たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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「暴力の復権のために」と「薬害C型肝炎集団訴訟」
肩こり指数 ★★★★

私のブログで階級と同じようにしばしば登場してくるであろう言葉に”体制内”という言葉がある。ここでいう体制とは経済システムとしての資本主義を維持する国家体制のことであり、それは国家権力による暴力の独占に担保された、法イデオロギーの支配により「正当化」された体制のことである。

このあたりの仕組みを知るためにいままで、「資本論」をはじめ「家族・私有財産・国家の起源」「帝国主義論」「国家と革命」などを筆頭にさまざま書物に出会ってきた。そうしたなかでも、暴力の社会的本質に関する考察から国家と法の支配を論じ暴力革命の復権を著した、本多延嘉氏の「本多延嘉著作選第二巻」収録されている「戦争と革命の基本問題」の最後に書かれている、「暴力の復権のために」という論文は群を抜いて、他に比類なきほどに素晴らしいものであった。

さて、相互リンクしていただいているアッテンボローさまのところで「戦争と革命の基本問題」を連続物でとりあげておられるのだが、私の浅い理解とそれにもとづく早とちりからいらぬ混乱を招いてしまったことがある。そんなこともあって、以前から紹介させていただこうと思っていた「暴力の復権のために」なのであるが、私という浅学フィルターを介してでは、故本多書記長の意を正しく伝えることができないのではないか、と言う思いとのあいだに少なからざる葛藤をかかえてきた。

今回は意を決して、私が論文の一番のお気に入りとしている部分を誠に勝手ながら、一部引用させていただくことにした。ブルジョア政党ではないので、「著作権」などと言われることはないとは思うのだが、一応、この論文の著作権は革命的共産主義者同盟全国委員会にあることは明記させていただこう。ついでに、ただいま品切れのようであるが¥1900で本多延嘉著作選第二巻は通信販売していることもつけ加えておこう。


<「暴力の復権のために」一部抜粋>
周知のように、暴力の形而上学者と呼ばれるジョルジュ・ソレルは『暴力論』で、いわゆる暴力を「公権力の強力」と、総罷業をイマージュとする暴力とに理論的に分割し、後者のうちにプロレタリアートの神話の復活を要求したのであった。それは、ドイツ社会民主党を中心とする第二インター総体の修正主義化にたいするアナルコ・サンジカリズム的批判の極点をなすものであったといってよいが、だが、このような形而上学的な暴力の区分法によっては、なぜ暴力が国家権力の暴力(法的強制力)という形態をとって完成するのかという秘密をときあかすことはできないのである。
ブルジョア国家がどうして民衆の暴力―それが政治的形態をとったものであれ、非政治的形態をとったものであれ―を禁圧し、解体し、国家的独占に集中する傾向をもつのか、と言う問題は暴力そのものの本質にかかわるものとして解明されねばならないのである。

では、いったい暴力とはなんなのであろうか。暴力とは、じつは、共同性の対立的表現、いいかえるならば、他者への対立を媒介として表現されたところの共同性とみなすことができるであろう。本質的に人間の類的生活を他者(他共同体)との関係において極限的に表現するものであるからして、暴力は組織的な有機性として究極的な表現様式をもつわけなのである。
一匹狼なぞという暴力の美学的な形象は、暴力が支配者の独占的表現となり、抑圧と収奪の武器となり、民衆が自己の暴力性を喪失した状況のなかで生ずる暴力の観念的転倒いがいのなにものでもないのである。暴力は人間の類的性格に根底的に基礎づけられたものとしてのみ暴力たりうるのである。もちろん、人間の人間としての類的生活は、人間生活の社会的生産(それは、労働における自己の生活の生産と、生殖における他人の生活の生産を二契機とする)を根拠として積極的に実現されることはいうまでもない。

悠久の昔から、人間は個に死して類に生きる自己の本質を、社会として実現することをとおして大地の酷薄な試練に耐え、他の動物群との生存競争に勝ちぬいてきたのであったが、生産力の飢餓的な水準に規定された原始共産制の時代にあっては、他の共同体にたいするものとしてはその社会的生産力が暴力として発現したであろうことは否定すべくもないのである。暴力は人間共同体=類的生活の歴史的な分裂に根拠を有するものであり、それゆえ、その止揚はその人間史的分裂の止揚を意識的に推進する過程をとおして実現されねばならないのである。だが、人間社会がその分裂を止揚しえていないかぎりにあっては、他者との対立という粗野な契機のもとでではあれ、暴力が共同体を内的に規制し、その英雄主義を鼓吹する人間的表現であったことを見おとしてはならないのである。人間が人間を搾取し、人間が人間を抑圧する疎外された現代文明の階級的暴力と比較するならば、原始人達の戦争と略奪を主要な形態とする共同体間の交通様式の方がはるかに人間的だともいいうるのではなかろうか。

社会的生産力の発展は、地勢的条件によって制限されていた人間の交通様式をいっきょに拡大するとともに、人間共同体のせまくるしい地方的分裂を克服し、暴力として表現される粗野な共同性を止揚する人間史的前提を成熟させたのであるが、にもかかわらず、こうした前提条件の発展は、暴力の本質的止揚にむかってではなく、社会の階級社会への転化と、それにもとづく暴力の国家的独占をもたらしたのであった。すなわち、社会が階級社会に転化するとともに共同体の幻想的形態としての国家が形成され、それが共同性を表現するがごとく機能するようになったのであるが、それは同時に、共同性の対立的表現としての暴力が、自己を喪失し、自己に敵対する外的な暴力に疎外されていく過程を示すものであった。
ところで、このような暴力の分解、いいかえるならば、生産者からますますはなれ、かれらにたいする支配力として、かれらの剰余労働を略取する強制力として外化してゆく暴力と、支配階級にたいする抵抗と反乱をとおして自己表現を回復していく暴力との分解のなかで、前者のヘゲモニーのもとに後者を擬制的に包摂していく規範的役割をはたすものが、いうまでもなく法の社会的性格であった。もともと、法現象は、国家権力を実体的基礎として統治形態を規範化していく過程であるが、それは、人間史的に再構成するならば、歴史形成の根源的契機としての人間の社会的行動様式を、行動主体の自由な意志にもとづくものから、超人間的で外的な運命力―それは、支配階級の階級意志として現象するのであるが―に規定されたものへと疎外する過程以外のなにものでもないのである。

