たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

チクリ社会
ついこのあいだ、とある国家試験の合格証書をはるばる「召集令状」に従い、県庁までとりにいった。寒~い日であった。

猫の件で懺悔したついでに、もひとつ懺悔すると、ずっと無資格でお仕事をしていたのである。まあ、医療関係、法曹関係に代表されるような無資格でやっていたら後ろに手がまわるような仕事ではないので業界全体を見回した場合「もぐり」がまだ多数派を占めているようなので、どおってことないのだけれど。

おりからのコンプライアンスの大合唱と表裏一体となったチクリ社会への急転換はまさに私的生産にもとづく労働の疎外と、労働の本質たる社会性の矛盾のあらわれといえよう。
さきに触れたことだが、「ずるっこ」しても儲かればそれでいいのだ。そうしないと個別資本は生き残ってはいけない。でも、そんな「ずるっこ」して世におくりだされた社会的価値は、社会の要求と対立する。その結果「ずるっこ」が世に知れたりしたら、とてつもないペナルティーが跳ね返ってくる。

つくづく最近思うのだがこの世はマッチポンプな社会である。多くの社会問題の大本は社会の生命ともいえる経済システムの捻れたコアのなかから生成される。捻れたコアの上に立つ頭脳たる政治はそれを修正しようとしてさらに捻れをくわえているように私には見える。もっともさらに激しく捻れば、一回転してもとに戻ろうっていうものでもあるが。

コンプライアンスを貫徹するには、そのために必要なコストを投じねばならない。それがこんにちの市場原理のもとでのサバイバルのなかで成り立つのか?大いに疑問である。
むしろコンプライアンスが企業にとってブランドにも似た付加価値となると同時に、選別排除のフィルターとして機能しているのではなかろうか。企業にとってそれが飛躍の試金石ととらえることもできようが、こんにちの「好景気」と裏腹の経営環境の厳しさに鑑みて、もれなく飛躍を勝ち取れるほど、そのハードルは低いことはあるまい。

実際、孫請け、曾孫請けでかろうじて生計をたてている末端に位置する私が、決して無視できないだけの準備と労力と資金を投じて、いまさらながら試験の問題が裸眼で見えないような歳になって受験をしたのは、ただ一点、「お客様企業」から資格をとらないと仕事が出せないよと言われた。という実にシンプルな理由なのだから。そこは、ニッポンの夜明けを見るまでは生きてゆかねばならないので、不本意な努力に力を注いだというわけだ。

このコンプライアンスとセットなのが公益通報者保護法だと思う。この法律のおかげなのか企業の不正がぼこぼこと暴かれまくっている。でるわでるわ状態。おかげで社会的正義が貫かれユーザーも社会も大安心という気分にもなるかも。でも、本質的には「ずるっこ」しても儲けたもの勝ちの企業なれど、一気に社会的信用(生産の社会性の表現)を地に落とすかも知れない伸るか反るかの大博打には躊躇してしかるべきだ。しかしにもかかわらずそこへと駆り立てたものは何だったのか?

平成の大不況という名の「大恐慌」である。あの「大恐慌」を境に戦後日本の資本主義のありかたは大きく変わった。それが「構造改革」の名の下に大胆に実行され、文字通り「構造」は「改革」された。導入された市場原理主義は「大恐慌」に疲弊しきった企業に競争を与え「勝ち組負け組」を生み出した。

「負け組」の延命のための伸るか反るかの大博打が「ずるっこ」だったのではあるまいか。もちろんはなっから、市場原理主義を逆手にとって「ずるっこ」狙いの山師もいたことは事実だろうし、それ以前から創業以来「ずるっこ」一筋というのもあってもなんら不可思議なることはない経済システムだが。
ともあれ、「ずるっこ」せざるおえない状況というものはあっただろう。それに対してコンプライアンスと公益通報者保護法をセットで処方することによって内部から崩壊を導き、轟々たる「国民の批判」のなかで過剰な資本を整理してゆくやりかたは、以前にとりあげたニッポンの夜明けで採用された殖産興業と地租改正の抱き合わせのような「匠の技」のようなものを感じてしまうのである。

私が最近常々思うことは、企業の不正が告発されるたびに「歓喜の声」「失望の声」が複雑に絡み合いながらマスコミを通じて報道される。やがて、そのことに慣れっこになってしまい、チクリが社会にあまねく浸透し、その矛先がやがて個々人へと向かうような日がくることへの危惧なのである。そんな社会はとっても暮らしづらいものとなると私は思う。

