たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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おわび
いらしゃいませ愚樵さま

速攻のコメントをいただきありがとうございます。ひさかたぶりに”銭”のエントリーを連チャンであげておられたので、”銭”からすっかり疎外されている私ではありますが、なにかしら言わせていただこうかと、頭をひねっていたのですが、どうしても真っ正面からの対抗的言論にしかならないので、そちらへコメントさせていただくことをやめ、自ブログの記事とさせていただいたものでございます。

さて、冒頭、センスのよくないタイトルをつけたことをお詫び申し上げねばならないと思っております。すみませんでした。これでは、かの”くわくわ88”と同類です、と言われても致し方ないかと反省しております。
やれ、「及第点」とか「半分正解」とか、いけしゃあしゃあといえる「精神」は持ち合わせていないので、対抗的言論をたてるときは、それ相応に慎重であらねばならないと常々思ってはいるのですが・・・

とはいえ、ときには膝詰めでぎっちりお手合わせ願いたいという思いも否定できないのですが、そんなわけで「耳元でそっと」という表現となった次第でございます。決して敬意を失するような、悪意にもとづくものではないことを、これから私が書こうとしている内容も含めてご理解いただけたら幸いでございます。


1.物神崇拝とは

では、本題に入らせていただきます。
”物神崇拝”でありますが、実は愚樵さまの記事を読ませていただいて、私の頭に最初によぎった言葉は”物神崇拝”なのであります。資本論のなかでも、この第一章商品は大変難解で、ほとんど宗教、何度読んでもその奥の深さに戸惑うばかりなのですが、物神崇拝にさきだち、”物象化”という言葉がございます。この言葉は、生産手段と労働力の分離を前提として、分業によって社会の構成員が生きてゆくために必要な物資を生産する、いわば社会的生産が、生産手段が私的に所有されているという事実から、私的生産としてとりおこなわれ、個々の生産物を”商品”として交換しあうことによって、社会的生産へと還元する”商品経済”では、人と人とのつながりが、”物と物の関係”としてたちあらわれるということであります。人の労働の成果である物が商品となるとき、商品はあたかも自らの出自を押し隠すかのように、生みの親である”人の営み”をはるか後景にへと押しやり、まるで、天から舞い降り、地からわき出たように社会に登場するのであります。それは、現代っ子が、マグロが切り身で海を泳いでいる、畑にりんごがたくさんころがっているように思っていることが一時問題となっておりました。それから、このご時世、私自身が顧客に言われることなのですが、「べつに薩長くんじゃなくてもいいんだよ。おなじ仕事をより安く納めてくれるならだれでもいいんだよ」と、それは物象化の端的な例であるといえます。さらに詳しい説明はぜひお読みいただきたいのですが、こちらへお任せするとして先へ進みます。
http://okumedia.cc.osaka-kyoiku.ac.jp/~shakai/seiyosi/sisousi070607.htm

商品による物象化は必然的に、あまたの商品があり、それらがあってこそ、貨幣はそれらの橋渡しをすることができることを貨幣は欠落させ、商品の交換を媒介する貨幣の一般的等価物(あらゆる商品の価値を表現し、いかなる商品とも交換可能なもの)としての機能が生まれつきのものであり、神がごとき力のように現象します。
これが物神崇拝であります。貨幣を貨幣たらしめているのは、貨幣自体がもつ「垂直」な権威でもなければ、貨幣に権威を付与する国家権力でもない。貨幣の背後に網の目のように張り巡らされた、商品経済が貨幣をして物神崇拝へと導くのであります。それは、征服者に略奪された目も眩むようなインカ帝国の金銀の財宝ですら、豊かな商品経済が支配する本国にもちこまなければ、貨幣たり得ず。それ自体、装飾品としての美しさから、征服者に精神的な満足をあたえることはあっても、トイレにすえられたトイレットペーパほどにも役には立たないこと。戦争などによって、生産力が著しく低下し、商品のネットワークが各所で寸断された”物不足”の状況では貨幣が悲しいくらい無力であるということからも明らかであります。

