たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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愚樵さまの耳元でそっとささやく
貨幣は選ばれし”商品”で、商品の本質は”交換価値”であり、交換価値の実態は”労働です。
ゆえに、貨幣が「水平性」をデフォでもっているのではなく、貨幣が膨大な商品群と同じレベルにとどまり、それらの価値を尺度として表現し、流通を媒介する、いいかえれば、膨大な商品群が貨幣を「水平」たらしめているのであります。ついでにいえば、生産手段から切断され、自由になった労働は、自らを自由に売ることができる、二重の自由を獲得するわけですが、この互いの価値を等しいものとして交換する労働力の商品化こそが、自由と平等のスタートラインに他ならないのです。

労働は人の本質であり、労働力は人が生きるための力です。それが商品として扱われるならば、商品が飛ぶように売れるときはよかれども、だぶついて売れ残った商品は捨て値で売り飛ばされるか、過剰生産の農作物のように廃棄されるのです。ところが、生身の命が宿る労働力はそうはいかない。そんな理不尽なありかたに抗うものとして、社会主義革命が準備される時代があってこそのベーシック・インカムというオルタがあるのだとおもいます。ですから、きっちりとそれを実現しようとするならば、道筋は社会主義革命と重なるよりないと、私はおもうものです。

さて、貨幣に話をもどしますが、貨幣が抽象的な社会的労働としての価値を交換価値として表現するということは、その物質的根拠を明らかにした上で、たしかに「情報」という言葉に置き換えが可能なのかもしれません。しかしながら、そうした「情報」をつかさどる銀行資本は、私たちの貨幣をデジタルアーカイブにして、決済の利便性をはかるものではありません。流通過程において貨幣が、抽象的な価値章票として流通してきたものが銀行資本に集約されるとき、単純な「情報」として表現されはしても、それ自体はあくまで抽象的な価値章票の延長線上でしかありません。預金通帳はそれ自体、”貨幣”なのです。

そもそも、銀行資本のような利子生み資本にさきだったものは、産業資本や商業資本のような実体経済をになう機能資本がより多くの商品を貨幣に替える試みとして、貨幣の直接的なやりとりの枠を突破し、契約にもとづいて商品の先渡し、前貸しをはじめたことが、”商業信用”のはじまりなのであります。その際の契約は一定の利子を含んだ現金を支払うことを約束した約束手形を振り出すものです。商業信用が発展すると、やがて、手形の決済のための現金の預け入れや、引き出し、相殺などを専門にあつかう”貨幣取扱い資本”が機能資本から分離独立し、さらにそれが、銀行資本と発展し、ひろく社会のすみずみで退蔵された貨幣をかき集め、”機能資本への貨幣の貸し付け”をはじめたとき、貨幣は貨幣が貨幣を生む、利子生み資本へと転移することをもって信用創造を始めるのであります。

この信用創造は貨幣が”金”に足をおろしている限りにおいて、自立的、自然発生的に発展してきたものであります。それは、いいかえれば国家の「垂直」な信用保証など必要とせずとも、一定の段階までは古典経済学者がいうように調和は保たれるのです。しかし、この資本主義的生産様式がつきすすむ無政府的で爆発的なまでの生産力の増大は過剰生産という段階に突入すると、必ず崩壊する。その崩壊を回避するために、国家は貨幣を”金”から切断し、管理通貨制度という綱渡りをはじめるのです。投機の失敗で火だるまになった銀行資本に莫大な公的資金を投入して救済したり、春闘で勝ち取られたわずかばかりの賃上げを、銀行券増刷によるインフレで無に帰すことは、預金通帳の残高を改ざんするよりもはるかに罪深きことであるとおもうのであります。



おぉお!目眩がしそうだ
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Comment

 秘密にする

物神崇拝
薩長さん、お世話になります。

>貨幣は選ばれし”商品”で、商品の本質は”交換価値”であり、交換価値の実態は”労働です。

第一章 商品ですね。で、たしかマルクス大先生は、この章の最後にかくのごとき“商品”経済が出現する原因が「物神崇拝」にあると宣わっていたように記憶します。

>社会主義革命が準備される時代があってこそのベーシック・インカムというオルタがあるのだとおもいます。

社会主義革命とは何なのでしょう? 商品化され資本の下に組み敷かれた労働を、経済の主役に昇格させる運動だとの理解でよろしいでしょうか? しかし、思いますに、それでは大先生のいう「物神崇拝」の呪縛からは抜け出せていないのではないか。労働は人の本質でありますが、人の本質は労働ではありません。つまり労働は人の本質を構成する一パーツです。社会主義は、人の本質と労働との関係性を曖昧にしてしまった運動ではないのでしょうか? さらにいえば、その曖昧さの原因は唯物史観にあるのではないでしょうか? 

ベーシックインカムとは、『生きるための経済』の関氏によりますれば、
http://bijp.net/sc/article/27
「社会への信用」が基礎となり、社会構成員全体の活動の成果を個々に配当するものです。この思想もまた社会主義ではありますまいか?

「社会信用論」に基づく社会主義は、貨幣と労働とを2項対立的に扱ったものではありません。その2項対立を止揚したところにあるものだと私は理解しています。そしてその点が従来の社会主義、すなわち資本=貨幣と労働とが2項対立で留まってしまっている社会主義との大きな違いだと考えます。

貨幣と労働とが2項同体である「社会信用論」においては、社会主義がベーシックインカムを主導する、すなわち社会主義が先でベーシックインカムは後と順序はないと考えます。これら2つは同時に達成されるものです。社会主義先導思想にはまだ「物神崇拝」の残滓が残っているように私には感じられますし、またそのことが「物神崇拝」そのものである資本主義に対して社会主義が“一敗地にまみれた”原因なのではと考えるところであります。

尚、このコメントには「社会信用論」と「水平性」の貨幣=個人通貨とが深い関連にあることが前提とされていまして、その関連性の部分については新たにエントリーを上げるつもりですが、まだ果せていません。
愚樵 | URL | 2009/05/26/Tue 06:39[EDIT]
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【即非】の社会へ
【即非】という言葉をご存知でしょうか?  [続きを読む]
愚樵空論 2009/05/26/Tue 20:44
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