たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

あきらめて買った! 「ドリン・ドリン!」
田母神前航空幕僚長の一連の発言に怒りと断固たる抗議の意志を表明する。これは、一人クーデターかあるいは自爆テロか、それが私のファーストインプレッションだった。
さまざまに思いを巡らしてゆくといろいろなところへと問題意識がぶちあたる。空自はいまなおイラクの地で兵站活動継続中、政治性を排除する帝国主義軍隊、白刃なき日本刀、反軍闘争の展望、戦後平和意識と日帝の焦燥・・・  空間が蜃気楼のように歪んでみえるほど歴史が圧縮されたできごとだった。

そんなことをつらつらと考えつつも意識としては形にならない、そんな自分が情けない、私には哲学が不足しているようだ。

べつにそんな感情に突き動かされて買ってみたわけではないのだが、つい先日amazonで購入したのがこれ。
P1010314.jpg

お代は\1100なり。でもこれだと送料が無料にならないので、ついでに買っちまったのがこれ

P1010318.jpg


まあ、ゲームの方は後日記事にすることとして、この”はじまりのレーニン” 著者は中沢新一なわけではっきりいって好きじゃないのだが、でいっく氏のところの常連さんの一人、蜜蜂氏が「ギリシャの観念論哲学者でありながら『神が全知全能であるなら、神は球体をしている』と神の存在を否定したのは誰だっけ?」と問いかけておられたことに、ずっと頭をひねっていたのだがわからない。はたして誰だったか、なんとなく昔哲研あたりで聞いたような気がするのだが思い出せない・・・ 4ヶ月間苦闘したがついにギブアップ。蜜蜂氏が絶賛していたこの”はじまりのレーニン”を買ってみた次第なのだ。

すごい、おもしろい! 実によくわかる。昨日から船待ち時間や乗船中の時間にむさぼるように読んでいる。文庫本なのでお手軽なのが実によい。レーニンのひととなり、時代背景と問題意識が丁寧に綴られていて読んでいて飽きない。私のようなダメな唯物論者は何が、どこがダメなのかを自覚する上でたいへん有用な入門書のようだし、いまだ悟りの境地に至っていない”弁証法”とやらの話しもたいへん興味をひく。

どうも認識論は苦手だ。”江戸っ子はまどろっこしいのがきれえでぇ!”というわけではないのだが。とはいえまるで自然科学の地道な基礎研究のようにそれは現実的な問題と対峙してゆくうえで全ての前提としてとても重要だ。くわえて、観念論と唯物論を高次元で統一する弁証法は物質へ切り込んでゆく強力な武器だ。墓にはいるまえになんとしてもその奥義をきわめたいものだと思っている。

”ドリン・ドリン!”というのは唯物論が生々しく躍動するときの音だ。ちっとも思い通りにならず一歩前進二歩後退するような島でのお仕事に、頭のなかで”ドリン・ドリン!”と叫びながら一人頑張っている昨日今日、そして明日なのであります。

風邪と喘息はようやく制圧されつつあるようで(^_^)v


Comment

 秘密にする

その昔、浅草橋戦闘戦士に勧めた本です。「ドリン・ドリン」は、確か生命を感じ取る革命家の感性のことと覚えております。
元々中核派 | URL | 2008/11/05/Wed 01:38[EDIT]
いらっしゃいませ元々中核派さま
「生命を感じ取る革命家の感性 」その通りだとおもいます。私もかつて志していた者ですんでストレートにそうだと理解します。

ところで、いまこの「ドリン・ドリン!」を私はただのいち労働者としてまっさらな気持ちで読んでいます。それはまえがきに中沢氏がレーニンが感性豊かな人格の持ち主であったこと以外は一切の先入観を捨てて読んでくださいと書いていたこともあって。

私の指導部は”感性を研ぎ澄ませ”とよく口にしていました。革命家にとってそれはとても大切であると。ブルジョア的汚物にまみれながら日々の賃労働で感性をすり減らして生きる圧倒的大多数の民衆の頭のなかは、あらぬ観念で満たされている。

気管支炎で階段をワンフロアー上ればうずくまるような最悪の体調にもかかわらず、顧客のあまりにも理不尽とも思える希望を実現すべく、船賃を差し引いたら赤字間違いなしとわかっていても頑張る自分はなんなんだろう。そんな不可思議なる自然と私の意識が激しく接触したときが「ドリン・ドリン!」なのであります。