マルクス氏はそうであるがゆえ、資本論を「貨幣」から書き始めることはなかった。彼が下向して下向して分析をおしすすめた結果、資本主義社会のアトムとしてみいだしたものが商品であったわけで、彼はここから商品発生の歴史的プロセスをなぞるように価値形態を展開してゆきます。偶発的に成立する物々交換からはじまり、やがて市場(いちば)ができ、市場で貨幣が流通するようになる。そして、貨幣は蓄積され資本となり、資本はさらなる自己増殖のため、利子生み資本を生みだし、利子生み資本は貨幣を貸し付け、信用創造をなしたとき物神崇拝は完成することをあきらかにしています。ですから、貨幣をいくら眺めてみても、手に取ってみても、その動きを観察しても、その機能をつぶさに論じてみても、貨幣それじたいからは謎の実態はみえてこない、PとQがそれぞれ100円をもって交換をおこなうには、それに先立ち100円として表現されるべき社会的生産物がなければならない。P,Q,Rの3人がそれぞれ100円をもっているのであれば、総貨幣量300円にきっちり相対する社会的生産物がなければならないのです。ないものは売れないし、買うこともできない、貨幣は交換を媒介するだけですから。したがって、Pが100円使い果たしたときPの手元には100円分の商品が残っているか、消費されているか、その両方かであり、ズルをして、残高を5円あることに書き換えても、社会的生産物が5円増えるわけではない、文中でさりげなく財として一般的に語られている部分にこそ貨幣の実体は存在するのです。

実際の数億人という国家的規模の場合、ことは複雑を極めるわけですが、各個別の資本は、しのぎあい、競い合いながら、市場という物象化の権化のようなコロシアムで、商品は価格を上下させながら壮絶バトルをつうじて、商品のなかに内在する社会的価値を実現してゆく、「価値法則」が貫徹するのでありまして、貨幣が金によってその価値を裏打ちされている限りは、残高0を5円に書き換える不正はしっかりバレるものです。人は”お金”にはよしも悪しくも、時として人の命を奪ってでも求めてやまない、恐ろしいほどに、シビアーなものですから。


2.社会主義革命とは

マルクスは物神崇拝の根源を商品の持つ二重性にあるとみました。具体的な有用性としての使用価値と、交換を目的とした価値であります。使用価値は個別具体的で私的な労働であり、価値は抽象的な社会的な労働です。
そうした二つの要因の統一として商品がある。商品は、前に書いたとおり、社会の構成員が生きてゆくために必要な物資の生産を、生産手段と労働の分離を前提として、生産手段が私的に所有されていることを根拠に、資本の自己増殖を第一義的な目的として、利潤追求のため、社会的分業が私的な生産活動としてなされることが商品を根底から規定しているとマルクス氏はかんがえました。

であるならば、生産手段を私的な所有からひきはがし、社会が所有する。働く者たちすべての共通の財産として律してゆけばいい。銭金のために働くのではなく、直接的に社会的労働として実現する。世のため人のため自分のために働くということが社会主義的な労働観であったとおもうのです。そして、そこでは、無政府的で常に膨張と縮小をともなう不安定な生産活動や、相対的過剰人口=労働予備軍は解消され、だれもがこの世に生をうけ墓場にはいるまで、安定した仕事と収入がえられ、豊かな暮らしをおくれるはずだったのですが・・・


3.スターリニズム

ここからの話は、私自身いまだ深い迷路のなかに、一筋の光明さえみいだせない状態での思索なので、自信満々で語れる物ではないのですが、あえて書かせていただきます。

スターリン主義の話がスターリンとトロツキーで止まったままでいぜんとして書けずにいます。
主体の問題としてとらえ返したときにどうしても理論的に突破できない、とても深くて重い問題がそこにあるからです。おそらく私のような”庭木の盆栽”が墓に足を入れた後、まだ考えつづけても答えがでるようなものではないのですが。考えて、考えて、考え抜くことより、ただ一ついま現実に直面する諸問題に誠心誠意むきあうこと、実践的な関わりの中にのみ、答えにむかっての道しるべをみいだすことができるのではないかと、思う今日この頃なのでありますが。

