たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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贈与経済?
肩こり指数 ★☆☆

「『労働に対する対価・報酬』という関係を、『人格同士の接触による贈与・謝礼』という関係に再構築する。」その原動力は「教育」が担うというのは、ちょっと違うかも、と私は思います。そうしたありかたは、かつてイギリスの労働者のために私財をなげうってそのような理念を貫こうとしたロバート・オーエンの試みに共通するものを見ることができます。彼のそうした考えは、多くの資本家から危険な試みとして社会的に排除され、成功をみることはありませんでした。マルクスはそんな彼らの行動を一定評価し引き継いだうえで、「空想社会主義者」と呼びました。

労働の成果を等しい社会的価値として等価交換をするというありかたは、機械性大工業による生産力の増大に互いに前提としあう生産関係(生産と流通のありかた)として必然的なものであると考えます。
問題は、生産のありかたにあるのではないでしょうか。共同体を解体し生産手段と労働力を暴力的に分離したことがまず一点。もう一点は、その結果として共同体でおこなわれていた協働という労働の形態を破壊しそれを分業にとってかえたことであります。

農業を基礎とした労働は、かつての日本の農村にみるように、農耕機械がなかった時代、同じ仕事をみんなで協力して為す、協働であったわけであります。皆が助け合いながら同じ労働に汗を流す、この人格的関係性が共同体を維持してゆく必須の生産過程であり、それが共同意識の源でございます。みな、互いを名字ではなく名前で親しげに呼びあったりするわけであります。

しかし、生産手段である土地から引きはがされ、生産手段からも自由(土地に縛られることがない)、どの資本家に労働力を売ることも自由という「二重の自由」を獲得した人は「栄えある」個人となるのですが、それをより決定的にするものは分業という労働のありかたなのであります。これが、実に仕事をつまらないものにする。生産設備である機械の付属物のような扱いをうけ、人と人の労働をつうじての関係性は切断され、いったい何の為に何を作っているのかもわからず、部品を組み付ける人は組み付けるだけ、ねじを締める人はねじを締めるだけという具合となるわけです。

労働の過程でバラバラに分断された人の意識は「個」となり、さらに競争を強いられるに至り、確固たる個人の意識は形成されるのでありました。そうしたあり方はすべて資本が自己増殖するための価値を生みだすためのものであり、社会で必要とされる物資資材の生産を企業が私的に工場や生産設備などなどを私的に所有していることを根拠に、私的に利潤を追い求める動機によるものであります。

マルクスはそういう分業をやめようと言うのであります。手先が器用な者、不器用なもの、利発な者、鈍くさい者、短気な者、のんきな者、人はそれぞれでございます。そんなさまざまな人が互いに結びあい助け合って同じように働き、個々人が才能や素質を開花させる事ができるような協働をしよう、そんな協働を営む共同社会を作ろうというのであります。

そのためには、資本家のもとに奪われ独占されている生産手段を、諸個人が団結することをもって奪い返し共同社会をうちたて、欲に駆られた無秩序な生産に秩序を与え、基本的に労働にみあった等価の価値をうけとる。それをもって、資本家の搾取を廃絶しようということであります。当然そのことは、こんにちの私有財産を防衛することを基軸に体系化された法体系においては、資本家の工場、生産設備などは私有財産への積極的侵攻となるわけで、国家権力との対決が不可避なものとなるのでございます。

さて、そうした共同社会をうち立てる物質的基礎をなすものが、欲に動機づけられてなされた分業による搾取と、それを資本へ転化する拡大再生産によって瞬く間に大発展を遂げた機械性大工業なのであります。機械による生産力の増大こそが、封建社会の牧歌的な共同体に、幾度となく押し寄せた自然の驚異をはね返す力であり、貧困の共有から脱却し物質的な豊かさを実現した原動力であります。生産力の発展と物質的豊かさは賞賛されるべきものであります。

