たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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明るい明日のための明治維新考 その1
肩こり指数 ★★☆

この記事は本来某冥王星氏との真摯な討論であるからにして、多少長くなっても氏の発言を引用すること無しに公平性を保証することは難しいと考えたので、符合する部分をすべて引用させていただくこととした。なお文中のself様は当時の冥王星氏のHNである。なおくわえて、これはあくまでも記事にたいするコメントであるからして、歴史的時間軸にそって概要を述べたに過ぎずあまりクオリティーのたかいものではないことをご承知おき願いたい。


冥王星氏の発言

「急進的な改革の必要性の問題」
まず、日本の近代化の必要性は否定しえないでしょう。しかし、多くの血を流して、旧体制を一揆に崩壊させて改革するほどのスピードと必要性があるということは明治維新では一度でも語れることはありません。前述したとおり、明治元勲は当初から幕府よりもその能力と先見性の無さを露呈しており、世界情勢の知識も坂本竜馬などの一部を除けば幕府より優れていたということは言い切れません。当時、それこそ先見性を見出せる人がいるならば、大阪の適塾の門下生達であるでしょう。その門下の人間が倒幕を意識していたというのは事実にもありません。
そもそも、幕末当初の世界情勢において、すぐにでも日本に直接的に行動を取れる欧米諸国があったという分析がまず、極めて情勢理解の問題があります。まず、地理的要因として、日本への侵攻という行動は遠く地理的な時間の猶予があります。総じて、1年は掛かる準備がありますし、植民地戦争の真っ最中の英仏、ロシアもクリミア戦争の前後、アメリカは南北戦争、どこの国家が日本へ本格的侵攻するだけの余力があるというのだろうか?反論で薩英戦争などの事例を出す人がいるが、薩英戦争の経緯において薩摩が攻撃されるだけの不当行為があったことは生麦事件の経緯を踏まえて、当然であり、そもそも薩英戦争の被害は死傷者だけならば、英国側の方が多いのである。薩摩側の死傷者は9人で英国側の死傷者は63人である、(これらの数は正式な統計ではないが、両方の資料に大差はない数字である。)
確かに近代兵器の大きな戦力差は否定しえないものがあるだろう。しかし、防衛側の戦力的差異は、薩摩、長州、幕府が同盟して、対抗すれば、そうそう負けるとは言えないと思う。フランス式の最新式銃の採用や長岡藩のガトリング砲、アームストロング砲などは当時の近代兵器であり、その運用の巧緻さは蘭学者でも一定の水準をもっていたことも推測できる。このような事情からしても、急進的に改革を行う必要性はあるとは言い切れないし、むしろ、公武合体などの方策で平和裏に近代化が図れた可能性は多い。(実際に、近代海軍の基礎は榎本によるものであるし、大村なしには近代軍編などもできたはずもない。大村を一番最初に見初めたのが、宇和島の伊達宗城であり、彼は幕末の四賢候として勇名な人で幕府寄りであるわけで、ここらにも幕府の審美眼は腐っていないとも分析可能である)

薩摩長州の発言
<急進的な改革の必要性の問題>

日本の近代化は大急ぎで達成せねばならなかったと思います。
それは欧米列強との比較において国力に大きなひらきがあると思うからです。たとえば産業革命はイギリスでは1760年ジェニー紡績機と水力紡績機の発明をかわきりにはじまりました。フランスでは1810年、ドイツでは1834年、アメリカでは1820年、ロシアでは1861年にそれぞれ始まっています。そのうちロシアはちょっと特殊なのではずしますが、いちばん遅いドイツとくらべても、討幕派が権力の奪取を宣言した王政復古の大号令(1868年1月3日)を起点にみると29年の遅れです。

しかも日本ではまだ始まるための準備すらできていない状態ですから。準備とは具体的に言えば、全国的なインフラを整備せねばなりません。とりわけエネルギーの確保と、物流と情報の伝達をささえる道路と橋梁、鉄道を整備せねばなりません。そのうえで近代産業をおこしながら、列強ともわたりあえる常備軍をつくってゆかなければなりません。資本主義の前提である資本家も労働者もなく、全国的なネットワークもない状態から社会制度の整備もふくめて、 これら資本の本源的蓄積を 大急ぎで達成しなくてはないけません。
しかも列強の外圧に耐えながら、不平等な条約を頼りに彼らの技術を導入せねば達成はむずかしく、くわえて旧封建勢力の反撃を制圧しなければならない。その戦費や華士族への家禄支給が財政を大きく圧迫していました。
すなわち、勝先生のところでふれましたが、対外交的な理由から決戦的な内戦をさけたことによる負の遺産、これらをかかえての国つくりの始まりであったといえます。