ところが、このような人間的暴力の疎外された規範化でありながら、あたかも人間行動を超人間的に規制する運命力のごとく現象し、階級利害を貫徹していく法現象にたいして、共同性の対立的表現としての暴力を歴史推転の根源的力として積極的に復権し、宿命的な法規範から目的意識的な人間実践を解放していくという立場と展望にたつのではなく、法を事実追認的に整合化し、その適正な運用によって人間社会の抑圧的秩序を永遠化しようとしているのが法イデオロギーの転倒した構造なのである。(改行は私、薩摩長州によるもの)



ついせんだっての、薬害C型肝炎集団訴訟への大阪高裁によるペテン的「和解」の線引きを断固としてはねのけた原告団の勇気ある決断に感動した。あっぱれだ!自らの命を削ることになろうとも、すべての被害者の救済をもとめて止まない意志こそまさに人の心だ。

たいする、大阪高裁の和解案のお粗末さはなんだ! はからずも、みずから法の支配の破綻をさらけ出すもの以外のなにものでもない。司法の合理性は幻想にすぎないことを満天下にあきらかにしたものだ。行政の長である福田総理のあの他人事のような口ぶりはなんだ!

このことは、さきの記事の階級でもふれたことだが、社会の主人が企業であることが目に見えるかたちであらわれたと言える。そして、その結果、もたらされた薬害が体制内に包摂することができないほどの大きな問題であった場合、国家はこのように民衆を見殺しにするだろう。だ・け・ど・・・民衆の怒りはそんな国家体制にたいし暴力をもって体制を突き破るような闘をもって貫徹されるものとなるだろう。でなければ、すべての薬害被害者は救われることはない。全国原告団の山口さんや福田さんがいついつまでも涙ながらに総理福田に頭を下げてお願いし続けるとおもったら大間違いだ。なめんなよ。

おそらく一生片付かない机の上に置いた「秘宝」著作撰第二巻と老眼鏡
著作選第二巻

Comment

 秘密にする

階級対立=暴力関係を消滅させる方法。
 これを実践してきたのが被支配階級の歴史であって、その頂点が今現在の議会制民主主義を方法とする国家権力の獲得闘争としての政治運動ですね。議会制民主主義による政治運動、闘争が支配階級によって弾圧され不可能にされるという歴史の反動が決定的になった時、被支配階級の対抗暴力革命闘争が必要性、正当性を獲得するのでしょう。

「社会の主人が企業であることが目に見えるかたちであらわれたと言える。そして、その結果、もたらされた薬害が体制内に包摂することができないほどの大きな問題であった場合、国家はこのように民衆を見殺しにするだろう。だ・け・ど・・・民衆の怒りはそんな国家体制にたいし暴力をもって体制を突き破るような闘をもって貫徹されるものとなるだろう。でなければ、すべての薬害被害者は救われることはない。全国原告団の山口さんや福田さんがいついつまでも涙ながらに総理福田に頭を下げてお願いし続けるとおもったら大間違いだ。なめんなよ。」

 歴史を暴力革命の時点に反動させる支配階級に対して、議会制民主主義と司法の共同化、人間化を進めていき、階級対立を止揚し、消滅させる人間実践こそ人類の類的生活、共同体としての階級闘争だろう。
東西南北 | URL | 2007/12/18/Tue 23:19[EDIT]
今こそ階級的暴力の復権を
 今の政治情勢を見た時に、自民・民主という二大ブルジョア政党による支配が労働者階級を抑圧している中で今ほど革命的で階級的暴力の復権が求められている時はないと思います。本多書記長の「暴力の復権のために」は今日ほど読まれるべきでしょう。私も何とか「戦争と革命の基本問題」の紹介をやり遂げて行きたいと思います。
アッテンボロー | URL | 2007/12/19/Wed 22:11[EDIT]
こちらにも少し。
最近、中国の帝政について、勉強し直すというか、初めてやり掛けつつあります。
韓非子の理想とか、宋代までの地縁関係が崩壊し、その後、宗族関係に限定されてしまったこととか。阿Q階級という仮説に導かれて・・。おかげで、今まで見えなかった・気付かなかったことことが少し、開けてきました。陰謀論とか、マイノリティー問題とかその他諸々。
西洋の哲学だけでは、見えにくいものがあったような気がします。
三介 | URL | 2007/12/29/Sat 08:45[EDIT]
そうですね
西洋の哲学だけではアジアは解せない特殊な事情はあるとおもいます。
どこの国家でもその歴史的過程はそれぞれ個別具体性があって、なかなか原論どおりではありません。古典古代社会とアジア古代社会を個別の範疇として理解すべきか否か、いわゆるアジア的生産様式論争とよばれるものがマルクス経済学・歴史学において存在いたします。まあ、ワタシ的にはあまり関心が薄いところではあるのですけど。
私は哲学には疎いので三介さまには、多くを学ばせていただいております。
薩摩長州 | URL | 2007/12/29/Sat 20:56[EDIT]
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アルバイシンの丘 2007/12/23/Sun 20:07
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