変革せねばならないのは、生産関係という生産力に関わる人の組織的あり方なのであります。労働力が商品となり、人が分業によって個々に分断され、競争を強いられ、搾取される労働のありかた。搾取した価値を繰り入れ無限に自己増殖を目指す資本がなす無秩序な拡大再生産。資本主義的生産様式以前では単なる流通の媒介と局地的な価値尺度としての機能しかもたなかった貨幣に、労働の成果を表現し蓄積し資本に転化する機能を与えることができたのは、さかのぼれば、自然科学の発展が生みだした蒸気機関というかつてない巨大なエネルギーが、マニュファクチャーという機械と分業という生産のありかたに結合し、それとシンクロしてなされた囲い込み運動が生みだした膨大な無産者の群れを呑み込んで生まれた機械性大工業をもって資本主義社会がうちたったのは、やはり、生産手段を資本家が独占していたことによるものにほかならないのであります。しかるに、生産手段の解放こそが、貨幣の物象化という現象を打ち破り、豊かさのなかの貧困と精神の荒廃を解決する一切のスタート地点なのでございます。

「 われわれは、もちろん、わが賢明なる哲学者たちに次のことを啓蒙するだけの労をとるつもりはない。つまり、たとえ彼らが哲学、神学、実体を、そして一切の不用物を「自己意識」に解消したとしても、また、たとえ彼らが「人間」をこうした空文句の支配――そんなものに人間が隷従したためしはないが――から解放したとしても、それで「人間」の「解放」が一歩も前へ進んだわけではないということである。そしてまた、現実的な解放は現実の世界の中で、現実的な手段によって成就する以外には不可能だということ、奴隷制は蒸気機関や紡績機なしには廃止することはできず、農奴制は農業の改良なしには廃止できないということ、そもそも人間は衣食住が質量ともに完全に獲得できないうちは解放されえないということである。「解放」は歴史的事業なのであって、思想の事業ではない。それは歴史的諸関係によって、つまり工業、商業、農業、交通諸関係の状態によってもたらされる。」(ドイツ・イデオロギー 廣松版)

マルクスは資本主義社会の矛盾を最初は労働の疎外と私的所有としてとらえたのですが、貨幣の不思議を探求することを通じて資本主義社会の経済的仕組みを明らかにし、物象化=フェティシズムと生産手段の私的所有にその根源をみたのであります。
この生産手段の私的所有からの解放をいかに成し遂げるか、その方法論をめぐって様々な路線が提示されてまいりました。もっともオーソドックスな方法はレーニンのなした革命ロシアを導いた方法なのでありますが、革命ロシアが直面した歴史的困難は惜しくもスターリニズムへの変容を余儀なくされてしまったのであります。そのあたりの諸事情はまた後ほどとりあげようとはおもいますが。

革命ロシアの成就の影響は大きく、資本は労働の巨大な反乱に直面するのですが、辛くも第二次大戦へと危機を転化し乗り切るのでありました。そののちはふたたび生産力の回復成長を物質的基礎として、利潤の一部を国家政策をつうじ、労働者の反乱予防対策としての「福祉政策」を、恐慌回避政策とあわせて行うケインジアンがマルクスを歴史の舞台裏へと押しやったのでありますが、そのことがなんら資本の生みだす矛盾を解決するものではなく、巨大な財政赤字を引き起こし、そのことが再び登場したかわりばえのしない厚化粧の道化師である「新」自由主義なるブードゥー経済学はふたたびマルクスを歴史の表舞台に引き寄せるものだと私はおもっております。




Comment

 秘密にする

そして、さらには個々の人間の欲の問題、そして再びめぐりめぐって、共同体の問題が壁となって立ち表れてくるような気がします。
テクノロジーの発達はそれらの諸問題の根源である、人間の生存条件を満たしうるのでしょうか?
可能性があるとしても、それは遠い遠い未来のような気が…。
naoko | URL | 2008/04/19/Sat 06:12[EDIT]
またタイトル飛ばしました!
上のタイトルは「生産手段の開放・共有には、愚樵さんのいう貨幣の問題が立ちはだかりそうな気が…」です。
naoko | URL | 2008/04/19/Sat 06:15[EDIT]
理念的共同体と自然的共同体
完全にマルクスを読みこなしたわけではないので、私の批評は的外れなのかもしれません、と断っておきまして。