人によっては自警団もとなり組も古き良き封建社会の憧憬と重ね合わせて社会を守る「正義」を体現する、大切なコミュニティーと解する方もあろうが、残念ながら私は過去の歴史に照らし合わせてみて、そういうのはまっぴらゴメンなのである。

そんなことを、つらつらと考えながらエレベーターで8階にあがり授与会場でサインをして、仰々しく渡された証書ではあるが、そこに書かれていた厚生労働大臣マッスゾーエの名前に思わずムッとしつつ、するするとそれを筒に巻きお尻のポケットに差し込んだ。
そしたら周りから白い目で見られてしまったのである。まあ、動機は、私のつらつらと考えた内容によるところの行為なのであるが、もしかしたらチクリ社会は、気づかぬうちにもうすぐそこまで来ているのかもしれない。と言うお話でありました。

今日は、こぼれ種で咲いていた秋のジキタリスを貼っておきます。ちなみに猛毒です。

じきたりす


Comment

 秘密にする

問題は原因と背景ですね。
 中小企業の従業員が消費者、取引先への偽装、偽造などで社会問題になっている。ミートホープ事件での取引先への牛肉偽装、赤福、白い恋人、吉兆、日本マクドナルド事件での消費者への偽造などです。表面をみれば現場の従業員がいわば実行犯です。しかし、その原因と背景には中小企業経営経営者の従業員に対する命令がある。さらに、その中小企業経営者の命令の原因と背景には大企業自公政権のコスト削減、利益追求経営がある。

 社会問題は末端の現場で発生するが、問題はその原因と背景を除去することであり、いわば実行犯を処理して終わるから問題が繰り返される。

 とはいえ社会的な不正行為を行政機関、司法機関へチクル行為は必要であろう。しかし、問題はその原因と背景がどこにあるかを追究していく所にある。いわば実行犯を処理して終わるから問題が繰り返される。もちろん、企業の不正を行政機関へチクル場合は、企業という組織を相手にするわけだから、チクル人も労働組合、市民運動組織、政党などの組織を対置しながら中小企業資本VS労働者、市民組織。大企業資本VS中小企業資本・労働者、市民組織の共闘。という対等、平等原則を貫く必要がある。

 自警団、隣組については警察の役割であり、組織としては不要です。むしろ、組織として必要なのは警察権力という組織を規制する市民運動組織であり、警察の不正の原因と背景を社会へチクルという報道行為だといえる。

 要するに、従業員、労働者、市民が行政機関、司法機関へ行うチクリというものは第一に組織としての企業資本、権力への団結組織を対置した告発でなければならず、第二に、現場のいわば実行犯にたいしては不正行為に追い込まれた原因、背景を踏まえた対処が必要だということです。

 本質は資本主義と権力が人間を不正行為へ追い込んでいるという認識であり、人間を不正行為へ追い込む資本主義、権力を社会化、人間化する団結運動が歴史を人間化していくということです。

 「本質は資本主義と権力が人間を不正行為へ追い込んでいるという認識」これが決定的ですから、資本主義という私的生産を基礎とする階級関係の唯物史観哲学と剰余価値経済学を共に学習し、人間を不正行為へ追い込む原因を除去していく労働運動、政治運動していくことになりますね。
東西南北 | URL | 2007/11/29/Thu 19:42[EDIT]
こんばんわ東西氏
こんどは、一転して理論派の文章にて、とまどうよ私としては。中道を希望。

まあ、それはいいとして。今回はあまり深いところまで掘り下げることを回避して、つらつらと思ったことを書いてみました。なので曖昧さはあるだろうし、論はとても浅いものなので一応分類としては「たわいもない話」としているのであります。

まあ、そのうちにもうちょっと踏み込んでブルジョア社会における「法」とか「公共性」「暴力」などなど書いてみようとは思うのだけど、冬は頭がさえないんだよな~。園芸系に逃げそうな予感。

私は太陽電池のエネルギーで思考するエコな人間。なわけないだろう。という訳のわからないコメント返し。冴えないな、どうも。
薩摩長州 | URL | 2007/11/29/Thu 23:59[EDIT]
Track Back
TB*URL

Copyright © たわいもない話. all rights reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。