たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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KIZUNA
肩こり指数 ★☆☆

先日、樵という記事をあげた。樵といえば愚樵さまなのであるが、「たかが木とはいえ大切に育ててきたものを切って倒すというのは、あまり爽快な気分とはいえないものだった。」書いてみたもののプロは職業的信念をもって木を切っておられるのであろう、ちょっと失礼な物言いだったかなと思いが及んだ。

とはいえ、とりあえずはその気持ちを私が知ることはできないので、あまりたちいったところを思索するならば「万物の霊長たる人の業」といったところをめぐっての話となろう。まあそれは今回はふれないこととして、”「私」と社会とを結びつける絆 ”というお題で愚樵さまが記事をあげておられたので拝読させていただいた。ちょっと話が難しいと思ったのですべてをつかみきれてはいないのだが、絆というものに思ったところをちょっと書いてみようとおもった。

原理論レベルで資本主義的生産様式において社会の絆というのはお金である。それ以外はない。だが、実際は地縁血縁などのお金を絆としない関係性も現実には存在する。まあ、とかく世の中は原理論どおりにはいかないものでそれぞれ個別具体的な資本主義の発展における歴史的諸事情というものがあるものだ。だが、原理原則はそうしたバリエーションの奥底で貫徹されるものである。

そうした地縁血縁の絆は、以前”封建社会への憧れ”でも書いたのだが、封建社会の残渣である。生産力の発展が社会を維持してゆくに精一杯の段階では、村々での地域共同体における個々の構成員は生産の共働を基軸とした運命共同体である。そうしたありかたを根底的に規定していたものは、生産手段としての土地の所有であり、それにもとづく自給自足経済であった。

封建社会での絆はこの生産手段としての土地を物質的根拠とし、それにもとづく共働をつうじて個々人の頭の中に芽生えた共同の観念である。
資本主義的生産様式の確立の条件である本源的蓄積の過程の重要な条件の一つは、この土地という生産手段を人から暴力的に引きはがし着の身着のままの「自由人」をうみだすことであった。それは同時に封建社会の絆を切断してゆく過程に他ならなかったと言える。

土地を追われ「自由」になった人は同時に生活の糧を手に入れる術と絆をうしなった。そんな彼が生活の糧を手に入れる手だては自らの労働力を資本に商品として売り渡し、賃金というお金を得ることだった。それは、新しい絆の獲得だった。雇われた職場ではすぐに気さくな仲間ができたかもしれない。それは、ともにお金を得るために集った仲間だ。床屋にいくと話し上手なおやじがきれいに散髪をしてくれる。それは散髪料を支払うことが前提のことだ。資格や地位を求めることがより多くのお金を呼び寄せるための自己投資にほかならないといったら砂を噛むような話だが真実である。
これも以前”年を重ねてわかること”で書いたことだが、金の切れ目が縁(絆)の切れ目であり、お金がとりもつ人の縁(絆)なのである。そんな社会だからこそ銭金ぬきのつきあいがとても眩しく素晴らしく思えるのであり、封建社会への憧れがときとして頭をよぎったりもするものである。

資本主義的生産様式においては個々人に分断され取り替え可能な労働力商品として存在する。その商品を社会のなかに結びつける絆はお金なのである。
しかし、封建社会ではそうではなかったと私は考える。共同体の構成員は共働の必要からとても濃い関係性をもっていたのではなかろうか。だれもが家族をこえた「かけがえのない者」だったのではなかろうか。固く結びあうことによってのみ、社会的生産力を維持し得たのだから。いわゆる「村八分」という共同体のルールが、それを宣告された者にとって死にも近い意味をもっていたことがうかがえるのである。それでも、火事と葬式の時だけは付き合いをするというこのルールは逆説的にも、共同体の結束の強さの証左であるといえる。

