たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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スターリン主義 スターリンとトロツキー
肩こり指数 ★☆☆

「同志スターリンは、書記長になってからは無限の権力を手中に集めた。私は、彼が常にその権力を充分な注意をもって行使できるかどうかについては確信がない。他方、同志トロツキーは、通信人民委員の問題をめぐる彼の中央委員会に対する闘争がすでに立証したように、傑出した能力によって群を抜いているだけではない。彼は個人としては、おそらく現在の中央委員会の中でもっとも有能な人であろう。しかし、彼は、あまりにも大きい自信を誇示し、仕事の純粋に行政的な側面に過度の関心を示してきた」。

これは前回紹介した「スターリンはあまりに粗暴である。・・・」と最後に付け足された遺書の前の下りである。レーニンはこれを書いた時点ではすくなくともスターリンはちょっとアブナイ人物であるが、それにならぶ指導者としてのトロツキーにも若干の問題ありとしたうえで、党内民主主義を尊重し、自分が党の後継問題を提起する立場ではないと考えていたと思われる。
しかし、スターリンによる同志クルプスカヤ(レーニンの配偶者)への侮辱事件とグルジア問題がレーニンをして遺書に「スターリンはあまりに粗暴である。・・・」という最後の下りを書き加えさせ、党と革命の明るい未来に向けて一縷の望みをトロツキーに託したのだった。

スターリンは策略に長け、狡猾な男だった。反トロツキーの一点で党幹部のカーメネフとジノヴィエフを抱き込み、トロイカ体制をもって党指導部と主要人事をおさえていった。
一方トロツキーはレーニンの病状の悪化にともない、その政治力を急速に失っていった。それは、赤軍の創設者であり、理論家でアジテーションもうまく、一般党員にひろく人気のあったトロツキーではあるが、かつてメンシェビキに身を置いた経歴があり、ボリシェビキでは新参者であった彼が、レーニンの圧倒的支持により党の重要ポストにあったことに古参の幹部党員のなかで不満を抱くものが少なからず存在していたこと。彼自身もまたタカビーな態度があったという事実、そして労働者の軍隊化と言われる労働組合論争もまたその不満に輪をかけた。スターリンはそんな不満をすくい上げ反トロツキーの一点で組織した。党を書記局を頂点とする官僚支配が浸透し、上意下達の官僚主義が横行しはじめていた。

そんなトロツキーをとりまく党内の圧力のなか、レーニンがスターリン打倒の最後のチャンスにしていた1923年4月17日第12回党大会はレーニン不在のまま開かれ、「理論家」にしてグルジア共産党を擁護してきた党幹部ブハーリンのスターリンへの屈服転向もあって、彼は沈黙を守るのであった。レーニンの病状の悪化とトロツキーの妥協と沈黙にスターリンは 全国いたるところで全党的な解任、配置換え人事をおこないイエスマン一色へと塗り替えていった。

この年の夏から秋にかけて深刻な経済危機が起こる。鋏状価格危機(シェーレ危機)は農産物の価格を急落させ、工業製品の価格をつりあげ、農民の不満は募り、労働者の賃金の未払い、失業者を増大させることとなった。この危機に相対するように、トロツキーの最後の砦ともいえる革命軍事会議にスターリン人事の手が及にいたってトロツキーはスターリンの並々ならぬ政治的意図を見て取り、それに激しく反対の意を明らかにし遅ればせながらの反撃を決意したのだった。

トロツキーの反撃は10月8日、経済政策と書記局官僚主義を批判した一通の書簡から始まった。これを引き金に46名の著名なボリシェヴィキが党指導部にたいして「46人書簡」という共同声明をもって、1921年3月の第10回党大会緊急決議は必要以上に生き延びすぎたとして、党内民主主義をもとめ叛旗をひるがえしたのである。ここにトロイカに対抗する左翼反対派が形成されるのであるが、おりしもトロツキーは体調を崩し左翼反対派を十分に導くことができなかった。

トロイカはこの事態を最初は注意深く扱ったが、それはすぐに反撃へと変わった。「トロツキー主義」という言葉が生まれ、トロツキー個人への辛辣なる愚弄をもって左翼反対派への攻撃がはじまり、左翼反対派を支持を表明する青年共産同盟の中央委員会は速攻で粛正され、徹底した罵倒キャンペーンが展開された。そんなさなか年が改まった1924年1月21日、病床にあったレーニンがこの世を去った。療養のためクレムリンをはなれていたトロツキーはスターリンからレーニン死去の報をうけるも葬儀の日取りを欺かれ葬儀に参列することも叶わなかったのである。ここで党内闘争の第一ラウンドは終わり、レーニン亡き後、スターリンの歯止めなき猛攻をめぐり悲劇の第二ラウンドが始まるのであった。