さて、スターリンとトロツキーのつづきはいずれ、あらためて記事としてあげることとしたうえで、かるくさらっておきたいと思います。

スターリンとトロツキーの対立の中核をなした問題が、一国社会主義建設の路線の是非をめぐるものでした。
内戦により疲弊した国内経済の立て直しのため、苦渋の決断として導入されたNEPですが、はじめはなかなかうまく機能しませんでしたが、人の欲にうったえるNEPはやがて爆発的にロシア経済を順調軌道にのせます。
スターリンを頭目とするロシア革命の不当な継承者たちは、こうしたNEPの「成功」を背景に、自己の特権官僚としての現状を固定化すべく一国社会主義建設路線を定式化し、それに反対する世界革命をかかげるトロツキーほか、左翼反対派を徹底的に粛正したのであります。そののちほどなくして、NEPは歴史的破産をとげ、スターリンは富農を皆殺しにし無理矢理、農業を集団化しガンガンに”ノルマ”を課してボコボコに収奪をするのであります。農業の集団化と同時に導入された「計画経済」なるものはとんだ食わせ物で、破綻をしまくるのであります。それは、工業化のための基礎となる基幹産業をおこすためのプラント設備、機械を作るための機械である工作機械は、先進資本主義諸国から買い付けなければならないのですが、自分たちは計画経済でも、それをとりまく世界はつねに価格を変動される魔物のような資本主義です。計画は無残にふみにじられてゆきました。

4.計画経済

そもそも計画経済というのは、100人の国民に毎月一本の歯ブラシを支給するとして、毎月100本、年間1200本の歯ブラシを生産することを意味するものではありません。すべての生活物資、靴、パンツ、電球などなど、莫大な生活物資を計画的に国家が生産する。そんなこと想像しただけで目眩がしそうです、できるはずがない。でもスターリンはそれをやった。本来であるならば、資本主義の矛盾の展開は、商品の矛盾からはじまり、さらに展開されるといきつくところは恐慌なのでありますが、その科学的根拠として、ケネーからパクった再生産表でマルクスがあきらかにしたように、基幹産業をなす生産財の生産は、消費財の生産よりもはるかに急速に発展するという傾斜生産であったわけで、国家が生産を管理するのであれば、ここを管理するだけで事足りるはずなのであります。たとえば、年間鉄鋼生産量○○トンという具合さきにきめておけばいい、トロツキーはそう考えていたし、それは現実的で合理的なものであると思うものです。消費財の生産は市場の任せるままでもいい、その上限だけをさだめておけばいい、あとは、緩やかな過剰生産でよいのです。そのほうが、多彩な文化を生み出しうるだろうし。人民服、人民自動車1種類は楽しくないですから。

ではなぜ、そんな不合理な計画経済がまかりとおったのか。それは、一国社会主義という鎖国がもたらした工業化の困難によるもの、先進技術の導入ができず、すべてを自前で開発せねばならないがゆえの途方もない困難であったし、それに輪をかけたのが、一国社会主義へとつきすすむ契機ともなった、帝国主義的干渉戦争ののちもつづいた重包囲のまえに屈し、国を閉ざしハリネズミのように重武装をすることをもって、先進資本主義国との通商を有利なものに導こうという反人民的な外交戦略でありました。本来、人民の生活を豊かなものにするための生産活動はその多くを核武装を頂点とする、武器の生産へと第一義的に割り当てられ、人民の生活物資は、まさに一人月に歯ブラシ一本、年間服2着のような窮乏生産を余儀なくされたのであります。

計画経済というのは、体のいい言い方とは裏腹に、徹底した農民からの収奪を軸として、かつて敗色濃厚な大日本帝国がおこなった、生活物資の配給制度のようなものだったのであります。それはすなわち、資本家が絶滅し、すでに私的な生産活動が廃絶されたにもかかわず、農業国で、遅れた工業国のロシアは当初の生産力の低さにくわえ、帝国主義列強の重包囲と重圧に屈し、一国社会主義建設路線へと誤った道を選択したがため、特権的党官僚が、自国の農民と労働者、そして、大ロシア主義の名の下におこなわれた民族支配を、むき出しの暴力と収奪(資本が生産物を奪うことを搾取といいます)をもって、死と貧困を強制しつづけたことがソビエトの悲劇の真実であったわけなのであります。

遠い昔モスクワでオリンピックが開催されたことがございました。それに先立つこと、数ヶ月前、ソビエト軍はアフガニスタンに侵攻をおこない、西側世論は制裁として雪崩うってボイコットを決定したわけですが、ソビエト共産党は、モスクワ周辺で暮らす青少年を大規模に集団疎開させる計画をもっていたといいます。その理由は、先進資本主義国のさりげない”ハイテク”(デジタルウオッチとか)を目の当たりにしたら、自分の国がどれほどビンボーなのか気づいてしまうからです。かつてソビエト共産党の最後の書記長ゴルバチョフが日本を訪問したとき、目をまん丸にして、こういったそうです「日本は高度に発展した社会主義である」と。しょせんは、鎖国ソビエトの経済力などその程度のものでしかなかった。それは、四畳ひと間の借家暮らしの貧乏人が、大見栄を張ってポルシェを買いはしたものの、ローンにおわれ、三度の飯もままならぬまま、来る日も来る日も16時間労働に精をださざるおえないという状況にも似て。


