たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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続き物「暴力の復権のために」
肩こり指数★★★★

ひさしぶりに、著作選より「暴力の復権のために」をまた小出しですが、あげさせていただきます。2007/12/16にあげたものの続きです。
先月の6月14日、大阪西成署による不当逮捕と暴行にたいしておこなわれた抗議闘争への断固たる支持と、法政大学当局による度重なる不当逮捕を弾劾する思いにかえて捧げます。おくればせながらですが・・・



現代社会の基底をなす、近代市民社会と、その上部構造としての政治的国家は、このような国家と法の関係を完成させたものといってよいのである。周知のように近代ブルジョア社会は、封建制社会の政治的解体、いいかえるならば、諸個人を身分的秩序から政治的に解放することをとおして実現したものであるが、それは、共同体の幻想的形態としての国家を完成した姿において形成させたのである。

すなわち、ここにあっては、諸個人は宗教、私有財産の相違にもかかわらず、法規的、身分的に隷属する従来の支配、被支配の構造にくらべ決定的な変化をしめしたのであった。だが、マルクスが「ユダヤ人問題について」のなかで皮肉まじりに批判しているように、近代革命は、精神的市民=国家公民という側面においてのみ人間を宗教、私有財産から解放したのであって、現実に生活している物質的市民という側面においてはいささかも宗教、私有財産から解放したわけではなく、それどころか、諸個人を商品=貨幣の物神的支配力のまえにわかちがたく結びつけてしまったのであった。

マルクス経済学の理解するところによれば、近代市民社会の物質的基礎過程をなす資本家的商品経済は、直接的生産者と客体的自然条件(土地と生産手段)の分離を前提に、労働力の商品化の矛盾の展開をとおして社会的総労働の比例的分配という経済原則を実現していくところに、その特殊歴史的な性格があるのである。いいかえるならば、資本制社会における支配階級による被支配階級への支配と搾取は、奴隷制社会や封建制社会のそれのように直接的な形態をとらず、蓄積された過去の労働としての資本家的私有財産(資本)による、生きた労働(その源泉としての労働力なる商品)の支配、という商品形態をもって媒介的におこなわれるのであり、資本家と労働者の敵対的な階級関係は、資本家の貨幣と労働者のうちなる労働力商品の自由平等な等価の交換という外見をとっておこなわれるのである。

したがってまた、政治的国家は、被支配階級としての労働者階級=人民大衆にたいして直接的な支配力として現象せずに、外敵ならびに内的=法秩序破壊者による私有財産制度の侵略から国民総体を防衛するという法的仮象を媒介として、資本家と労働者の敵対的な階級関係の資本家的再生産を維持する強制力として機能するのである。まさに、法的規範のもとにあっては、労働者の所有する生活手段としてのテレビや洗濯機も、資本家の所有する価値増殖の手段(資本)としての工場や機械も、私有財産として等しき意義をもつものなのであるが、市民社会の上部構造としての政治的国家は、国民の生命財産の安全を保障するという機能を基礎として、国家という虚偽の共同性を精神的に構築することをとおして、そのもとに労働者人民の現実的利害を抽象的に統一し、また、国家という虚偽の共同性にむかって労働者人民を精神的=政治的に組織することをとおして、労働者人民の現実的利害からますますはなれ、それと非和解的に対立する暴力をつくりだし、資本制的な搾取と抑圧を維持する機構として自己を完成していくのである。

なお、近代ブルジョア社会にあっては、暴力は、政治と軍事という分離した両側面をとおして現象するのであり、前者は内冶として、後者は外敵への対抗手段として機能的に分化しているのである。しかも、このような暴力の分極化は、政治、過程的には、独裁(本質)と政府(現象)との分離、政治的党派(実体)間の政争とおしてのその担い手の確定という経過と手続をとり、官僚・警察・軍隊など国家の諸実体をなす機構は、外見的には政治的党派間の政争には関与せず、その勝利者の意向のままに機能するかのような役割をはたすものとして現象するのである。

そのため、政党は非暴力的過程を、警察・軍隊は軍事的=暴力過程を担当する仮象が生じ、政治は、政府担当者を決定するための政治的党派間政争の自由な選択のうちに実現され、軍事(その実体的諸機関としての警察・軍隊)はその政治過程の外的条件を防衛するものとして問題化するかのように錯覚するのである。もちろんブルジョア政治の内在的論理としては、このような錯覚は、現実を反映したものであり、なんの不都合もないのであるが、しかし、階級支配という視点からこれを検討するならば、警察・軍隊の汎政党的な仮象は、政党と国家との階級的一致を前提としてはじめて成立するのであり、場合によっては、こうした階級的一致のうえでも支配階級の政治意志の分裂を基礎として暴力的衝突がおこることすらあるのである。

ともあれ、暴力の政治と軍事のブルジョア的分離とそれへの改良主義的幻想は、ブルジョア支配の危機の表現としての内乱においては、崩壊せざるをえなのであるが、プロレタリア政治は、この究極的事実から現実の過程にむかうのである。

したがって、労働者階級が、賃労働者としての自己を解放し、人間の全人類的生活の回復をかちとっていくためには、生産手段の資本家的所有=労働力の商品化という資本主義の基本矛盾を解決し、生産と分配にかんする目的意識的な交通形態を建設し、その基礎のうえに人間性の全面的な開花をかちとっていくことが必要なのであることはいうまでもないのであるが、そのためには、まずもってプロレタリアートが資本家との闘争をとおして自己の喪失した暴力性をとりかえし、共同体の幻想的形態としての政治的国家を粉砕し、プロレタリアートの暴力を国家として完成させねばならないのである。

考えてみると奴隷制社会や封建制社会にあっては、対立的に表現された共同性としての暴力は、奴隷や農奴にたいする支配階級の武装として直接的に実現されたのであったが、資本制社会にあっては、プロレタリアート人民の国家=法規範を媒介とした精神的疎外を基礎として国家の武装は保障されているのであり、まさにこの点にブルジョア国家の強みも弱みも秘められているのである。それゆえ、プロレタリアートは資本家と労働者の敵対的な階級関係を転覆し、その矛盾を解決していくためには、ただたんにストライキ・工場占拠として自己の暴力性を部分的に示すだけでゃなく、それをもふくめて暴力性の全面的な発展をかちとっていくために、自己の疎外された労働の産物であり、また、自己に敵対する外的運命力として現象する現代文明とその法秩序にたいする物神崇拝を根底的にぶちこわしてしまう必要があるのである。それは、現代世界とその社会構造のもとにあっては修正されるどころかいっそう真理となるのである。

(本多延嘉著作選第二巻「暴力の復権のために」より引用)




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