たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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磨ぎ澄まされた白刃
肩こり指数 ★★☆

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ところで物理的諸力に関するいわゆる規則なるものの建前から言っても、戦争指導の理論が精神的量を理論の限界外に追放することは許されない、物理的諸力の効果は精神的諸力の効果と完全に融け合っているので、科学的手続きによって合金を分析するのとは異なり、両者を分離するわけにいかないからである。物理的諸力に関するどんな規則をとりあげてみても、理論はそこに精神的量の関与している事実を認めざるを得ないだろう。もし理論が、自説を一方的に主張する断定的命題の定立を能事とすべきでなければ、理論における精神的量の時分を無視してはならない。

かかる命題は、小心翼々として他説を憚る偏狭なものであるか、さもなければ何もかも自説の中に引き込もうとする僭越でとりとめのないものであるか、二者のうちのいずれかであろう。実際には、精神をまったく度外視した理論といえども、知らぬ間に自説の限界を越えてかかる精神的領域に立ち入らざるを得なかったのである。例えば、いかなる勝利でも、それから生じる精神的効果を考慮に入れない限り、とうてい説明せられえるものではないからである。それだから本編において論究する大方の問題は、物理的原因および結果と、精神的原因および結果との相半ばする組み合わせである。

或いはまたこう言ってもよい。― 刀剣に譬えれば、物理的原因および結果は木製の柄であり、精神的原因および結果は精鋼から成る刀身であり、磨ぎ澄まされた白刃である、と。

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いきなり難解な引用は毎度おなじみのクラウゼヴィッツの「戦争論」より「第三編 戦略一般について 第三章精神的量」からの引用である。

ちょうど一月ほどまえ、お玉ブログでちょいマジで論を張った。私はあちらでは原則、討論を想定していないので慎重さを欠いた行為であったし、本来獲得すべきレベルの人格を相手に、辛辣な言葉を安易にもちいたことは一定真摯な反省に値すると率直謝罪したことは、5月31日の記事のとおりである。
さて、お玉ブログでの当該の記事より私が戦略的撤退をしたのち、すでに50間近のコメントは収束するものと踏んでいたのだが、突如として降臨したスターリンの亡霊にいっきに盛り上がった。スターリン氏VSキンピーさんの激突は互いの拳が空をきるばかりとはいえ、なかなかみごたえはあった。

噂には聞いたが、こんな混じりっけ無しの真性ミリヲタは初めてみた。その思考はものの見事に、まるで絵に描いたような疎外された暴力論そのものであるが、私にとっては、向学のために真逆な意味で大変に参考になった。スターリン氏のように「主義」として体系化されずとも、帝国主義足下で暴力から疎外されて日々を生きる我々は常にそうした観念に支配されているものであり、であればこそ、強いヒーロー仮面ライダーに感動し、4km先の的に走行しながら正確無比にヒットさせるM1A2に魅了されたりする。庶民のうちに秘められた暴力を封印する分厚い綴じ蓋をぶち破る”言葉”を、一番強いのは自らの力を自覚した広汎な人民の組織された暴力であり、そうしたものとして暴力の本質はあるのだということをだれにも分かるように平易に語れねばならないだろう。

アッテンさんをミクシで論破ったといって登場したスターリン氏の想定している戦争は、どうも端的にはただいま上映中のターミネーター4に登場の”スカイネット”で完成するようである。キンピーさんは”北斗の拳ワールド”と表現したがおおよそ酷く現実から遊離した、ヴィッツ大先生の有名な言葉「戦争は政治と異なる手段をもってする政治の継続である」というロゴスとは無縁な、機械的に両者を切断したところでの空想「軍事」主義に陥っているといえよう。そこには、軍事に先んじて政治が設定する”現実的”な目的の一片も垣間見ることができない。

たとえば、こんにち私たちが生きている現代社会においては、資本主義の帝国主義段階という歴史性に規定され、第一に世界的規模での資源と市場、領土の争奪をかけて国境線をひきかえるため、第二に過剰な基幹産業の固定資本を破壊更新する帝国主義的世界大戦は不可避な社会現象であると我々は認識しているのであるが、そうした帝国主義的侵略戦争は、第一の目的を逸脱するものではない。ただし、核との関連で言えば戦争で核が使用される可能性を完全に否定するものではないし、核が通常兵器と大きく一線を画す放射能の問題は、帝国主義者どもにとっては平気の平助であることはイラクやアフガニスタンでの劣化ウラン弾の使用が深刻な人間破壊を引き起こし続けている現状に鑑みてあきらかである。疎外された暴力の権化としての核は、帝国主義者にとって帝国主義軍隊自壊の恐怖と不信が生み出したものという話はとりあえずは、またのちの機会にということにしておこう。

政治は目的を決め、軍事はそれを達成する。そのための手段(武器)は目的が規定する。故本多書記長は「暴力の復権のために」のなかのたとえで「ストライキを弾圧するのに核はつかわない」と少々おおげさな例えをかいておられるが、戦争に限らず日常的にも、見上げるとたわわに実った柿をとるのに、スプリングフィールドM14狙撃銃を装備することがはなはだ滑稽であることはいうまでもなく、竹竿一本で十分なのである。こと力の行使である軍事に関しては、その目的そのものをぶち壊すような武器の選択はありえないということはいっそう真理なのだ。

クラウゼヴィッツ「戦争論」の凄さは、戦争における精神諸力に適切なポジションを与えたことであると思う。そして、国家と戦争との内的関連を精密に考察したこと。さらに故本多書記長は「戦争と革命の基本問題」のなかで、クラウゼヴィッツの考察をさらにおしすすめ、国家それ自体が内部にはらむ階級的分裂から再構成し、戦争と革命の区別と連関を解き明かしている。軍事は人がなすものである以上、そこから論じられるべきものである。武器を”ARM”と表現するのは武器はどれほど発展しても、所詮は”腕”の延長でしかないということをあらわしている。人を危めることは鋼のような思想的確信がなくてはならない。武器は勝つためとは別に、脆弱な思想性しか与えられない帝国主義軍隊の心の葛藤を逓減すべく発展してきたという側面をもっているのである。

武器のみで戦争を語るべきではない。「刀剣に譬えれば、物理的原因および結果は木製の柄であり、精神的原因および結果は精鋼から成る刀身であり、磨ぎ澄まされた白刃である」


次回「防御と攻撃の不均衡と補給」というお題で 不定期につづく(たぶん)



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