ヨシフ・スターリン 悪党!!
Stalin1.jpg


次回、「一国社会主義」論につづく


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| | 2008/06/14/Sat 10:43[EDIT]
結局、所有権の根拠が認識できていなかったことが致命傷なのでは?
 国家は誰のものか?自治体は誰のものか?諸企業は誰のものか?これが経済的基礎だと思います。それをイデオロギーを優先して政治先行にしたことが失敗の始まりだったんじゃないか、と。国家は誰のものか?人民みんなのものである。自治体は誰のものか?人民みんなのものである。ゆえに、人民みんなに決定権があるし、所有権がある。にもかかわらず、一部の官僚が人民から決定権を取り上げ、その決定権を行使した。これが官僚主義、独裁であり、経済的基礎を無視した非科学的な立場である。諸企業は誰のものか?そこで勤労する人々のものである。にもかかわらず、国家官僚が企業を国有化し、企業の所有権、決定権を奪った。要するに、ロシア革命、ソ連社会主義の最悪の誤りは、国家は誰のものか?自治体は誰のものか?諸企業は誰のものか?という経済的な基礎を無視した官僚主義にあったのでしょう。民主主義とは決定権の所在がどこにあるか?の問題でなのでしょう。経済民主主義、政治民主主義。決定権の所在がどこにあるか?この1点が教訓だと思います。政党の民主主義でも同じ。決定権がどこにあるか?党員みんなに決定権があるか?それとも、一部の官僚に決定権が集中しているか?
東西南北 | URL | 2008/06/14/Sat 20:48[EDIT]
いらっしゃいませ鍵コメさま
そうなんです、ロシア革命史をお~ざっぱにさらっております。はっきり言ってちょっとけったるい思いもあって結論を急ぎたいのですが、ソビエトの崩壊=マルクス主義、レーニン主義の必然的帰結ととらえておられる方は多くおられることに疑念の余地はないと思われます。であるならば、ソビエトを崩壊の軌道に乗せた歴史的出来事を必要最低限は明らかにする必要はありと思い綴るものでございます。

そうしたうえで、一国社会主義建設路線と世界革命路線の対立という客観的条件としての路線問題と、その対立をになった双方の主体の問題に論及できたらと思っておりました。
しかしながら、昨今のすったもんだに筆が進まないというのが正直なところなのでございます。いただきましたコメントにははっきり申しまして、首が縦にしか動かない状態でありまして、「あ!先に言われてしまっては、書くことがないじゃん」というところです。

私は、あのロシアの地で1917年以降発生した激烈な党内の政治過程がいまふたたび進行しているのだと感じています。そんな客観主義的な態度はナンセンスなれど、そうでなければ見えないものもあるかと。それはそこに身を置いていたものであればこそ、そう思うものなのでございます。どうすることもできない辛さもまたございますが・・・ そのなかにこそ次のステップへと進む鍵がきっとあると思うものであります。

コメントいただきありがとうございました
薩摩長州 | URL | 2008/06/15/Sun 20:38[EDIT]
いらっしゃい東西氏
短気だな~東西氏は、いきなりもう結論にいってるではないか。

さて、ロシアがどれほど遅れた農業国だったかっていうとおおよそロシア革命の10年まえの時点で住民の80%が農民で、外国資本の導入に始まるロシアの工業化は1860年の農奴制廃止後に急速に発展するのだがそれでも労働者の数は総人口の15%程度しかなかった。それも外国資本によるものと、零細小資本家によるだった。農民の多くは地主のもとで働く極貧小作農、革命直後の時点で住民の70%以上が文盲であったということだ。

つまり、資本主義が未発達だったロシアでは労働者が主体で革命を担いきれる状況ではなく、たった15%程度にすぎない労働者は地主の抑圧・収奪に苦しむ80%を占める農民と同盟することをもってはじめてそれをなしえたのだ。
農民の希望はなんだったか? それは一言で言えば、俺たちから厄介な地主を除けてくれということだっただろう。レーニンはそれに応えた。

だが先に書いたように、革命後の資本家、地主、ツアーの置き土産将軍は激しく抵抗した内戦の始まりである。レーニンは農民に食料を前貸しして欲しいと頭を下げた。農民の多くがその願いに応じたのは、あの地主が舞い戻ってくることが心よりノーサンキュだったからなのだ。そして、もうぎりぎりの限界まで辛抱したのだが、こらえきれずに弾けてしまい、レーニンは農民の要求をうけいれた。それがNEPだったのだ。

