たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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スターリン主義  NEP
肩こり指数 ★☆☆

NEP=ネップという言葉をご存じだろうか。電子レンジでチンをするときに使うのはラップ、世界に誇るトヨタ自動車のディーラーはネッツ。そのどちらも関係がない、革命ロシアが真っ先に直面した内外のとてつもない困難がもたらした経済政策の名前がNEPなのだ。このNEPのもたらした「副作用」が後のスターリン主義の培養土となったのである。その歴史的過程をふりかえってみると、必然と偶然がなんとも複雑に絡み合いながら途方もない悲劇へと突き進んでゆくその様は、なんともやりきれない思いを喚起する。
かくのごときスターリン主義の誤りを確認するうえで、その発生のプロセスを簡単にではあるが振り返りつつ、その問題点を指摘してゆきたいと思う。

1917年2月に起こったロシア2月革命がツァーを打倒し生みだしたボリシェヴィキとメンシェビキ、エス・エルとの間で生じた二重権力は同年の10月25日の10月革命をもってレーニンとボリシェヴィキは蜂起し、権力を奪取する。臨時政府は打倒され、翌日26日レーニンはソビエト大会で社会主義秩序建設を高らかと宣言する。

革命以後の激動に一時休息を与えるため、ドイツとの帝国主義戦争の即時停戦をもとめて、広範な領土の喪失と賠償義務という犠牲をはらいブレスト・リトフスク講和条約を締結するのであるが、米、英、仏、チェコ、ポーランドの十字軍による革命ロシア圧殺の干渉は止むことを知らず、くわえて旧帝政時代からの反革命的将軍に率いられた資本家、地主とそれら階級的利害を代表する諸党派によるクーデターや白色テロリズムとの激烈な内戦が3年間にわたって闘われたのである。

レーニンはこの内戦のさなかの1919年3月2~6日に第三インターナショナルを設立する。彼は、遅れた資本主義であったロシアの後進性を突破し、内戦によって疲弊した国土と経済を回復するためには国際共産主義運動の前進による他国の革命の勝利との結合による援助が不可欠であると考えていたし、そうした世界革命の突破口として革命ロシアを位置づけていたのである。

しかし、ベーラ・クンのハンガリー・ソビエト共和国は5ヶ月で倒れ、イタリアではアントニオ・グラムシが反ファシズム社会主義統一戦線を創設するも失敗に終わる。ブルガリア共産党の指導者ゲオルク・ドミトロフは激しい弾圧に亡命、ロシア革命の高揚はアメリカでも日本でも共産主義運動を生みだすが勝利にほど遠く。もっとも期待していたドイツ革命はキール軍港での蜂起を皮切りに全国に波及しレーテ(評議会)をうち立て、革命の勝利は手の届くところにあったにもかかわらず、主体の側の遅れから権力を奪取へ導くことができず、惜しくも敗北を喫することになる。

革命ロシアの生みだした高揚と、ヨーロッパを支配した戦後革命の気運は後退し、革命ロシアは孤立をよぎなくされる。ロシアは列強により国境を封鎖され、反革命によって港湾、鉄道施設、主要工業地帯、穀物生産地は占拠された状態がつづいた。迫り来る飢餓の危機に、レーニンは産業の国有化の推進と農民からの穀物徴発を基本方針とした戦時共産主義という強力な軍事的国家統制を1918年にひいたのだった。

それからの3年間は、革命ロシアにとってすさまじい苦闘の時間だった。1919年、反革命メンシェビキ、エス・エルは、飢えと寒さに命を落としてゆく多くの労働者や農民の怒りと不満にストライキを呼びかけ、1920年から1921年にかけて大規模な農民の反乱が相次ぐこととなる。労農同盟の呼びかけのもと、ともに闘ってきた農民指導者であるマフノが叛旗をひるがえしウクライナ地方で反乱を組織する。ボリシェヴィキはトロツキー率いる赤軍をもって1921年8月これを武力で鎮圧する。