頭の中がドリン・ドリン!ドリン・ドリン! どうやって仇をとったろうか、な~んて。体調不良でぼぉ~とした頭が一気に覚醒する。”ドリン・ドリン!”それはあたかも未知なるものに意識がふれたことを知らせる鐘の音のように響き渡ったという、たわいもない主観でありました。

眠くて眠くて今日はあまり読めませんでした。哲学系は苦手ですので曲解、誤読はあると思います。まだ読み終えていないのでそれは十分にありかと。不勉強者故、もし失礼がございましたら広い心でお許し下さいまし。m(_ _)m

浅草橋戦闘から23年が経ちますね。あの年生まれた子は成人して23歳なんて、なんともいえない気持ちになります。そんな若い世代に”ドリン・ドリン!”させてあげたいものであります。

コメントいただきありがとうございました。
薩摩長州 | URL | 2008/11/05/Wed 22:02[EDIT]
注文しました!
当方にいただいたコメントのお返事、こちらでさせていただきます。

ご進言に従い、「はじまりのレーニン」注文いたしました。明日あたり、届くかと思います。

私はもともと中沢新一は、訳のわからなさに共感を覚えるといいますか、まあ、好みのタイプなんです。とはいえ、薩長さんの感想を拝見しますと、中沢新一にしては、わりと「カッチリ書いた」本のようですね? 比較的若い頃の著作なんでしょうか。

そういえば、最近レーニンがらみでは『未完のレーニン』というのを読みましたが、これにも中沢新一の推薦がついていたような。
愚樵 | URL | 2008/11/09/Sun 12:23[EDIT]
こんばんわ愚樵さま
恐悦至極であります。中沢新一は確かに訳がわかりませんね。それとは別の点で好きでないのは私自身が党派性を引きずっていることによるものですが。それはまあ、別にしてこの著作はレーニンの問題意識を縦糸に、唯物論と弁証法を横糸に紡ぎ上げているところがなんとも絶妙な展開で、多少難解なところはあっても、話が前にすすんでゆけるように思われます。それでも笑いの哲学バタイユと古代ギリシャ哲学にふれた部分は、完読後もたちかえって読み込まないと難しいと感じています。

2005年6月に第一刷がでてますんで比較的あたらしい著作のようです。

それはそうと”未完のレーニン”を読んでおられたのですか、やはりただ者ではありませんな。実はワタシは読んでないんですよ。読もうと思ってはいるのですが。かつさまも読んでおられるし、ネットワールドで広く知られているインテリゲンチャのタモ・ツン糖酒も自ブログでレビューを書いておられました。なかなか示唆に富んだ著作ではあるようですね。

TAMO2ちんの日常「読書メモ:『未完のレーニン』」
http://red.ap.teacup.com/applet/tamo2/msgsearch?0str=%82%A0&skey=%96%A2%8A%AE%82%CC%83%8C%81%5B%83j%83%93&inside=1&x=59&y=12

ファノン2冊を読み終えたら「未完のレーニン」いこうと思ってます。さてはていつになる事やら・・・

コメントいただきありがとうございました。
薩摩長州 | URL | 2008/11/10/Mon 00:09[EDIT]
読み始めました
「ドリン・ドリン!」の意味がやっとわかりましたσ(^ ^;

まだ第2章までですが、面白いです。私はレーニンについての予備知識は皆無に等しいので、思いを新たにするなんてのはないんですが、レーニンは非情なだけじゃなかったんですね。あたりまえか。

『未完のレーニン』では、あまりレーニンの人物像がよくつかめなかったんです。非情の人という印象がむしろ強まったくらい。こちらを先に読むべきだったかも。
愚樵 | URL | 2008/11/13/Thu 19:19[EDIT]
おじゃまします。
このエピソードはどこで目にしたのか忘れましたが。
「ドリン・ドリン」、、、。たぶんそうでしょうね。おそらくレーニンは小さなボートに乗り、地元の漁師の指導にしたがって、手釣りで湖の底か中層を泳いでいる、銀毛した鱒の類を釣ったんだと思います。私なども、6月ごろダム湖の上流でアメマスを釣りますが、この時は7メートルのカーボン竿を通じて「ゴツゴツ」と言う独特のアタリの後にグリ・グリ」と身をよじって逃げる必死の力が伝わってきます。これがかの「ドリン・ドリン」であるに違いないと言う思い込みが昂じて、なんにつけても足元にも近づけない私でも、少なくとも釣りにおいてはレーニンを凌駕したに違いないなどと、誰もいない河原でニヤけていた事を思い出します。