5.マルクスはこう考えていた

最近、的場昭弘氏の「マルクスだったらこう考える」という本を読みました。くわしい”どくしょ かんそうぶん”はまたのちの記事ネタとして、なぜマルクスが古くさいものになったかということを的場氏は書いています。
マルクスは一国資本主義を分析したと。それを跳躍台にしてなされたロシア革命は必然的に一国社会主義建設を路線化した。それゆえに、資本のダイナミックなグローバリゼーションな展開の中で、一国社会主義建設路線は陳腐なものとなり瓦解してゆかねばならない運命だったと氏は分析しています。

はっきりいって、いきなり違和感満々で、ドブに捨てたろうかとおもいました。マルクスは、ドイツイデオロギーのなかで、共産主義(社会主義)は世界的な市場の転覆をもって、そのスタートにつくものであると書いていて、一国社会主義建設路線なんぞはなっから口にもしていない。金がなくてマジで困っているときに、昼飯代で買ったので捨てるのも惜しいとぼちぼち読んでみて、どうもこの本は、従来、共産主義、社会主義とおもわれていたものが、実はそうではない。マルクスがいっていたとされるものが、実はそうではないのだ。ということを書いているということに気づきました。それは、スターリンが定式化した多くの、そう、唯物史観などもふくめて”嘘っぱち”の暴露であり、批判であり、マルクスの復権への試みであると私は読みました。ですから、本の表題は「マルクスだったらこう考える」というより、「マルクスはこう考えていた」というのが適切なのではないかなと。ドリンドリンもそうだったのですが、ソビエト崩壊からはやくも18年の月日がながれ、あの「社会主義」はなんだったんだろうという、それなりに核心に迫ろうとする庶民向けの著作がすこしづつではありますが見られるようになってまいりました。そして、それと軌を一にして、すっかり忘却の彼方へと追いやられたマルクスを扱う著作も庶民向けにリニューアルして登場してきています。なかにはとんだクワセモノもありますが。


6.マルクスが生きていた

マルクスが生きて、雄弁に語っている。関曠野氏の講演を読んで率直に私が感じた感想です。これがなかったらはなっから、いくら私が”銭ヲタ”でもコメントを書く気にはならなかったでしょう。
たしかに、お重の隅をつつくようなことをいえば、マルクス的には産業革命は終わり無く、毎日が産業革命の連続であり、資本主義は毎日更新の資本主義だったりします、言葉と言い回しは微妙に異なれども、たとえば、文中の時間と共に生産費用の中で「A(可変資本)に対してB(固定資本)の比重がどんどん増える」はストレートに資本の有機構成の高度化のことであるし。「絶えざる生産の拡大、近代企業の宿命」も資本の自己増殖そのもの、もしかしたらコソーリ「資本論」を読破していたのかも、まあ、それはべつにして、クリフォード・ヒュー・ダグラスという人は”秀才”だったのだとおもいます。本物の経済学は、銀行資本に飼い殺しにされた経済学者には決して見ることのできぬ、真実を暴き出すことができる、哲学者のマルクス、ビジネスマンのリカード、そしてダグラス。大変よい話を読ませていただいたとおもっております。

せっかくですので、とりわけダグラスがマルクスの思考に接近しているとおもわれるところを抜粋してみます。


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「オートメ化が人間の基本的な欲求を効率的にどんどん満たしてしまう。その意味ではオートメ化は基本的には結構なことです。ダグラスも「オートメの製品は味気ないと言うけれど歯ブラシや鉛筆とかそんなものを手仕事で作ってどんな意味があるのか」と言っています。オートメ化できるものはどんどんオートメ化すべきだ。オートメ化が進むことによって、人間はつらい、単調な労働から解放されるのであると。問題はむしろオートメーションがちっともそれに見合う恩恵を庶民にもたらしていない、豊かさをもたらしていないことです。逆に人々を機械による失業などで苦しめる形になってしまっている。こうして豊かさの中の貧困というべき現実が生じている。」