「マルクスは貨幣の不思議を探求しで資本主義経済の仕組みを明らかにすることを通じて、資本主義社会の矛盾の根源が生産手段の私的所有にあることを見出した」 

マルクスのこの見立てに私は若干の異論もあるのですが、それはここでは措くとして、たとえそうであったとしても、やはり大きな見落としをしていたのではないかと思っています。

マルクスは牧歌的な共同体(自然的共同体と呼びましょう)の復活を夢見た。だが、実現したのは全体主義的な理念的共同体でした。
(これはマルクスの責任ではないのかもしれません。レーニンやスターリンに責任を帰すべき問題なのかもしれません。私にはまだそのあたりの峻別はつきませんので、そこらの峻別は薩摩長州さんにお願いしたいのですが、とりあえずマルクスの責任とさせていただきます。)

ここで思い出すのは、私のところにいただいた東西南北さんの疑問です。すなわち、「クオリティーが低い、高い労働生産物、サービスがあるのであれば、クオリティーの高い物を所有できる人と所有できない人に分かれます。その基準は何か?」という疑念。私はこれに対し「身分」という言葉で回答をし説明をしましたが、その説明に対し、とんぼのめがねさんから「差異」という言葉が相応しいという指摘がありました。共同体の一体性のなかで「差異」を吸収してしまう柔軟性を持つものが自然的共同体であるなら、文字通り「身分」としてクオリティーの高い者を所有、ではなく支配してしまうのが理念的共同体。マルクスの思想では、理念的共同体しか実現できなかったのです。

なぜこうしたことになるのかは、自然的共同体の有様を再度想起してみればわかります。自然的共同体の経済は贈与経済なのですが、特徴は経済だけではありません。自然的共同体には貨幣がないだけでなく、法もないのです。風習やら仕来たりといったルールはあるにしても、「理念」を背景とした法律は存在しない。マルクスが夢見た牧歌的な自然共同体とは、そうしたものであったはずです。

贈与経済が機能している原始的な自然的共同体に「理念」が持ち込まれ、権力が発生し法が定められ、それが経済に影響を及ぼすと自発的な贈与はたちまち姿を消してしまいます。経済は贈与ではなく強権による収奪に変ってしまう。これが理念的共同体の姿です。

マルクスは、自然的共同体を目指したのであれば、貨幣の研究だけでなく理念と法の研究も同時に為すべきだった、マルクスは片手落ちではなかったのか、というのが私の私見ですが、最初に述べたように、これは暫定的なものです。また、その通りであったとしても、片手落ちの責をマルクスに帰すべきではないことは承知しています。

愚樵 | URL | 2008/04/19/Sat 19:34[EDIT]
まいど思索のきっかけを与えてくださり感謝しております。おかげさまではるか彼方に忘却した様々な屁理屈を思い起こしつつ自分なりにこのニッポンが、世界がどこへゆこうとしているのか想いを巡らしたりするものでございます。

さて、今回は私としては珍しくも(?)、対論として書かせていただいたものであります。本来ならコメントとして上げさせていただくべき手合いのものなのですが、いかんせん少々長くなりましたので、例のお方のこともありご迷惑かと思い、記事としてあげさせていただいたものでございます。

さて、いただきましたコメントに関してでありますが

>マルクスは牧歌的な共同体(自然的共同体と呼びましょう)の復活を夢見た。だが、実現したのは全体主義的な理念的共同体でした。

この「 牧歌的な共同体(自然的共同体と呼びましょう)」というのが、どうも私にはよくわからないのでございます。
原始共同的生産関係か奴隷制的生産関係あるいは封建的生産関係であるのか、どの生産関係をもって成り立つ社会なのか。生産関係とはマルクス経済学の用語で人間が自然に積極的に関わり、それを改造し物質的財貨を生産するさいに、たがいに取り結ぶ関係のことで、いわば、労働の行われ方、生産への関わり方であります。この関係の性格は生産手段(土地、森林、水利、地下埋蔵物、原料、生産用具、交通&通信手段など生産に必要なもの一式)を誰が所有しているかによって決まります。たとえば、奴隷制的生産関係では奴隷所有者が、封建的生産関係では封建領主が、資本主義的生産関係では資本家が生産手段を所有します。この生産関係は生産力の発展の一定の段階に対応するようになっており、その総体を生産様式といいます。