たぶんレーニンは、嬉々として小さな生徒みたいに漁師から釣りを教わったに違いありません。私はレーニンのこういうところが大好きですしおそらく、ロシアの民衆もそうだったのだろうと思います。本多書記長に関しても小嵐九八郎氏は「おかあさん、ラジオのボリュウムをあげて」を引き合いに出して「我々の想像を遥かに超えて庶民そのものであった」と書いていますが、職業革命家が、普通の庶民と見分けがつかず、同じ言葉で演説し、同じ言葉で書くというのは必要な素質のひとつなのかも知れません。








NK | URL | 2008/11/13/Thu 23:28[EDIT]
訂正
訂正します。私が釣るのはアメマスではなくて、サツキマスでした。

ついでに、フランツ ファノンは、ばらばらに思いつくところをから読んだほうがいいかも知れません。なんにしても、彼の文章は、読み手にこれと格闘することを要求するようです。私には、恐ろしく難解な文体でした。
NK | URL | 2008/11/13/Thu 23:43[EDIT]
いらっしゃいませ愚樵さま
まずは、そちらで”揉んでしまったこと”をお詫び申し上げます。まったく不細工なことをしたものと反省しきりなのでありますが、相手もタダモノではありませんのでそのあたりも汲んでいただきまして広い心でお許し下さいませ<(_ _)>。

で、面白いでしょう。というか面白いといっていただいて、お勧めがいがあったというか、正直嬉しく思っております。私は今週、死にそうなくらい忙しかったので、帰りの船でしか読めませんでしたが、それでもいまグノーシスのところを読んでいます。もうじき完読です。途中ピュシスとかゾーエとか、「底」とか難解な言葉がでてきますが、グノーシスのなかで具体的なイメージが提示されます。

中沢氏の鋭い洞察はビンゴです。レーニン像が倒され、器が破壊された時飛び去ったものを氏はたしかに捕まえている。

レーニンは確かに「非情」な側面はありました。でも、それは民衆の、人の幸せを心より思えばこそ、時として一点の曇りもなく非情に徹することが出来たのです。人が人らしく幸せに生きたい、そんな活き活きとした無尽のエネルギーこそがピュシスとゾーエです。
レーニンは人として底なしにピュシスとゾーエが噴出して止むことがない無垢な心をもっていたのだと思います。

私も過去の経験や知識を排除してフラットな心で読んでいます。とはいえ、なかなかそう割り切れるものでもなく、断片的にのこっているそれらが、「ドリン・ドリン!」を読みながら整理整頓されてゆくような感覚は否めません。決して革命家のために書かれたわけではないこの本を、その筋とは無縁の愚樵さまが読み終えて何をつかみ取られるのかはたいへん興味深いところであります。

ご丁寧な反応を返していただきましてありがとうございました。またのお越しをお待ちしております。
薩摩長州 | URL | 2008/11/14/Fri 23:29[EDIT]
いらっしゃませNKさま
ようこそいらしてくださいました。ところで、マジっすか!サツキマスを釣られるというのは。いっやぁ、革命家は釣りが好きなのでしょうか、もうお一方当ブログにコメントを寄せて下さるお方も渓魚を釣ることを趣味にしておられる。

昔、直属ではありませんが、指導部の一人が、革命家の一生は「釣り」と「鬼ごっこ」だと冗談で言ったことがあります。で、職革見習い挫折組の私も、渓魚に魅入られた者の一人であります。私はフライフィッシングをヘタですけどしていました(最近は行ってませんが)。
http://kangun.blog123.fc2.com/blog-entry-72.html

フライフィッシングは元来イングランドのチョークストリームでの釣りにもっとも適したスタイルなので、湖水でのスティルウォーターでの釣りはメソドとしては高度なものなのですが、比較的容易なものとして、シンキングラインのような水中にラインを沈めて、アクションをつけラインをたぐる釣法がございます。それはレーニンが漁師さんから教わった手釣りの感覚にたいへん近いものであります。ラインの先端につけたフライに全神経は集中するとき、水中でマスがそれを追っている気配すら感じ取ることが出来る(達人は)。未知なる自然に触れ、まだ見ぬ生命の躍動を感じ取る瞬間であります。釣りはいいですね。自然と対話する一時がとても心地よい。

