たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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ナポレオン
肩こり指数★★☆

近代戦の性格について

「我々はここで近代戦の性格を考察せねばならない、この性格がいかなるものであるかを明らかにすることは、戦争における一切の企図、取りわけ戦略的企図に大きな影響をあたえるからである。

旧時の戦争における常套手段は、ナポレオンの幸運と勇敢な行動とによって葬り去られ、ヨーロッパ第一流の諸国家にしてからが、彼の一撃のもとに破壊されたのである。またスペイン国民は、なるほど個々の軍事的行動においては幾多の弱点と手ぬかりとを免れ得ないかったにせよ、しかしその執拗な闘争において国民総武装と侵略者にたいする叛乱と言う手段とを用いれば、全体として絶大な能力を発揮しうることを実証した。

―略―

また第二は、被侵略国はたとえ会戦に敗れ、主要都市や地方の州県を失ったとしても、それと共に勝算をも失うものではない、(以前は、これらの物を失えば万事休すというのが、外交官にとって否定し難い原則であった。それだからかかる場合には、差し当たって不利な講和にも直ちに応じたのである)、もし敵の攻撃力が既に用い尽くされていれば、それまでに自国内で圧迫されていた軍は俄に勢いを盛り返し、絶大な力を揮って守勢から攻勢に移転しうる、ということである。

更にまた一八一三年にプロイセンは、危急にに際して国の総力を結集すれば、民兵によって軍の常時の兵力を六倍にも増大し得るし、そのうえこれらの民兵は国内のみならず国外の戦闘においても使用され得ることを証示した。すべてこれらの事例は国家の諸力、戦争遂行に必要な諸力および戦闘力を担うものは、実に国民の勇気と志操とにほかならぬことを余蘊(不足)なく示しているのである。そして諸国の政府にして、これらの方策がいかなるものであるかをすでに心得ているとすれば、国家の安危が脅かされるにせよ、あるいは強烈な名誉心に促されるにせよ、戦争においてかかる方策を使用せずにおくはずはない。」

(クラウゼヴィッツ「戦争論」より)

私は勉強嫌いのお気楽者で、嗚呼あこがれのドイツ、BMW、ライカ、モンブラン等々のすばらしい工業製品に象徴される合理性と知性に痺れてしまうのであるが、そんなドイツの知性は?と問われたら、一にマルクスの「資本論」、二に今回長々と引用したクラウゼヴィッツの「戦争論」をあげるだろう。他にも、ヘーゲルとかアインシュタインの名をあげる人もおられるかも知れないが、それは人それぞれの好みということでお許し願いたい。お気楽者の私にはそのどちらも全く理解が及ばずはなはだ宗教のごときものなのだ。

さて、枕はこれまでにして、なんで、こんな難解な引用を引いてきたかというと。
戦争は軍だけがするものであって、庶民には直接的には戦闘には関係ないと思っておられる方がおられるのでは、と言う思いからつらつらと書き始めたものなのである。
わけても、防衛大臣イッシーバーが、「ハイテク兵器を扱う現代の戦争に、庶民は足手まとい 」なる言説を吐き、徴兵制は無いから安心よ!というようなニュアンスを漂わせていることは実に不快極まりない思いである。

まあ、もっとも、いきなり防衛大臣が「徴兵制いきまっす!」なんて発言したら、年金問題どころのインパクトではなく、内閣が吹っ飛んでもおかしくないくらいの衝撃波が国会議事堂を貫き大炎上となろうことから、最後の最後の切り札として腹の奥底にしまってあるに違いないと思うが。

この冒頭の一文を書いたクラウゼヴィッツ大先生はその昔、今のドイツ、プロイセンで軍の参謀をしていたとき、ナポレオンの率いる軍に足腰立たないくらいボロ負けを喫し、「負け~て悔しい♪花いちもんめ~♪」の思いと祖国プロイセンの復興の一念で、ナポレオンの切り開いた近代戦争の地平を冷徹なる眼差しと、燃えるような熱い情熱をもって徹底的に、研究し尽くした人なのである。