つづく「実現したのは全体主義的な理念的共同体」というのは、いまは無きソビエト連邦のことかな、なんておもうのですが、私たちはアレを「共産主義の疎外形態」とよんでおりますが、歴史的評価としてはすべての責任はスターリンに帰するものであります。ただ、そこへ至る道を開いたのはレーニン自身にあるのですが、それは当時の革命ロシアの特殊な事情があるものでございます。ただしそのことがこんにちの国際共産主義運動の衰退をまねいたことへの総括、そしてあらたな運動の再構築に向けての課題としての教訓を多く含んだ一つの歴史的事件としてとても重要であります。そうした視点に立った場合スターリンという歪んだ人格に一切が帰するというものではなく(最初にいったことと違うじゃん)主体の問題として捉え返すならばいまだ決定的な克服の術はないように私も思うものであります。

このスターリニズムの問題は近々に記事としてあげさせていただきます。どう書こうかと悩ましいところではあるのですが。

さて、重箱の隅をつつくような概念規定の問題から話が始まったことをお許しください。
決して悪意はございません。ただ特殊な規定を伴った概念はその意味するものがなんであるか具体的に提示されねば共有することが困難であると思うものでございます。

本題にはいりますが、マルクスは夢は見ておりません。

「すなわち労働が分配されはじめるやいなや、各人は一定の専属の活動範囲をもち、これはかれにおしつけられて、かれはこれからぬけだすことができない。

かれは猟師、漁夫か牧人か批判的批判家であり、そしてもしかれが生活の手段をうしなうまいとすれば、どこまでもそれでいなければならない――これにたいして共産主義社会では、各人が一定の専属の活動範囲をもたずにどんな任意の部門においても修行をつむことができ、社会が全般の生産を規制する。そしてまさにそれゆえにこそ私はまったく気のむくままに今日はこれをし、明日はあれをし、朝には狩りをし、午後には魚をとり、夕には家畜を飼い、食後には批判をできるようになり、しかも猟師や漁夫や牧人または批判家になることはない。」

などと、疎外された労働が揚棄されたのちのあり方を極めて牧歌的に語っていたりするのでコレをみたら夢と言われても仕方ないですが(苦笑)。まるで、原始共同制か封建制社会への回帰を目指しているかのように考えておられる方も巷ではちょくちょく拝見いたします。

しかしですね、お分かりのこととは思いますが、マルクスは原始共同制か封建制社会への回帰を目指していたわけではありません。どちらの資本主義社会に先行するこの社会は生産力の未発達から貧しく、自然の脅威にさらされた厳しい世界であったには違いありません。以前「封建社会への憧憬」という記事で書いたことは封建社会では貧しくとも共同体としての絆があり、そのなかで生産手段をもち自立的に生活がなりたっていたことを「憧憬」表現したものであります。そして、資本主義社会の豊かさの中の貧困を批判したものであります。

マルクスの「ドイツ・イデオロギー」という著作の前半は意識というものをとりあげ、それに連なる観念はいつどんな状況で生まれたのかを明らかにしております。
そのなかでの知る人は知る、知らない人は知らない有名な言葉が「意識が生活を規定するのではなくて、生活が意識を規定する」という言葉であります。

マルクスは共産主義社会の根拠を理念という観念にもとめたのではなく
「哲学者たちにわかりよくいうならば、この『疎外』はもちろんただ二つの実践的な前提のもとでのみ廃棄されることができる。それが一つの『たえられぬ』力、すなわちそれにむかって革命がおこなわれるような力となるためには、それが人類の大衆をばまったくの『無産者』としてうみだしていると同時に、富と教養との現存世界にたいする矛盾の形でうみだしていることが必要である。ただし富と教養とはいずれも生産力のおおきな上昇――生産力の高度の発展を前提するものである」