私は3.14のずっとあとに結集したものですので、本多書記長のことは中央や指導部からエピソードとして聞くことしかなかったのですが、いちばんよく憶えているのは、ビラを印刷していてヤレをだしたのを書記長にみられて、人民の血税をなんとす、と2時間たっぷり怒られたという古参のISTの話でした。そんなこともあって、党首としての威厳に満ちた方であったという印象をずっと強くもっていましたので、「庶民そのものであった」というのは目からウロコでした。

「職業革命家が、普通の庶民と見分けがつかず、同じ言葉で演説し、同じ言葉で書くというのは必要な素質のひとつなのかも知れません。」未熟者の私ではありますが、その通りだと思います。その昔もっとわかりやすい言葉を選んでビラを作りましょうとM会議で提案したことがあります。あっさり”大衆迎合主義””大衆蔑視”と言われたことがございます。いまだ対Y戦基軸のときにあって、党全体が強固な鎧で閉じられていた状況のなかではそれは正しいと理解したものではありますが・・・

ブルジョアはブルジョア的なものにいともあっさりと心を許すのと同じく、庶民はやはり庶民的なものに引きつけられるのは、本質的に階級の分裂がいまだ、そういうものとして組織されるにいたらずも、メタなものとしては潜在的にあるのでしょうか。であればこそブルジョアジーは積極的に分断を持ち込もうと躍起になる。羊は羊の群れの中へということなのでしょうか。

ふたたび マジっすか! NKさまが「恐ろしく難解な文体でした」などと言われましたら、ドン引きしてしまいます。とはいえ、民族問題への深い理解は必須であると思っているので、ぼちぼち読み進めてゆきたいと思います。「労働者を食わせていけない帝国主義は・・・」というスローガンは危険です。「じゃあ、『満州』で一旗揚げましょう」と言われたら行ってしまいます。返す言葉がありません。

コメントいただきありがとうございました。またのお越しをお待ちしております。
薩摩長州 | URL | 2008/11/15/Sat 00:55[EDIT]
第3章 ヘーゲルの再発見
薩長さん、忙しいそうですね。申し訳ないけど、勝手に書き込ませてもらいます。返答しなくてもいいですよ。もちろん、してくれてもいいけど。

あ、それから、私のとこでの乱闘は気にしないでください。あれは公認ですので(爆)。

さてさて、いよいよ面白いですなぁ、『はじまりのレーニン』

「愚かな唯物論より賢明な観念論の方が懸命な唯物論に近い。より正しく言えば、懸命な観念論とは弁証法的な観念論であり、愚かな唯物論とは、形而上学的な、発展のない、生命のない、生硬な、運動のない唯物論である」

「・・・客観的観念論は(そして絶対的観念論はいっそうそうだが)まがりくねり(そしてとんぼがえりをうって)唯物論のすぐ近くへ近づき、部分的には唯物論に転化している・・・」

観念論、唯物論、そしてとんぼがえり。「色即是空」じゃないか、と思ってしまった私は、かなりオカシイのかな?

が、そう読むと、レーニンのいう「客観」とは、あるがまま、自然(じねん)だと読めますし、また「実践」とは、あるがままの姿に近づこうとする姿勢と解することができる。するとすると、次章で登場するピュシスもゾーエーも、さほど難解なようにも思えないし、「ドリン・ドリン!」ともうまく結びついていく...。

でも、これ、本当にレーニン? 「中沢新一のレーニン」じゃないのかな、とも思ったり。
愚樵 | URL | 2008/11/15/Sat 15:16[EDIT]
いらっしゃいませ愚樵さま
ようやく超メンドクサーなお仕事が昨日終わりました。心身ともに疲れ果てまして、今日はお休みをとりました。本を読むでもなく、何するわけでもなくマッタリと日柄一日すごしました。あ~ぁ、明日は拝み倒されてお仕事なんだな~。じっくり腰をすえて記事を上げたい気持ちでいっぱいなのですが、なかなかそうもいきません。「欲望の話し」も半分ほど書いてそのままだし、「スターリン主義の話し」書きかけのまんまだし、例のベーダー卿とのやりとりをうけて、「小資本家2」を書きたい衝動もあるのだけれど。