「だから政府が自ら通貨を発行すること自体はいいんですが、何が公共の利益かについてのしっかりした人民の合意があり、その合意を反映する政府があり、それをきちんと実行する財務当局があること、それが政府通貨の発行に不可欠な条件です。皆さんもご存知のように、最近自民党の一部で政府紙幣をやったらいいという議論が出てきています。自民党は散々利権バラ撒き型公共事業をやってきたけれど、今は国家財政の大赤字のせいでそれになんとかブレーキがかかっている。そこに政府紙幣の話が出てきて、これはいいアイディアだ、これでまたノーブレーキでバラ撒きができるわいと思っているのなら、とんでもない話です。」


「まず、生産はあくまで人々の消費のためにあります。だから経済は生産と消費がプラスマイナスゼロで過剰生産とか過少消費がないことが望ましい。それゆえに価格は、それによって生産と消費が均衡するようなものであるべきなのです。ところがダグラスが実際の商品の価格を調べてみたら、その大部分を構成しているのは生産設備の減価償却費や銀行への返済や将来に備えた研究開発費などで、労働者の賃金給与は僅かなものでしかなかった。つまり機械制大工業の時代には、価格は需要と供給の均衡によって自ずと決まるという古典経済学の説はもう通用しないのです。

そしてこの価格の歪みという問題の解決策は市場の中から自然に出てくることはない。というのも、その根本原因は、銀行が自分の金融的利益の観点で実体経済に介入し社会の生産と消費を左右していることにあるからです。」


「ところでダグラスは、ベーシック・インカムではなくて国民配当(National dividend) という言葉を使っています。これは配当なんだと。どういう意味で配当なのかというと、まず、社会の結合と協力から新しい富が生まれるんだということですね。

個々人の労働の成果とか対価ということではなくて、人々が結合し協力すること自体から新しい富が生まれる。そうした富は言うならば、共通の富のプールをなしている。その共通のプールから富をもらう、引き出す権利は誰にでもある筈だということなのです。それは誰がどれくらい懸命に働いたかとか、そういうことには関係ながない。しかし生産は個々人の労働能力の結果や成果であると考えているかぎり、この発想は出てこないでしょう。富とは共通のプールをなすものという発想がないとね。そこでダグラスの独特の主張なんですが、彼は文化的遺産、カルチュラルヘリテージというものを強調します。これは彼のエンジニアとしての現場体験から出てきた認識です。」


「そして冒頭で申し上げたケインズの言葉ではありませんが、基礎所得が保証されたらビジネスはやらずに芸術や学問や文化活動に携わる、そうした人たちがいっぱい出てきて、どこに問題がありますか。そういう人たちは購買力で経済に貢献してくれればいいんです。そういう文化で社会に貢献する人々こそ真の国力を作り上げるでありましょう。有能でバリバリ働く人が環境を破壊し社会の存続を危うくしている、それが現代という時代です(会場笑い)。」


「つまり現代においては生産の問題はすでに解決している。今日の問題は分配であり、それゆえにマネーを分配の手段として考える視点が必要である。そうしてこそマネーというものを客観的に、サイエンティフィックに考察できる。そういう意味でマネーは切符のようなもの、経済生活に参加して社会から排除されないための切符なのです。これを逆に言えば、現代の「貧困」とはたんにビンボーということではなくて、社会から排除され人間として否認されていることなのです。


「別の言い方をするならば、現代においてはマネーは一種の生活インフラ、電気や水道のような生活インフラだということです。それを呪物崇拝で、マネーとは何か神秘的な力を発揮する力や特権の源泉と思う、そういう発想は根本的に間違っています。結局マネーを価値を保蔵する手段とみなすこと自体が呪物崇拝なのです。そういう意味で、人民が合意した公共の利益に基づいて発行される公共通貨ならびに国民配当は、マネーを人々の生活インフラに変えていくための制度です。もちろんチャンスがあったら商売をして儲けることは否定されていません。しかしマネーはそれ以前に基本的に生活インフラでないと困るということです。さもないと経済がおかしくなります。」


「現代社会は今後、この焦点をめぐって揺れ動くことになるでしょう。そして問題をさらに掘り下げてみると、これはマネーについての考え方の対立であることが分かります。マネーは特権と権力の行使を可能にする神秘的な呪力を発揮するものという考え方。そうではなくて、マネーは万人が人間らしい生活を自由に享受するために社会の連帯から生まれた生活インフラの一種であり、マネーによって人間は美しく楽しい不安なき人生を生きることができるという考え方。この二つの考え方の対立なのです。