NEPは強力な国家統制を担保として、資本主義を導入し、人の欲に訴えて生産力の発展を求めたものだ。そこで「決定権」はすべてといっていいほどに生産の主体に戻され、自由市場が復活した。それは記事「スターリン主義  NEP 」で書いたとおりだ。

冒頭に当時のロシアの状況を書いたが、ロシアに民主主義なんてなかったのだ。それは、明治維新以降、敗戦まで日本でいまのような民主主義がなかったのと同じように。いやそれよりひどかったにちがいない。民衆が力で勝ち取った民主主義のないところで国も自治体もたんなる抑圧の機関でしかない。よくして、若干の調停をなすものにすぎない。

そして、革命ロシアが勝ち取られ、社会主義秩序をうち立てると宣言したのち、レーニンたちは知った。ツアーの置き土産である官僚がいないと国がたちいかないという悲しい現実に。ボリシェビキ党は革命党ではあったが、すなわちイコール国家運営の実務集団ではなかったのだ。そこで、レーニンは官僚にたいし監視機関と国家権力をもって統制をかけることで官僚機構をコントロールしようとした。

そして、レーニンはなによりも文盲70%オーバーという現状にたいし、大衆の自己統率の基礎となるべき教育の必要性を徹底的に強調した。それがないところでは大衆の文化の向上とそれに伴う政治意識の発展もなく、大衆自らが政治の主体的担い手となってゆくことなしには、官僚主義の弊害は克服することができなと考えていたからなのだ。

それら一切の社会主義国家建設の試みを徹底的に破壊し尽くし、革命的同志を虐殺し尽くしたのが10月革命の不当な相続人であるスターリンとそれに続くスターリニストだ。革命は裏切られたのだ。彼らは官僚主義を克服するのではなく、特権と自己保身から積極的にそれと融合する道を選んだのだ。

恐らく、東西氏はソビエト崩壊から先だつこと20年くらい前の、破産しまくりの国家統制による「計画経済」の有様と、その破産をねじ伏せるイデオロギーの嵐と弾圧の重圧が猛威をふるったブルジネフ時代あたりのところを思い描いているのだろうと思うのだが、そのコアを形成した出来事を明らかにするために今少し言葉足らないのは承知の上で歴史をたどらねばならないということをご理解いただき、ひきつづきおつきあいねがいたいと思う。よろしく。

追伸 某所で東西氏のタフな討論姿勢にはほとほと感服するが、ほどほどにね。なお、TAMO2さまは味方じゃないけど、敵にあらず。それは私も同じスタンスだが。
言論に責任をもって止まないとうそぶくベーダー卿にはれいの「機関銃で後ろから・・・」でもTBしてあげなさい。こういう人物だとね。そして、相手にしないこと。
薩摩長州 | URL | 2008/06/15/Sun 23:16[EDIT]
アドバイスサンキューです。
 ベーダーさんは、困ったチャンです。本当にイチャモンベーダーですね。薩摩長州さんの言うとおりです。ごくまれに提案をしたと思ったら「機銃掃射」「憲法9条改悪試案」の発表ですからね。まったく薄暗い謀略家ですね。なんとか更正させたいので、理論闘争しているのですが。笑。臆病者のベーダーさんは、おとぼけ全開で不誠実です。ま、国民全員と対話、理論闘争するんですが、結局は、過半数の人間の力を安定的に労働運動、政治運動、議会勢力に確保すればいいわけです。

 レーニンは自主管理企業なんて唱えたんですかね?さらに、国民主権の徹底、住民主権の徹底などはどうだったんでしょうか?民族自決権の徹底は提唱したようです。レーニンは資本主義の根本矛盾をどう認識していたのでしょうか?東西からすれば労働時間8時間制度、社会保障で利潤第一主義是正は、修正資本主義であり、資本主義の根本矛盾を解決することではないと思います。だから、レーニンの革命は、修正資本主義改革だったんじゃないでしょうか?修正資本主義改革ならば、官僚主義でも可能です。民主主義の徹底ではないですからね。レーニンの革命の実態は修正資本主義を官僚主導で上から実現した。革命の方法は軍事力を手段とする暴力革命であった。こうじゃないですかね?
東西南北 | URL | 2008/06/16/Mon 18:24[EDIT]
補足です。
 つまりですね。レーニンは生産手段の社会化という場合に、民主主義の徹底ということを中心に据えないで、むしろ、分配論を共産主義の中心に据えたから官僚主義に堕落していったのではないか?という疑問です。共産主義とは何か?と自問し、労働に応じて受け取るのが共産主義の低い段階、必要に応じて受け取るのが共産主義の高い段階であり、共産主義を成功させるには生産力を伸ばせばいいんだ、というような誤った理論、思想があったのではないでしょうか?分配論、生産力の高度化、官僚主義が結合した形で生産手段の社会化を認識していたのではないか?これが決定的な誤りであった。生産手段の社会化は民主主義と自由の徹底にあり、分配論とは全く別の問題である。つまり、共産主義とは労働に応じて受け取る、必要に応じて受け取るという点に基準がないのであり、生産手段の社会化において民主主義と自由を徹底していく点にこそ、そのコアがあるのである。これを認識できなかったのは資本主義の根本矛盾についての認識が誤っていたということではないか?資本主義の根本矛盾とは生産の無政府性、恐慌などではないのである。これは現象に過ぎない。資本主義の根本矛盾は、その企業は誰のものか?その農地は誰のものか?その自治体は誰のものか?その国は誰のものか?という問題である。
東西南北 | URL | 2008/06/16/Mon 23:49[EDIT]
度々の鍵コメです
スターリン主義のキーワードは、“自己に内在する”ということだと考えております。
つまりスターリン主義を一国社会主義建設可能論ー世界革命の放棄と、いくら理論的に批判しても、それによって自らがスターリン主義から無縁であることにはならないと考えています。

