たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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宗教  チベット暴動によせて
肩こり指数 ★★☆

ついこのあいだお仕事で街中にいたとき、昼時に近くの大きな本屋さんをのぞいた。そしたら、廣松版の「ドイツイデオロギー」が岩波文庫ででていた。大昔の学生の頃それを有り難く拝読したときは、大月の文庫本であったのだが、この廣松版はかなり高い評価を聞いていたので入手しようと思っていたのでラッキーとばかりに速攻で買った。

ついでといってはなんであるが、そのとなりに並んでいた「ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説」もあわせて買った。若きマルクスが(たしか26歳くらいだったか)ヘーゲル左派を跳躍台に弁証法的唯物論を形成してゆく初期の過程の著作である。大昔から関心があったのだがなぜか読むことがなかった一冊だった。ユダヤ人問題が60ページほど、ヘーゲル法哲学のほうが25ページほどの小冊子だ。だけど、どちらも難解でじつに手強いお話なのである。まるでカタツムリが這うようなスピードでしか読み解くことがかなわない代物であった。

さて、無神論として一般に理解されている唯物論であるが、それによってたつマルクス主義は神を、宗教を否定するものとしてとらえておられる方が、この間のチベットの暴動と中国共産党の暴力的鎮圧をめぐる論議のなかで思いの外多いものだと私は感じた。
マルクス主義=中国共産党VSチベット仏教=宗教という対立構造としてとらえ、中国共産党のチベット人民の虐殺を肯定する意見もあれば、その逆に中国共産党の暴挙を非難するをもってマルクス主義を否定する意見もある。はなはだ事は複雑怪奇なる様相を呈しているように見えた。

私ら「反帝国主義・反スターリン主義の旗のもと」に両足をつっこんでいたものにとっては、中国共産党は共産主義ではなくて、その疎外形態であるスターリン主義の党である。であるがゆえに、チベット人民による中国共産党による抑圧に抗するチベット人民の怒りの決起を断固として支持し、中国共産党の虐殺行為を激しく弾劾するものである。ということになるのであるが、それをもって欧米列強の帝国主義国家群が連呼する中国批判に一体となって同調するものではない。なぜなら、米英を軸として、日本も日々イラク人民の抑圧に荷担しているものであり、それ以外の帝国主義国家群もそれぞれの勢力圏において新植民地体制のもと他民族を抑圧搾取収奪をなしているものであるからである。

帝国主義の抑圧搾取収奪は悪である。そして、スターリン主義の抑圧搾取収奪も悪である。どちらにしても人民に対する暴挙には弾劾の声を上げてゆなねばならないと考えるものである。
このような立ち位置については相互リンクをさせていただいているアッテンさんが自ブログの「アッテンボローの雑記帳」にたいへんよい記事をあげておられたのでスターリン主義の解説も含めてお読みいただけたらということで、今回、スターリン主義の話はのちの記事に譲りたいと思う。

ここで話を本筋にもどすのだが、「宗教は民衆のアヘンである」とマルクスは言った。
マルクス主義の弁証法的唯物論を語るときよく聞いた一言である。今回のチベット暴動にかんする諸意見の一つがアヘン=麻薬=悪という社会通念から宗教=悪という等式を導き出し、一般論としてマルクス主義が宗教にたいして敵対的な立場をとっていると思っておられる方が結構多いと感じたのは冒頭のさわりで書いたとおりである。

この「宗教は民衆のアヘンである」という下りは、このたび買った「ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説」という本のヘーゲル法哲学批判序説の冒頭に登場する。ちょっと長いが引用してみることにする。

「反宗教的批判の基礎は、人間が宗教をつくるのであり、宗教が人間をつくるのではない、ということにある。しかも宗教は、自分自身をまだ自分のものとしていない人間が、または一度は自分のものとしてもまた喪失してしまった人間か、いずれかの人間の自己意識であり自己感情なのである。しかし人間というものは、この世界の外部にうずくまっている抽象的な存在ではない。人間とはすなわち人間の世界であり、国家であり、社会的結合である。この国家、この社会的結合が倒錯した世界であるがゆえに、倒錯した世界意識である宗教を生みだすのである。宗教は、この世界の一般的理論であり、それの百科全書的要綱であり、それの通俗的なかたちをとった論理学であり、それの唯心論的な、対面にかかわる問題であり、それの熱狂であり、それの道徳的承認であり、それの儀式ばった補完であり、それの慰めと正当化との一般的根拠である。宗教は、人間的本質が真の現実性をもたないがために、人間的本質を空想的に実現したものである。それゆえ、宗教に対する闘争は、間接的には、宗教という精神的芳香をただよわせているこの世界に対する闘争なのである。

宗教上の悲惨は現実的な悲惨の表現でもあるし、現実的な悲惨にたいする抗議でもある。宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である。

民衆の幻想的な幸福である宗教を揚棄することは、民衆の現実的な幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてもつ幻想を棄てるよう要求することは、それらの幻想を必要とするような状態を棄てるよう要求することである。したがって、宗教への批判は、宗教を後光とするこの涙の谷(現世)への批判の萌しをはらんでいる。」