そして現に、これは時代の争点になってきています。オバマ・ブームのアメリカでも、経済危機が深まる中で社会信用論に近い主張を掲げる動きが随分広がってきています。連邦準備銀行を廃止せよ、ベーシック・インカムを実施せよ、という議論は少なくともオンライン・メディアではすでにありふれたものになっています。そしてアメリカ人は、アメリカで最初にベーシック・インカムの実現を訴えたのは公民権運動の偉大な指導者マーチン・ルーサー・キング牧師であったことを思い起こしています。日本でも似たような動きが連鎖反応のように広がる可能性があると思います。それにこそ期待しております。

そして冒頭に申し上げましたように我々が直面している現実が恐慌であるとするなら、恐慌は社会信用論が提示した三つの方策、公共通貨、国民配当、正当価格、とくに最初の二つですね、これによる以外に解決されることはないであろうと確信しております。」

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7.いかになしとげるか

すばらしいビジョンです。時代が時代なら速攻で特高警察が踏み込んできて一斉検挙ものの内容、社会主義のある一定段階での姿が論じられているとおもいます。ただ、これを素晴らしいアイデアとして賞賛することはいくら賞賛してもいいともうのですが、はたして、実際にいかにして実現するか、実践的な運動をどう構築してゆくかという問題となると、関曠野氏ははたして、金融資本の解体、国家による社会的富の直接的な生産と消費への再分配が、既存の国家の枠組み自体を根底からぶちこわすものであり、それをなさんとする勢力があれば、国家権力は、警察&軍をもってしても徹底的に粉砕するであろうことが理解できているのかははなはだ疑問なところではあります。 それほど氏はつきぬけてマルクスばりの「革命的」なことを説いていると私は感じています。

不良債権で真っ赤に燃え上がる銀行資本に脱糞ものの巨額な公的資金を投入して恥じないのは、それが、まさに国家の心臓であり、それにとってかわって国家が、直接的に最低必要経費分をのせた超低金利の融資をおこなうなら、銀行資本はだまって滅ぶにまかすだろうか、外資はそれでも投資を続けるだろうか、そんなことは絶対にありえないと私は思う。

「だから政府が自ら通貨を発行すること自体はいいんですが、何が公共の利益かについてのしっかりした人民の合意があり、その合意を反映する政府があり、それをきちんと実行する財務当局があること、それが政府通貨の発行に不可欠な条件です。皆さんもご存知のように、最近自民党の一部で政府紙幣をやったらいいという議論が出てきています。自民党は散々利権バラ撒き型公共事業をやってきたけれど、今は国家財政の大赤字のせいでそれになんとかブレーキがかかっている。そこに政府紙幣の話が出てきて、これはいいアイディアだ、これでまたノーブレーキでバラ撒きができるわいと思っているのなら、とんでもない話です。」

という、とんでもない話が現実とおってしまう可能性はおおいにあろうかと思うのだけれど。そうでないのなら、やはり、民衆の怒りを組織して、暴力としてそれを解き放つ、暴力革命をもって「何が公共の利益かについてのしっかりした人民の合意があり、その合意を反映する政府があり、それをきちんと実行する財務当局」を民衆自らが自らの手でつくりだせるように変革せねばならいでしょう。

それほどに関曠野氏の提示したものはとてつもなく大きくて、重い。数年に一度の清き一票を、たいして面識もなく人柄も知らぬ、候補者に投じてなしとげられるようなチープなシロモノではまったく無いと私はおもうのですが・・・


さて、必要以上に長文となってしまいました。いま、今週納期の内職をしています。かなりいそがしく、PCのモニターを連日20時間ちかく眺め続けての作業で、頭がぼーっとし、目がしょぼいをとおりこして、眼球がいたいです。えーと、いただきましたコメント中の「労働は人の本質でありますが、人の本質は労働ではありません。つまり労働は人の本質を構成する一パーツです」と、「貨幣と労働とを2項対立的に扱ったもの」の二点がどうしても理解できなかったので、お答えすることができなかったことを最後に付け加えさせていただきます。

愚樵さまの独創的にして柔軟、かつへそ曲がりな(笑)思索は、ともすると、ドグマにおちいりがちな、というかドグマそのものかもしれないが、統一した世界観で石のように凝り固まった、私の粗末な脳髄に活力をあたえてくださいます。そんなわけで、まいどたのしく記事を読ませていいただいておるしだいでございます。