ついでに書けば、そういう理論的な押さえ方から、スターリン主義発生の必然性など、解けるわけがないとも考えております。
一国社会主義建設可能論Vs世界革命論の対立を、暴力的な抑圧、支配をもって押さえつけ、やがてその手法が人民支配にも適応されて行くことが、必然性なる概念で括ることなど出来ません。
スターリン主義発生は、もっと現実的具体的に対自化されることによってしか、明らかにできないと思います。

何故ならば問題は、前衛党を自称する部分の、現実の政治過程にあるからです。
その政治過程とは、党内における民主主義が実現されているか、党外の民衆に対して説得と合意により政治展開がなされているのか、ということを指します。

反スタを語りながら、スタと同じ党運営、人民に対する暴力による支配がなされるならば、一体何のためのスターリン主義批判なのかということです。

問題はスターリン主義の理論的批判の緻密化などにあるのではなく、現実の党内外における政治展開を自らが実践できるか否かにあると、私は考えております。
それは絶対に出来ないとかは考えられませんが、レーニン的な「なになす」「一歩二歩」では困難だと。
レーニン的組織建設論は、諸刃の刃です。一歩間違えば、即スターリン主義的組織建設→人民支配へと転落します。

長くなるので、もう結論を書きますが、そうであるならばブルジョア民主主義の方が、より弊害が少ないということです。
なお誤解のないよう一言だけ。ブルジョア民主主義のリスク、限界は、承知の上でということを、書き加えておきます。

では、では。

鍵コメ | URL | 2008/06/18/Wed 09:03[EDIT]
鍵コメさまお返事遅くなりまして申し訳ございません。
鍵コメさまこんばんわ。お返事遅くなりまして申し訳ございません。

たいへん奥の深いご意見をたまわりありがとうございます。昔話ではなくそうした過程を目の当たりにしてこられた方の言葉はたいへん重いとうけとめております。

十数年もまえの話でしたら、私は頑として聞く耳をもたなかったであろうことでありますが、昨今某所でおこっているできごとに鑑みて深く考えさせられるものであります。
私が離脱したのちのできごとをつぶさに調べ知るに凄まじい過程があったことを知るばかりでございます。

私が○学童になってまもないころ、「勝利にむかっての試練」で学習会がおこなわれておりました。そこではじめて「反スタ」の基本認識を得たわけでありますが、チューターであった古参のISTも鍵コメさまのご意見とたいへんによく似たことを言っておられたのをかすかに覚えております。「もしNCがスターリニズムへと変質をとげたらどうするのですか?」と言う私の問いに、ISTはあっさりと「分派して本多ニズムを打倒する」と答えました。

さて、私は危険な賭であってもレーニン的組織建設論以外で帝国主義を打倒しうる方策がないのであれば、あっさりと産廃ボックスへ投げ捨てることに躊躇するものであります。もしよりよい道が見いだせるのであればその限りではありませんが。ともあれ、それはブルジョア民主主義のなれの果てを重く受け止めてのことでございます(もちろんわかっておられるとしたうえで)。

釈迦に説法の無礼は重々承知しての拙い言挙げでございます。寛い心でお許し下さいませ。教育が普及し、交通形態がこれほど飛躍的に世界を近づけた現代において、まるで木炭車のような革命ロシアとは断絶的な、なにかそれに取って代わる方策があっても不思議ではないとは思いますが。
コメントありがとうございました。
薩摩長州 | URL | 2008/06/28/Sat 23:03[EDIT]
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