マルクス主義者はいままさにそこにある現実を無視して即時的に、敵対的に、宗教を嫌うものではなく、否定するものでもない。民衆が宗教を必要としなければならないそんな社会のありかた、抑圧や差別、搾取・収奪による民衆の現実の悲惨を心より憎み、それを否定すべく社会を変革することをつうじて現実的な幸福を実現し、宗教を民衆が必要としなくなることをめざすものである。マルクス主義は人間の解放を目指すものである。

かつてのソビエトロシアのスターリンのように宗教を直接的に弾圧し根絶やしにすることがマルクス主義ではない。社会において過度期的には宗教が根をはる土壌はそうやすやすと尽きることはあるまい。そのことにたいしてマルクス主義者は宗教者のデリケートな宗教感情に十分な配慮をし、粘り強く啓蒙と説得をおこなう闘いをとおして、獲得してゆかねばならないのである。そして、それをもって宗教が根をはる土壌を革命をもって変革してゆかねばならない。事は一足飛びになせるほど単純ではない。まして宗教をもって現世の苦痛を癒すことをもって生きる善意の人民にたして、安直に暴力を用いるのはナンセンスである。

チベット人民の社会がダライ・ラマを頂点とするチベット仏教を軸に政教一体のものとして形成されている現実に、「無知蒙昧な、時代遅れの封建社会を正す」がごとき言説をもってチベット人民を抑圧するはお門違いもはなはだしい。そうあってはならないからこそ、民族の自決は原則として貫かれなければならないのだ。中国人民は「改革開放」路線がひらいたパンドラの箱をスターリン主義の打倒への闘いへの突破口となしてもらいたいものである。断じてその災いが、都市と農村の矛盾が、チベット人民のような少数民族へ排外主義的に転化されることがあってはならない。暴動が中国農村部各地へと広がりをみせていることは否応なしにそうした歴史的選択をもとめられることとなるのではなかろうか。

「他の民族を抑圧する民族は自由ではあり得ない」いまいちどこのマルクスの言葉をかみしめる必要が全世界の人民にはあるとおもう。


難しい本であった どうも哲学系は苦手 歳をとるほどにますます
ユダヤ人問題



Comment

 秘密にする

おひさしぶりです。
以前、薩摩さんにお尋ねしたことのある問題への、薩摩さんの思索の一部を読ませていただいたという気がしました。
立場は異なれど、『誠実なる理性の紡いだ言葉』という感じがしました。
では、また寄らせていただきます。ご迷惑でなければ…。

naoko | URL | 2008/03/26/Wed 05:14[EDIT]
こちらこそおひさしぶりです
いらっしゃいませnaokoさま。アッテンさんのところのコメントを拝見して、やはりこちらも立場は異なれど大いに共感いたしました。

マルクス主義は、弁証法的唯物論を背骨としておりますが、人の精神諸力(精神活動)を大きく評価するものであります。それゆえ、それを忌み嫌う者達から「宗教」とか「カルト」などと罵声をあびることがございます。その点にはいくつかの考慮すべき点があるにせよ、物質の支配に全てをまかせる機械的唯物論ではなく、物質による支配を認めた上でそれをはね返し変革する人の精神活動のダイナミズムを讃えるものであります。

労働者が解雇され労働者でなくなることを恐れず、資本の暴虐にたいしストをうつ。
権力の激しい拷問に耐え、自らの死をもってしても仲間を売らない。そんな人の精神の発露を讃えるものであります。

以前、問われました事柄に、真っ正面から答えていない。そんな誤解を生じかねない返答であったかと気にかけておりました。そのあたりのこともふまえて、今回の宗教とどう向き合うのかといったお話であったわけでありますが、つたわるものがあったということがわかり、安堵しております。

人の思想信条は、その人が善意であるならとても慎重に向き合わなければならない。なぜならいま現在それを揚棄しうる諸関係を我々は欠片ほどにも手にしていないのだから。
であるならば、誠心誠意真っ正面から向き合い、言葉を尽くして話し合うことより手だてはない。それほどの高い精神活動をブログという媒体でなせるほどの力量は私にはないのであります。ひとつその点をご理解いただきまして、きがねなくおこしいただけましたらとても嬉しく思います。
薩摩長州 | URL | 2008/03/26/Wed 21:46[EDIT]
原因と結果
宗教と人民の関係,今一度確認させていただきました.

「宗教をもって現世の苦痛を癒すことをもって生きる善意の人民にたして、安直に暴力を用いるのはナンセンスである」

これは,鈍っていた私の意識を再度覚醒させてくれるものでした.多謝!
アルバイシンの丘 | URL | 2008/03/28/Fri 11:12[EDIT]
papillonさまようこそ
おこしくださいました。日々が祝福され、幸福な未来が約束されているなら宗教を求める必要はないと私はおもっております。それでも、生命の有限性はこえることがかないませんが、それは命あるものの定めと言うことで、いたしかたございませんが。

迷える子羊にはるか頭上の天上界からさしのべられる神の御手よりも、同じ地にあって何故迷っているのかをともに考え、ナビを授けてくれる良き隣人が必要なのです。

ちょっと間があいてしまいましたが、近々また猫遍歴の続きを書こうと思ってます。

ご訪問有り難うございました。
薩摩長州 | URL | 2008/03/28/Fri 21:52[EDIT]
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