まあ、ですから、”くわくわ88”とおなじじゃん!などとつれないことをおもわず、これからもよろしくお願い致します。あ!、それから、TBいただきましてありがとうございました。m(_ _)m

おはります。

なお、コメント欄への投稿にかえて、サシでのやりとりを希望することもあるので、そうしたときのために新たにカテゴリーを設けることにしました。”業務連絡”というカテゴリーを設定します。



Comment

 秘密にする

各々のスタイル
薩長さん、お忙しいさなかに私に向けてのなが~いエントリーをありがとうございます。長いエントリーは私も得意技ですけれども(苦笑)、薩長さんも負けず劣らず、ですね。

さて。一応全文目を通させ頂きましたが、本文の方へのコメント(再反論?)にはかな~りエネルギーを要すると思いますのでまたの機会に譲らせていただくといたしまして、“おわび”の方へのコメントをさせていただきたいと存じます。

私にとってしますれば、薩長さんの“そっと囁く”も“おわび”も、薩長さんの個性でありスタイルであります。またわくわく氏の態度も同様です。わくわく氏と「同様」としてしまうと薩長さんにはご不満もあるやもしれませんが、それぞれのスタイルと受け取ってしまえば各々の個性に過ぎず、そうした意味では私にも私独自のスタイルがありますし、そのスタイルを批判されたこともあります。お互いさまなのだと思うのです。

ただそのスタイルで得をしているとか、損をしている、とかいうことはあるでしょう。自分の意見を他人に理解してもらいたいと希望するときに、イソップの物語にある北風がよいのか太陽がよいのか、その選択によってその人物の「希望」の質も大方の察しがつこうかというものです。すなわち他者との「垂直的」関係性を希望しているのか、それとも希望は「水平的」なのか、ですね。「垂直的」「水平的」のいずれが優れているといった絶対的価値判断は出来ませんけれども、私自身の個性として、いずれを好むかという判断は、明確なものがあります。
愚樵 | URL | 2009/05/28/Thu 17:09[EDIT]
愚樵さまありがとうございます
まあ、本論はさておき、ガイストはご理解いただけたようで、そして、なによりも最後まで読んでくださったことを感謝いたします。

私も、つとめて短く書こうと努力はしているのですが、書き出したらそれなりのボリュームになってしまうので、実は各投稿先用に幾つかの文書フォームを太郎ちゃんでプリセットして使い分けています。このたびは、無制限モードです。ちなみにお玉さまのところは1000文字以内用フォームという具合に。

やはり、対話ですので、ご理解いただくという姿勢で書くことを念頭に置くと、どうしても例をひいたりとかしますので長くなりがちです。くわえて、「それはちがう!こうだ」と書けば簡便なのですが、感情的反発を引き出しがちなので、なるべくひろく深く、相手さまの論を包み込むように書けたらいいなあと心がけています。
するって~とどうしても長くなりがちで・・・

このたびの話も、私に能力があれば半分以下で書けるのかもしれませんが、物象化にせよ、一国社会主義にせよたいへん難しいテーマなので、けっして書ききれてはいませんし、伝えきれていないとおもっています。実際、当初書いた量の半分以下に削り落としたものなので、話の展開が悪いです。そんなわけで小見出しをつけさせていただきました。

マルクスやレーニンはときに相手をボロクソにこき下ろしていたりしますが、それはあれだけの内容があってのことで、”庭木の盆栽”がまねて美しいものではないとおもっています。

まあ、私は、相手さまのコメント欄では、いろいろと字数の制約があったり、横やりがはいったり、それもたのしからずやかもしれませんが、十分な話ができないとおもっております。そんなわけで、持論展開用に”業務連絡”というカテをもうけました。めったに使用しないとおもうのですが、たまにはつかうこともありましょう。

本文に関しましては、まだまだ先へ向かって、ぼちぼちと対話させていただければ当方もこれにまさる幸いはございません。ただ、意外に、マルクス氏が思い描いていたものは、愚樵さまのそれとそう違いないのではないかという気が頭をかすめたということを付記しておきます。

真摯な愚樵さまを敬愛しております、今後とも飽きず、懲りず、怒らずにて、おつきあいのほどよろしくお願い致します。 コメントいただきありがとうございました。
薩摩長州 | URL | 2009/05/30/Sat 00:47[EDIT]
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