「共産主義はわれわれにとっては、つくりださるべき一つの状態、現実が基準としなければならない一つの理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは、今の状態を廃棄するところの現実的な運動である。この運動の諸条件は今現存する前提からうまれてくる。」
と共産主義は現実に生起する社会の矛盾を生みだす状態を廃絶する運動であり、個別具体的ないまあるがままの状態を前提として始まるものであるといっているのであります。

唯物論者であり現実主義者であるマルクスは夢とか理念とかの観念を排し

「天上から地上へおりるドイツ哲学とはまったく反対に、ここでは地上から天上へのぼる。すなわち、人間がかたり、想像し、表象するところのものから出発し、あるいはまたかたられ、思考され、想像され、表象される人間から出発して、ここから具体的な人間にたどりつくのではない。現実的に活動している人間から出発し、かれらの現実的な生活過程からこの生活過程のイデオロギー的な反射および反響の発展をも叙述するのである。」の言葉通り、現実社会の動きを根底から支える経済の中に社会の矛盾を生みだす捻れたコアを明らかにすべく経済の研究に没頭し資本論を仕上げたのでありました。それは、おおよそ片手落ちどころか両手にもあまるほど理念も法も研究し尽くしたヘーゲル大先生の最も熱心な弟子であったマルクスだからこそ辿り着くことができたものであると私は思うのであります。

さて、もうだいぶ長くなってしまったので、「贈与経済が機能している原始的な自然的共同体に「理念」が持ち込まれ」ということに関しましては、一言、「自然的共同体」と同じく「贈与経済」という概念もよくわからないのですが、マルクスにつづくエンゲルスはモルガンの研究成果である「古代社会」をベースに唯物史観を論証しようとした著作「家族、私有財産および国家の起源」のなかで、鉄器の発明が狩猟技術を発展させ、剰余生産物が発生し、それが権力を生みだし、権力はそれを正当化する「観念」や「法」などのイデオロギーが生成したとしております。これもまた、いずれ記事にしたいと思っておりますのでしばらくお待ち下さいませ。「家族、私有財産および国家の起源」は結構面白いかも知れませんよ、愚樵さまの問題意識にみごとにはまるような気がいたします。

なお、立脚点はことなるのですが、「家族、私有財産および国家の起源」にふれつつ税制を論じたテキストを発見いたしましたので、一応紹介させていただきます。よろしかったらお読みになってみて下さいませ。http://www.sinfonia.or.jp/~matsui/kokkatozeiseikaikaku.htm

まあ、ぼちぼち思考し、論じて参りましょう。失礼いたしました。m(_ _)m
薩摩長州 | URL | 2008/04/21/Mon 00:27[EDIT]
お返事、一気に読ましていただきましたが
>まあ、ぼちぼち思考し、論じて参りましょう。

に賛成です。自分から議論を吹っかけておいて申し訳ないんですが(苦笑)。やはり、まだまだマルクスは私には遠いところにあるなぁ、というのが感想です。でも、このお返事を拝見して、ますますマルクスに喰らいつきたくなってきました。

感想ついでに一言だけ。

私はそれでもやはり、マルクスは夢を見ていたのだと思います。マルクスはその夢を夢だと語らなかっただけのことで。夢にも唯物的な理由があって、そこを示したのが例の「観念は生活に規定される」という言葉でしょう。でも、この言葉がそもそも生活からはみ出していますよね。生活の中にどっぷり使っている者にこの言葉は生み出せないと思います。生活からはみ出した部分は、やっぱりマルクスの夢に由来するのだろうと思うのです。

続きのお話、楽しみにしています。
愚樵 | URL | 2008/04/21/Mon 19:40[EDIT]
お返事ありがとうございました
いやいや、激しい討論になるかと思ってましたので、まずは一安心でございます。
まあ、正直なところ論点が私にも愚樵さまにも明確ではないと感じ、意識的に回避したというわけではないのですけど。そうそう、前出のコメのタイトルを忘れておりました。
「いらっしゃいませ愚樵さま、naokoさま」であります。失礼いたしました。