さて、愚樵さま、ワタシに”へいげる”さんのことを聞いてはなりません。かの御仁ではありませんが、顔を真っ赤にして「謝罪せよ」なんて怒ってしまいます(爆)。
それほど”へいげる”さんは難しいです。いちどは、きっちりと学ぶ必要があったのでしょうが、もうこの年では無理っぽいかもしれません。ワタシがネットワールドで手も足も出ない、足下にも及ばないと感じる方々は、おそるべきことに”へいげる”さんを我がものとしておられる方ばかりです。

戯れ言はここまでにして、”へいげる”さんはいうまでもなく観念論者であったわけですが、この近代の偉大な哲学者は実に巧みにして、詳細にこの世の仕組みを一貫した体系として掴み取ったようであります(たちいっては、わたしの知るところではないが)。かのカント大先生ですらこの世の仕組みの奥底まで踏み込んでゆけなかったのに。それを可能にしたのが弁証法だったわけですが、その元ネタは遙か昔からあり、連綿と引き継がれ”へいげる”大先生の近くにあった、というのは「5章精霊の資本論」のお話であります。

ちょっと良いたとえがいま、おもいつかないのですけど、形而上学は認識の方法論としてたとえれば写真か、絵画のような静止画です。そこでは一定の真理を伝えることは出来ても、ある時間の流れ、運動する物質の一断面を切り取るにすぎません。運動する物質の中へと踏み込んで躍動する筋肉、激しく脈打つ心臓を掴み取ることはできません。弁証法はまるで運動する物質をビデオカメラがとらえ動画のように映し出す方法論です。生々しく躍動するそれらを目の当たりしてこそ、それらをガッシリと掴み取りその内に秘めたる運動の仕組みをときあかすことができるのです。”へいげる”さんはそうして絶えず運動を続ける生の物質をガッシリと掴み取り、その中へと深々と進入し、内在する運動の仕組みを”観念”をもちいてあきらかにした、これこそが賢明な観念論であったのだとおもうものです。

物質の存在とそのあり方を、その物質の奥底に立ち入る手間をすっ飛ばして、安易にその原理を”神”求めない。これが弁証法的観念論であるならば、それは他でもない弁証法的唯物論とボーダレスに一体化する。ワタシも目からウロコだったのですが、はじまりのキリスト教は、安易にその原理”神”求めるものではなかった、そうなってしまった原因はある歴史的できごとによるものであったということもまた「5章精霊の資本論」のなかであきらかにされるのであります。たいへんに含蓄の深いお話であります。

因果律に支配され、外的要因をもって”あっちを叩けばここが飛び出す”的な静的な唯物論は、近代形式論理学の確立と近代合理主義の原動力となった始祖フランシス・ベーコンの経験論は、自然のルールを見いだすのに大きなちからとなったことはいうまでもありませんが、彼につづいたエピゴーネン達がやがて経験し得ないことは,知り得ないという不可知論の深みにはまっていったことは偶然ではないのであります。

だめな唯物論は観念論と相容れるところがありません。人が、社会が、物質的な基礎に規定されると信じて疑いません。それゆえ、その制約を跳び越えることができないのです。
人はタンパク質のかたまりではありません。頭に観念を抱き、意志がある。物質が意識をつくる、でも、逆に意識がまた物質をつくり出す。そうした唯物論と観念論の相互の関わり合いを認識できないものは空想にふけるか、物質が強いる運命に翻弄されるだけなのです。

さて、”へいげる”大先生が先輩のカント尊師を踏み越えて、かくのごとく物質の運動の内在的な仕組みへと目を向けるにいたった歴史的背景はやはり、大先生が生きた時代が旧封建勢力と新興ブルジョア勢力がせめぎ合うまさに”革命”の時代に生きたからだと思うものです。激しい巨大な意志のうねりとおびただしいばかりの血の海のなかから近代国家が産声をあげた。そんな時代であったればこそ、大先生はすぐ身近なところにお宝をハケーンすることができた。そのお宝を通して、墓へと葬り去られる旧社会と、みずみずしいばかりの新社会の誕生の一部始終を理解したのだとおもいます。もちろんそれがなしえたのは”へいげる”さんが天才であったことはいうまでもありません。

