用や政府建物の解放といった、極めて具体的な要求を中央政府に対して行い、緊急避難とはいえこれを実現した意義は軽視すべきではないと思います。
日比谷公園に集まった500名の解雇者と千人以上のボランティアの、後には引けないという圧力、さらにその外側には、マスコミを通じてこの事態を知った人民の怒りが、社民党や民主党に動くことを余儀なくさせ、政府は譲歩せざるを得なかったのではないか。これは今までのやり方とは違うにしても、必死の闘い(そこに行く事で数日の命がつなげると言う)が、いわば一種の実力闘争の様相を呈したのであり、国家権力といえどもこれに屈せざるを得なかった。労働者にとっては自分が無力な存在ではない事を実感し、同じような闘いをあとにつづく人たちに残したと言えるでしょう。
山谷や釜ヶ崎の労働者や支援の闘いが、巨大な規模で巻き起こるかも知れないという恐怖を支配階級に与えたことは、あとで彼らのいわれの無い非難となってあらわれていると言えるでしょう。

また昨日まで一緒に働いてきた仲間を、自分たちが助かるために後ろめたい気持ちで見送った、正規雇用労働者はそれが何を意味するかを知ることになった。それだから、非正規労働者を見捨てることは、自分たちもまた職場から追われる道をはききよめる事だと気づくまで、そう時間はかからないでしょう。派遣切りの3月危機と1年遅れの春闘要求は、確実に労働者階級と資本および支配階級との来るべき激突の予行演習となるでしょう。連合、全労連は言うに及ばず政府国家権力といえどもこれを押しとどめることはでないし、革命的勢力が存在しないにしても、階級闘争は本来の非和解的姿を取り戻すことになるでしょう。


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「反面教師として」は、つながりの悪い拙い私の抜粋で、申し訳ない気持ちでいっぱいなのだが、冒頭、日本の労働運動の特殊な形態にふれ、その後、労働運動への共産主義者の関わり方、政治闘争の意義、共産主義者は護民官と話は展開される。
それは、レーニンが「ストライキについて」述べた社会主義者の役割そのものである。

年明けから凹みに凹んでいた気持ちに思いっきり空気をいれてくれた文章だった。


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反面教師として 投稿者:NK 投稿日:2009年 3月20日(金)03時31分42秒

(前略)

日本の労働運動は、かつてのスターリン主義の影響の下に、動員の割り当てにしろ、上部の下部に対する支配の傾向が強い。また同一労働同一賃金の原則が全く無視(同じ職種の労働をしている派遣と正社員の賃金が違うなど、日本でしか見られない異常を当然視)されているなど特殊な形態をもって、いわば民同型ともいうべき形で労働者支配の一翼を担ってきたが、それは産業別労働組合の解体をとおして企業内組合という日本的労働者支配の形態をもたらした。

(中略)

どのような労働組合であろうとその中に留まって活動することを追求し、それらの成員は権力から秘匿されなければならない。このことは逆に共産主義者が労働者によって庇護されることによって可能になるだろう。
つぎに、政治的要求こそが、職種、上下関係に基づく分断に影響されず、広範な労働者を結びつけるであろうし、また労働者以外の大衆や良心的人士との結合をも実現することになるだろう。労働者の階級的自覚は、狭い経済的利害を共にする個別労働組合的形態から出発し、同じ産業の労働者の共通した利害によって企業的利害を捨て、政党、大衆団体のもとでの闘いに加わることによって、さらに多くの勤労所階級の利害と結びつく。さらに進んで、被抑圧民族、国内の被抑圧人民との接触と彼らの闘いに触れることをとおして、彼らの尊厳が自分のそれと同じ重さを持つものであることを自覚し、自らの置かれている抑圧的立場から抜け出し、共に新しい人間として生まれ変わることができると言う確信も生まれてくる。同時に非暴力的政治闘争から帝国主義国家権力に対する組織された暴力的闘争に進むことにを通して分断された人民を一つの共通利害にまとめ、プロレタリア独裁(全人民の武装と暴力の回復)実現という労働者の階級意識の歩みのひとつの到達点にいたる。
共産主義者は、この過程を常に労働者人民の傍らから離れること無しに共に歩み、彼らの手足となり耳となって助けなければならない。共産主義者とその党は労働者階級の究極的利害即ち、共産主義社会の実現による全人民の解放という目的のために組織された、いわば労働者階級の道具のひとつであって、指導者と言えども、これを実際にやりとげる多くの人々の一人としての存在以上ではない。そのために、今何が起きているのか、それは何を齎すのか、なぜそれが起きるのか、これから何が起き、何をすべきか、と言う問いに答えられる必要があり、極めて実践的なものとして指し示す能力を獲得しなければならない。またできうる限り将来にわたる見通しと実現すべき目標の設計図を用意し、日々それを精緻なものとする必要がある。

本多書記長はかつて、生死を共にする同志が二桁に上ると語ったが、実際はそうはならなかった。今は多くが変節した。それに対してボリビアの山中では、チェ・ゲバラの下に、キューバ共産党の中央委員あるいは次官の地位を捨てて確実に死ぬかも知れぬ、また達成の不確かな目的のために18名が集まった。彼らはそのほとんどが実際に、山麓で峡谷で死んでいった。またフランス人として生まれたフランツファノンはアルジェリア人として其処の土なった。私は彼らが羨ましい。目的の為にその生を貫けることは、人間のもっとも人間らしい生き方であるし、もっと羨ましいのは、おびただしい数の無名の戦士のひとりとして生きかつ死ぬことができたからだ。共産主義者とその党は、このような人たちで形作られなければならない。

(以下略)


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著者の意を十分に伝えることのできぬ、勝手な切り貼り掲載につき、ご指摘いただけましたら、速攻削除、謝罪させていただく所存であります。m(_ _)m よろしくお願いします。




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