私は「論破」ということを好みません。まあ、そういう人がほとんどだとは思いますが、このネットワールドでは意外に「論破」を生き甲斐にしている人もおるように思います。これまた、マルクスで恐縮でありますが、彼は個別具体的な人間の有り様を人間一般に解消し十把一絡げにしません。それもまた、このドイツ・イデオロギーの中で明らかにしている。人はそれぞれの諸関係のもと、多様な経験にもとづく個人史を背負って生きている者でございます。当然、そこからは多様な認識、意見が存在するのは当たり前のことなのであります。マルクス主義者はそれを否定しない。断じて「豚に真珠」などとは言わない、悪意なき方でございますれば、根気よく、粘り強く対話を続けながら、互いの違いを理解し合う、溝を埋めてゆく作業をなすものでございます。

私個人史的に見ても割とハードコアな「極左」という経験をつうじての堅苦しい話でございますので、なかなか理解遠く及ばずの部分もございましょうが、そこは、珍しいモノを見るような感覚で受け止めていただけたらとおもいます。ほぼ完全なる認識の一致を見ることができるのは相互リンクさせていただいている、その出自を同じくするアッテンさんくらいでしょうか。

私はマルクスを評すような力量は全く備えてはおりませんが、そうしたうえで氏の著作にふれて思うことは、その観察眼の鋭さもさることながら、現実に生起する諸事象をまるでカメラで写し取るように素直な目でもれなく見ている。決して見たもの以上でもなければ以下でもない。彼が生きた時代は、「共産党宣言」を世に送り出し、生涯を通じた一連の仕事の成果を「資本論」に集約したそんな時代は、まぎれもなく、ブルジョアジーの権力にプロレタリアートが虐げられ、それにプロレタリアートが反撃をはじめた、そんな時代であったのだと思います。

そして、彼は愚樵さまのご指摘の通り、「浮世離れ」した生活のなかで、プロレタリアートの目で見、頭で考えた。彼は、研究者であり、なによりプロレタリアートとともに歩むことを決意した、革命家であったから「夢」のような現実を描くことができたのだと私は思います。といえるのは、私も本当にささやかながらもそんな経験をしてきたからのことで、夢物語と捉えていただいても差し支えはございませんが。

まあ、ぶっちゃけた話、マルクスじゃなくてもいいのですけど、おおよそ今現在の時点では、世の中の仕組みとそこから生起する諸事象を、具体的且つ詳細に説明しうるものは、氏が考えついた理屈以上のものがないと私には思えるので、それを支持するものであります。

対立的な問題の建て方も時にはございましょうが、敬意は忘れぬ事を肝に銘じております。
何卒その点だけはご理解いただきまして、お付き合いいただけましたら何よりの幸いでございます。ぼちぼち書かせていただきます。お返事ありがとうございました。これで、一応完結ということで。
薩摩長州 | URL | 2008/04/21/Mon 21:22[EDIT]
お久しぶりでございます
先日は貴重な記事をTBしていただきありがとうございました。
実は何も勉強してない身をも省みず、無謀な身の程知らずの記事を書いてしまいました。いかにも的外れなことを書いているものと覚悟しております(自分では分からないので無謀・身の程知らずの所以です)。
もし見るに見かねることがございましたらなにとぞご教示の程、よろしくお願い申し上げます。
アルバイシンの丘 | URL | 2008/05/06/Tue 22:13[EDIT]
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経済学のお勉強(1)利潤と剰余価値
 この記事は愚樵さんの記事のコメント欄で延々と続いた勉強会のまとめとして立ち上げたものです。いきなりこの記事を見ても決して事情がわからないはずですので、興味のある方はぜひ愚樵さんの記事、およびそのコメントをお読みください。ここでは改めて事情説明する余裕...  [続きを読む]
アルバイシンの丘 2008/05/06/Tue 22:08
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