私は犯罪被害によって、「かけがえのない者」を失った悲しみは当事者だけの感情であるということが、資本主義的生産様式のもとで、個々人が社会において分断され孤立しているという、他人の不幸が自らに直接的な影響を与えることがないという「虚構」、人間本来の「個に死して類に生きる」本質から疎外され、「家族」という閉じた形態ををもって存在する現状から生み出されているものであると思っている。極めて、歴史的社会的本質にを根ざした感情なのだ。

人はその本質的ありかたから他人の悲しみに肉薄し共有することはできる。そして、強く結びあうことをもって分断を乗り越えたとき忌まわしき犯罪の根を断ち切る前提としての諸関係をうちたてることができると考えている。そのとき私たちはお金にかわる新たな絆を手にすることができるであろう。

次回不定期につづく・・・かも


今年2年目のクリスマスローズ はじめての開花 ちょっとしょぼい
くりすますろーず


ラインゴールドという品種のコニファー ほったらかしで丸くなる 下枝が枯れ込んだのでスタンダードにした
らいんごーるど

Comment

 秘密にする

「人間本来の『個に死して類に生きる』本質」とまでは恐ろしくて言い切れませんが、同様のことは「ドイデ」から学びました。Mは歴史をつくる契機、側面とか書いてあったと記憶しております。
その対極に社会生物学から「利己的な遺伝子」を突きつけられて、数年悩みました。

そして漸くその課題をアウフヘーベンしたと、主観的には考えてというか思い込んでおります。(笑)
結論はMも、社会生物学も正しいと。(ただし利己的な遺伝子なるものは、証明されているわけではないことも承知の上で)
そうだったら異なる側面のどちらを、より人間的なる側面として価値判断するのかということが、私の基礎的視座です。

抽象度の高い書き方で申しわけありません。
愚か者はこうしか書けません。m(_ _)m
土岐幸一 | URL | 2008/03/18/Tue 10:58[EDIT]
知りませんでした
知りませんでした。 (白発中)

2008-03-22 12:06:04

薩摩長州さんとさんってNET社会の著名人なんですね。
3月20日のwakuwakuのブログに、東西南北さんやimacocoさんと共に登場されていましたよ。もっとも、名前の一部は伏字(意味なし)でしたが。
白発中 | URL | 2008/03/22/Sat 14:44[EDIT]
おひさしぶりです
土岐さまいらっしゃいませ。お返事おそくなりましてすみません。そうですね、ドイデでカール氏は「類的存在」といってましたっけ。つい先日ドイデを買いました。岩波文庫でいぜんから高い評価を耳にしていた廣松版がでていたので、思わず手をのばしてしまいました。学生の時に読んだのは大月のものだったのですが。

根っからの勉強嫌いな私は社会生物学はさっぱりで、「利己的な遺伝子」も詳しいことは知りません。最近ごぶさたしておりますが、コメントをいただきますLadybirdさまはそのあたりの専門家なので毎度興味津々でブログ記事を拝読させていただいております。

さて、土岐さまがどのような止揚をなしとげたのか、これまた非常に興味をそそるものであります。浅学者にはおもいもよらなかった問題の提示をいただきちょっと感謝でございます。

もしかして、人間はとてつもなく利己的なのだが、それを辛抱して共働している。とか
ドイデ的に解釈して、賃労働にはげむ今のあるがままの人間こそが本質であって、その本質がうみだす格差や抑圧などの否定的要素を契機として、それを止揚してゆくとか、いろいろと雑念があたまをめぐります。まあ、あまりあっさりと「これが本質だぁ!」と声高に言い切るのは手抜き以外のなにものでもありませんね。少し反省であります。
薩摩長州 | URL | 2008/03/23/Sun 21:12[EDIT]
いらっしゃいませ白発中さま
おへんじおそくなりましてすみませんです。
私も知りませんでした。NET社会の著名人なんて(笑)。てなわけで、本人も知らないくらいですから、NET社会の著名人ではありません。