さて、明治政府がおこなったさまざまな改革が資本主義樹立の土台として定着し、天皇制も機構的にも確立するのは1890から1900年代にかけて(大日本帝国憲法の発布から帝国議会がひらかれるまでのあいだ)で、この時期を明治維新の終了とする見解は、旧封建勢力が完全に制圧された西南戦争をもって終わるという見解とともに、学会では有力な説とされています。
ということは、ここでふたたび大政復古の大号令(1868年1月3日)を起点に、大日本帝国憲法発布(1889年2月11日)を終点とすると20年の歳月がかかっているのです。その5年後の1894年日本は日清戦争に突入します。それを梃子にイギリスとのあいだに締結された不平等条約を改正するにいたり悲願達成となります。

また世界的レベルでみた場合1900年代初頭から資本主義は自由主義段階から帝国主義段階へと移行します。膨張しつづける生産力とすでに分割が完了した植民地、売り場のない商品、投資先のない資本が経済発展を停滞させ、政治的危機を生み出します。全世界的規模で侵略によって国境線をひき直すことによってこの矛盾を解消するシステムの時代に突入したのです。つまり世界大戦の時代に突入したのです。

そこから近代日本の建設に要した20年が長いか短いかの評価は別として、まさに絶妙なタイミングで日本は植民地化の危機を回避したといえるのではないでしょうか。事の評価は別として。ただすくなくともself様の地政学的見地から割り出されたセキュリティーマージンはそのスパンがあまりにタイトなのではないかと考えた次第です。


明るい希望の明日につづく(笑)

Comment

 秘密にする

 こんばんは。東西は博物学には興味はありませんが、読んでみましたが、薩長さんのいう明治維新の必要性の方が説得力があります。文部省検定教科書の説明もだいたい薩長さんの説明の方を採用してる感じがします(笑)

 つまり、日本政府が列強諸国から帝国主義の圧力を受けて、植民地支配の危機感から明治維新を急速に進める必要性があったという説明です。外圧が鎖国政策を止めさせて、開国政策へ向かい、ひいては日本政府に帝国主義の危機感を感じさせ、明治維新の必要性が出てきた、ということですね。問題は、日本政府が帝国主義の植民地支配を退ける手段として様々な制度が導入されていき、資本主義の本源的な蓄積が進んでいく中で労働者、農民がどのように搾取され、収奪され、支配されたか。また、どのような抵抗運動を進めていたかです。

 ともあれ、明治維新に至るまでにも日本の農民や町民は日本政府・幕府に対いして抵抗運動を示していたんじゃないでしょうか?日本政府・幕府に対する、そのような民衆の不満を背景に下級武士が倒幕運動を盛り上げていったということはないでしょうか?つまり、自由民権運動から労働運動、小作争議、社会主義運動へ繋がっていくような明治維新のブルジョア民主主義革命の萌芽的側面です。
東西南北 | URL | 2007/10/30/Tue 22:52[EDIT]
こんばんわ、東西氏
いらっしゃいませ。
ご指摘の点は、続きでふれてますのでちょっとまってくださいましな。

毎度まって、まって、ですみませんが、この話の続きはすでに過去にできてますんで
ちゃんとアップします。一カ所イギリスでの資本の本源的蓄積の記述に誤りがあるのでそこを直しておかないといけないのですけどね。
薩摩長州 | URL | 2007/10/30/Tue 23:48[EDIT]
ナナシ
庶民にとっては、植民地化していた方が良かったかもしれませんよ。
| URL | 2007/10/31/Wed 08:03[EDIT]
いらっしゃいませ 奈梨さん
>日本は植民地化の危機を回避したといえるのではないでしょうか。事の評価は別として。

この一文に秘めた思いというのは、

>庶民にとっては、植民地化していた方が良かったかもしれませんよ。

ということなのですうう。 それはなぜかというと、つづきのなかでちゃんと説明されます。
薩摩長州 | URL | 2007/10/31/Wed 08:17[EDIT]
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