愚樵さまがいみじくも”色即是空”と表現されたことは驚きに値致します。そのあたりの捉え方は「6章のグノーシスとしての党」のなかででてまいります。

最後にワタシはレーニンをすごい人だと思いますが、神や仏のように思ってはいません。というより、そう思っていたらそれこそ天にまします我らがレーニンに怒られます。
レーニンはとても現実的な実務家であったのです。そして、たいへんすばらしい平衡感覚をもっていた。そしてなにより原則的なものを頑固なまでに守りながらも、タコのようにくねくねと柔軟に問題を処理していった。そこいらへんのところは、形式論理のイエス&ノーで割り切ろうとすると、”ダブスタ””トリスタ”とみえるかもしれません。
そんなわけで、レーニンは完全無欠の絶対者ではなかったのですから、私のような未熟者が考えても、あるいは未熟者であるがゆえか、誤りはあったのではないかと思うところはございます。

とはいえ、途中でほっぽりなげていて恐縮ではありますが、スターリン主義のもたらした想像を絶する悲劇ゆえに、レーニン像はあまりにもゆがめられているということは言えると私は思っています。ただ、ここらへんのところは、「レーニン主義の継承か解体か」という実践への主体的なかかわりがあったという事実を抜きにしては語れない事であるとも思うのですが。まあ、まだ最後まで読んでいないので中沢的解釈によるレーニン像であるかどうかの判断はつきかねますが、少なくとも今まで読んだところではビンゴだと遙か昔にマルクス主義、レーニン主義の職業革命家見習いだった私は感じています。

つらつらととめどなくコメントとしては不適切な長さになってしまいましたが、私は記事とコメントを同じものとして考えているので、そういうの”あり”なのであります。

読了するまで、愚樵さまが感じられたことがございましたら、今回のようにコメントいただけましたらとても嬉しく思います。私はそれに解説をくわえるような力量はございませんが、一冊の本をめぐって、全く違った経験にもとづく個別具体的な生の人間の意識がふれあうことは互いにとてもすばらしい何かを得ることができるのではないかと思うものでございます。

てなわけで、今日も記事はお休みです。やるきのないブロガーで恐縮ですww。 明日はまたまたバラをいくつもりです。あさっては、「私が哲学だめなわけ」でも書きましょうかwww
薩摩長州 | URL | 2008/11/15/Sat 22:59[EDIT]
おお、怒濤のコメント!
薩摩長州殿、おはようございます。怒濤のコメント返し、ありがとうございます。恐縮至極に存じ上げます(笑)。

>一冊の本をめぐって、全く違った経験にもとづく個別具体的な生の人間の意識がふれあうことは互いにとてもすばらしい何かを得ることができるのではないか

前コメントのような調子でよければ、喜んで。第4章は一度読みました。5章以降はまだ。第4章を再読した上で、また意見具申いたします。そのくらいの価値は十分にあまりあると思います。

>レーニンはとても現実的な実務家であったのです。そして、たいへんすばらしい平衡感覚をもっていた。

レーニンがボクダーノフをブルジョア的だと怒りを抱いたのが、とてもよくわかります。現実的な実務家だったからですね。これまで私は、この「現実的な実務家」という意味を、たんなる非情な現実主義者としか捉えていませんでした。レーニンにとってマルクスとは、現実主義者が革命家を装うための衣装ではないか、と。けれど、それは大きな間違いのようです。

実務家レーニンが革命家でなければならなかった必然性は、いまや私の中で明確な像を結びつつあります。またもや強引な比較で恐縮ですが、レーニンのイメージは、大塩平八郎のそれと被るようになってきています。知行合一を唱える陽明学の学徒であって、陽明学の学徒であることが必然的に乱の首謀へつながっていった平八郎。そして、2人の姿がまさにプロレタリアなのだ、と。

少し話は逸れますが、私は現在、局地的にブームになっている『蟹工船』にきわめて懐疑的だったのです。その懐疑的だった理由をうまく言語化できずにいたのですが、『はじまりのレーニン』のおかげできっちりと把握することができました。あれらの言うプロレタリアは、ブルジョアへのルサンチマンから逃避であって、根っこは相変わらずブルジョアにある擬似プロレタリアに過ぎないのですね。

あ。それともう一つ。これも大きく話が逸れますが、

>全く違った経験にもとづく個別具体的な生の人間の意識がふれあう

という姿勢においては、薩摩長州殿も、かのベーダー卿も、私にとってはまったく同じ地平におられます。
愚樵 | URL | 2008/11/16/Sun 10:18[EDIT]
Track Back
TB*URL

Copyright © たわいもない話. all rights reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。