そもそも大先生によれば、戦争というのは、有名な言葉であるが、「戦争は他の手段をもってする政治の継続」であり、政治という話し合いで決着がつかないので拳が飛び交うようなものであるが、拳の後ろにはいつでも政治的思惑が宿っているのである。それゆえに、「政治は目的をきめ、戦争はこれを達成する」ための手段であるといえる。そんな、戦争とは「敵の意志を屈服させることを目的とする武力行使である」といえる。と同時に「流血を厭うことなく武力を行使するものは必ず勝つ」「流血を厭う者は、それを厭わぬ者によって必ず征服される」という相互作用をもった呵責無き殲滅戦であると言い切ったのである。
この言葉は、ナポレオン以前の諸国間の戦争が、中世の騎士道の呪縛から自由でなく、戦争本来の本性に掛けられた軛をナポレオンは解き放ち、戦争がもつ無制限無制約のエネルギーを発揮せしめたのである。

そして、本題であるが、大先生によれば、ナポレオンは、いままで、常備軍同士の戦闘で蚊帳のそとにあった国民を、戦争に動員することがとてつもない力となることを発見したというのである。いわゆる国民戦争とよばれるものである。そんな、ナポレオンがスペインの侵略に際しては、スペイン国民という素人による総武装闘争である、ゲリラ戦にさんざん苦しめられたあげく一斉武装蜂起によって撤退を余儀なくされたという事実は、ナポレオンがオーストリアとの戦争に忙殺され、のちのモスクワ遠征の失敗が遠因にあったにせよ、国民の武装がもつ力を知っていた彼が、その力を過小評価していたことが何とも皮肉である。

さて、クラウゼヴィッツ大先生は、国民を戦争にかりだすことの圧倒的優位性をナポレオンにみてとったわけであるが、そのためには何が必要かということを考えた。そして、
「国家の諸力、戦争遂行に必要な諸力および戦闘力を担うものは、実に国民の勇気と志操とにほかならぬ」といったのである。早い話が、国民の「やる気」が大事だと言うことである。

今日的なところへ視点をうつしてみれば、政治的目的がさほど大きくない地域紛争レベルであれば、常備軍で事足りるかも知れない。だが、国家対国家、或いは国家群対国家群のような国家の存亡をかけた国益という大きな政治目的が貫徹されるなら、いかにハイテク兵器があろうと、敵戦闘力を無力化し、抵抗の意志をなきものにするには、莫大な地上制圧部隊が必要であり、それは、戦争における彼我の相互作用にも規定され、国民皆兵で戦争に臨む国には、常備軍だけでは決して勝つことはできず、国民皆兵で戦争に臨まねばならないのである。それは、勇ましくフセイン率いるイラク軍を一蹴した「有志連合」がいまなお、民衆の武装闘争によるレジスタンスに苦しめられていることに、常勝ナポレオンのスペイン侵略を重ね合わせることができる。死をも恐れず闘うイラク人民に「市民権」をちらつかせて貧乏人を前線におくっているアメリカに勝ちはない。

ところで、我が神の国ニッポンであるが、いままで書いてきた雑文など、防衛省のお偉いさんは熟知している。当然クラウゼヴィッツなど、我々庶民にははなはだ難解で生涯通じて、読む人はごくごく少数だろう。だが、彼ら戦争のプロにとっては絵本がごときシロモノである。「9条改憲はあっても徴兵制はない」などと武装解除してはならない!
「9条改憲は徴兵制への突破口である」。大先生が言うように、国民がやる気満々にならなくては徴兵制は登場しえない。だからこその、”日の丸君が代”であり、”愛国教育”なのだ。そして、そんな国民のやる気に水をさす者を一掃するための、反戦ビラ配りの”逮捕”であり”共謀罪”なのである。

9条改憲がなれば、庶民の人権を擁護する諸規定がタイトなものになるのにそう時間はいらないだろう。「公共の福祉」にとってかわり「国のために」我慢しましょう、ということになるだろ。それでは、戦前と同じジャン。


戦争をルール無用の「仁義なき戦い」にしたのはこの人
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このおっさんがクラウゼヴィッツ大先生 顔がデカイ 目が暗い でも天才!
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9条を変えても徴兵制にはならないよ。
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向...  [続きを読む]
お玉おばさんでもわかる 政治のお話 2008/07/15/Tue 11:51
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