時をおなじくして、1921年3月、クロンシュタット・ソビエトでは、その出身の多くを農民とする水兵達がエス・エルの影響のもと、戦時共産主義の即時変更による穀物の徴用の即時停止と自由市場の復活を求めて蜂起する。レーニンとトロツキー、ボリシェヴィキ中央委員会は速攻でトゥハチェフスキー率いる赤軍を送り込みこれを鎮圧した。
しかしレーニンはクロンシュタット兵士の反乱を重大な啓示ととらえ、その戦闘のさなか開かれた第10回党大会で新経済政策=NEP(ネップ)=NEW EXPLOITATION OF PROLETARIANS(プロレタリアの新たな搾取)を提案するのである。

レーニン自らが”国家資本主義”と規定したNEPは、穀物の徴用を廃止し食料税におきかえ、穀物の自由市場を開くことによって、農民が生産力を回復させ、かつ増大させることをもって、内戦で荒廃した都市と工業へ食料・原材料 を供給し復興させることをとおして農村に必要な工業製品の供給をおこない、農業の社会主義的改革をすすめる物質的基礎とするものだった。同時に、NEPは国内での外国資本の展開を認め、小規模商人や企業家に対する従来の措置を緩和するものとなった。

第10回党大会でNEPと抱き合わせるように党の分派の禁止を決定した。ボリシェヴィキは戦時共産主義のもとですべての反対政党を禁止していたが、この決定はそれを更に推し進めるものであった。帝国主義列強の干渉戦争と内戦下において、反対政党の反革命的蜂起や白色テロとの闘いの必然的帰結としての反対政党の禁止、非合法化は妥当なものであると思うものであるが、民主集中制を担保してきた自由な分派活動を禁じたのは、NEPにたいしてブハーリン、シリヤーブニコフ、コロンタイなどの党内左派の根強い反対が頑として存在していたからなのである。それは、広範な領土の喪失と賠償義務という犠牲をはらってでもブレスト・リトフスク講和条約の早期締結をなさねば革命ロシアがもたないと判断したレーニンに党内左派の反対が立ちはだかったのとおなじように。

内戦で疲弊し荒廃した国土と産業のなかにあって、NEPはたとへ党の民主主義を犠牲にしてでも実施せねばならない状況があった。レーニンは「勝ち取られた革命はいきのこらねばならない」ものとしてNEPを提起した。事は一刻の猶予もなかったのである。
遅れた農業国でありながら資本主義の帝国主義段階にあったロシアの特殊性は、革命の主体をプロレタリア労働者階級が担いきることができず、圧倒的多数の農民との同盟があってこそ革命を勝利へと導くことができた。だから、党は農民との盟約にかけて最大限の現実的譲歩を決断しなければならなかったのだ。

同時に戦時共産主義下での非常措置とそれにつづくNEPは、ロシア経済の急速な復興には成果をもたらしたが、それは同時にとても危険な政策だった。農村ではクラーク(富農)が、都市ではネップマン(個人企業家)が急成長し利益をあげ、党と官僚の機関は強権を振るえるようになっていた。
レーニンはそうした状況を憂慮しつつ、NEPはあくまでも革命ロシアが他国の革命と結合する世界革命の展望を堅持したうえでの一時的な避難措置であると考えていたし、彼の最も良き理解者であったトロツキーもまた、官僚機構が社会を支配する現状に警告を発し続けるのであった。それほどに、革命ロシアの民主主義は強力な官僚機構のもとに危機に瀕していたのである。

次回につづく・・・

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後編を楽しみにしております
歴史は叙述されました。
後編でどのような価値判断を下されるか、楽しみにしております。
土岐幸一 | URL | 2008/05/20/Tue 07:10[EDIT]
そういうNEPを
日本共産党は、「中国やベトナムで今すすめられている「市場経済を通じての社会主義」という道の源流だとのたまっておりますが、お笑いですね(笑)
ぶさよでぃっく | URL | 2008/05/26/Mon 00:35[EDIT]
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