細々とひっそりとこっそりとブログで拙い日々の雑感を綴らせていただいておるものでございます。
さて、「うない」でのご指摘の件、私もこの老眼でしかと確認しておりました。私は「うない」の愛読者であると同時に、卿がブログを開設する以前からアク禁の誉れを授かった者であります。

かの宇宙の権力者ベーダー卿ことwakuwaku_44氏(最近はいたるところでアクセス禁止をされたのか、わくわく44とかわくわく十万歳とかいうステハンをもちいているようだが)に巡回先のブログで2回ほど軽いジャブをいれて以来、私怨の権化となっているもよう。ただそれだけのことであります。これまでも幾度となく「東西○北や薩摩○州」という誹謗中傷を目にしておりますが、自己の主張が絶対的に正しいと妄想する御仁との対話は成立しえないと悟りましたので基本的に相手にしてはおりません。

まあ、アクセスカウンターを見ていただければ著名人でないことはあきらかでありますが。NET社会の著名人と呼ばれるほどのアクセスがなくても、私は自分の書くまさにたわいもない、拙い記事を読むために訪れてくださる方々を大切にしたいと思いますし、コメントをいただけましたら記事と同じものとしてお返事をしたいと心がけておる次第でございます。どうぞよろしければまたのおこしをおまちしております。もうじきバラも開花いたします。そしたら園芸ブログと化しますのでぜひ花をめでにいらしてくださいませ。
薩摩長州 | URL | 2008/03/23/Sun 22:25[EDIT]
社会生物学には弁証法で。
 社会生物学は機械的唯物論ですから、弁証法によって止揚すれば弁証法的尤物論になるのであります。

 チンパンジーと人類を同列視し、チンパンジー社会の生態を人類に適用する誤りを犯しているのが社会生物学です。きわめて危険な思想と実践です。

 生物の種族は発展し、独自の生態法則を形成するというのが弁証法的y風物論です。ゆえに、人類の特質を明らかにする比較生物学は弁証法的唯物論ですが、人類をチンパンジーに還元し、その質的な発展性を認識しない思想と実践は反科学であります。

 人類の特質とは、明瞭である。それはエンゲルスが「猿から人間になるにあたっての労働の役割」でその基礎を明らかにした。エンゲルスのいわゆる「猿人間」がマルクス、エンゲルスの根幹であり、史的唯物論の土台である生産力と生産関係となっている。ちなみに、生産力と生産関係の矛盾とは階級矛盾がその本質であり、生産と消費の矛盾は、その本質ではない。これを証明しているのが「類的存在」としての人類と階級社会の矛盾、すなわち、生産力と生産関係の矛盾である。

 
東西南北 | URL | 2008/03/24/Mon 01:31[EDIT]
れ:東西南北さん
私には東西南北さんのおっしゃることは、難し過ぎて理解できません。(汗)

「史的唯物論」のメルマールが、「生産力と生産関係の矛盾」とのことですが、それについても何のことやらです。(汗)
それに私が知っている弁証法とは、マルクスの「経済学批判」“序説の弁証法”だけでありまして、エンゲルスというか、かの人が纏め上げた弁証法的唯物論なるものは、私にとって無縁なものであります。

平にご容赦を。m(_ _)m
土岐幸一 | URL | 2008/03/27/Thu 17:42[EDIT]
土岐幸一さんへ
 反応してくれて感謝です。要するに、食料生産力が十分であるにもかかわらず、階級的な分業体制がある。これが生産力と生産関係の矛盾の本質ということですよ。ゆえに、階級的な分業体制を止揚することにより、人類の「類的本質」が全面開花するのであります。人類だけが食料を生産する科学技術力を固有した種族です。これが人類と猿を比較して出た事実です。平和とは穀物がみんなの口に平らに入ると意味のようです。食糧生産力が高度に存在する以上、殺し合い、死なしあいは人類社会の必然ではないということです。ゆえに、議会制民主主義を通じた社会革命が普遍的な人類の本質であり、暴力革命は特殊的なものということになります。
東西南北 | URL | 2008/03/27/Thu 22:57[EDIT]
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