たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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「決めポーズ」
肩こり指数 ★★☆

「戦隊ものヒーロー」のなんとかレンジャーにはいわゆる「決めポーズ」というものがある。
かの永遠の名作時代劇ドラマ「水戸黄門」には、印籠をだして「ひかえおろう!」という「決めポーズ」がある。私ら庶民はここに最大限の魅力を感じてしまうわけなのであるが、多くの歴史的評価をくぐりぬけこんにちにいたるまで生き残った古典的名著にもそんな「決めポーズ」にも似た印象深いフレーズがある。

最近とあるブログでみかけた奇妙な表現に「ここがロドスだ、ここで跳べ」という言葉がある。

私はこの意味知らなかったのだが、そのブログで初めてその意味を教えてもらった。ひとつ賢くなった。ちなみにがぜん興味が湧いたのでググってみたら膨大な検索結果が出てきた。あまりの多さにもしかして、世界の常識? 知らなかった自分の無知を思わず恥じてしまった次第なのである。

その意味というのは、イソップ物語のエピソードの一つで、とある街で法螺吹き男が「オレはよ~ロードス島(ロドスのこと)でさ~、ものすごく高くジャンプして(たとえば20mくらいの感じ)それを見ていた人みんなを仰天させたんだぜ~。嘘だと思うのならロードス島にいって聞いてみな」とえっらそうに自慢をしていたらしい。そしたら、そこに居合わせた男が「ここがロードス島だよ!ここで跳んでみろよ」と言って法螺を一蹴したというお話から、真実のまえに理屈はいらないといった意味合いから「論より証拠」といった意味をもっているのだそうだ。

それに似たような表現で、「ここにバラがある、ここで踊れ」というのがある。こちらはバラがここにあるということを、すでに事をなす支度は整ったと言う意味を込め、ここで踊れという言葉に躊躇することなく事をなせ!といった意味であるそうな。
この二つの表現はどちらの意味にも使われているようだ。また、この他にも解釈はあるらしい。

さて、意味は2008年に知ることになったのだがこの言葉、いまをさかのぼること数十年前に知っていたのだ。初対面は大学で比較政治論の講義で「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」を扱っていたときのことだった。冒頭の一発目にこの言葉は登場していた。

「 19世紀の諸革命のようなプロレタリア革命は、たえず自分自身を批判し、進みながらもたえずたちどまり、すでになしとげられたと思えたものにたちどまっては、もう一度新しくやりなおし、自分がはじめにやった試みの中途半端な点、弱い点、けちくさい点を、情け容赦もなく、徹底的に嘲笑する。この革命は、自分の立てた目的が茫漠として巨大なことに驚いて、たえず尻ごみするが、ついに、絶対にあともどりのできない情勢がつくりだされ、諸関係自身がこう叫ぶようになる。
ここがロドスだ、ここで跳べ! ここにバラがある、ここで踊れ!」

その筋ではプロレタリア革命が如何なる性質のものであるかにふれた有名な下りとされている記述である。だけど、その当時ノンポリだった私はこのマルクスの壮大なフランス革命叙事詩のようなこの著作に関心がもてず、一年通しての講義でもボナパのことくらいしか記憶に残っていない。当然意味不明のままこんにちに至っていたというわけだ。

つぎにこの言葉に遭遇したのは、資本論のなかだった。といっても如何せん意味が不明なのでな~んの関心も示さなかったのだけれど。それは、第一巻の第二編「貨幣の資本への転化」第二節「一般定式の矛盾」の最後に登場する。

「貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきである。したがって等価物どうしの交換が出発点として考えられる。まだ資本家の蛹として存在しているにすぎないわが貨幣所有者は、商品をその価値で買い、その価値で売らねばならぬ。そしてそれにもかかわらず、この過程の終わりには、彼が投入したよりも多くの価値を引き出さなければならない。彼の蝶への発展は、流通部面で行なわれなければならず、しかも流通部面のなかで行なわるべきものでもない。これが問題の条件である。ここがロドスだ、ここで跳べ!」

いわゆる流通過程で価値増殖は生じないということをここ第二編の「貨幣の資本への転化」で論じているのだが、その結論への誘いの言葉がこの難解なる下りなのである。

「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」と「資本論」で登場するこの喩え「決めポーズ」がマルクスはとてもお気に入りのようだ。検索から知ったことなのだが 「 ここにバラがある、ここで踊れ !」というのはかのヘーゲル大先生が「法哲学」という自著の冒頭でマルクスに先だち使っているそうだ。マルクスが大先生から多くを学んだ証といったところかも知れない。

ところで、せんだって記事にさせていただいた「暴力の復権のために」を故本多書記長はこう結んでいる。

「プロレタリアートの暴力性にかんする自覚もまた、けっして自然発生的に形成されていくのではなく、革命的前衛の組織的実体を媒介としてはじめて形成されていくのであり、しかも、それは、革命的前衛を中核とするプロレタリアートの暴力性の組織化と、それの政治的勝利を主導力として実現されていくのである。

革命的共産主義者の党は、プロレタリア解放の鼓吹者であるばかりでなく、その組織的実践のうちにプロレタリアートの暴力性を先行的に表現していく戦闘者集団でなくてはならないだろう。まさに、武装された伝道者として党が大地に確固としてたちあがったとき、はじめてそれは、政治と軍事との機械的分離をプロレタリアートの暴力の復権として統一していくことができるのであり、前衛指導部として歴史の試練にたえうる根拠を形成したことを意味するのである。

まさに、プロレタリアートの暴力こそは、破壊のための情熱のおたけびであり、建設のための理性のめざめであり、自由のための連帯のあかしである。人間社会に階級対立や社会矛盾のあるかぎり、プロレタリアートの暴力は、エジプトを脱出した荒野のモーゼのように、人間解放の炬火に焼かれながら休息することなくたたかいつづけるだろう。革命詩人ハイネによれば、知恵の女神は、オリンポスの山で、男女の神々が裸で酒や食物を酔いくらって楽しんでいたとき、こうした喜びのさなかにあっても、よろいをまとい、かぶとをかぶり、槍を手から離さなかったそうである。ギリシャ神話の知恵の女神が身をもって示した知性の暴力性を、現代の革命的前衛が自己の組織的実践としてうけとめるかどうか―七〇年代における革命の時代の到来は、このようなものとして準備されているのである。」
(改行は薩摩長州によるもの 本多延嘉著作選第二巻より引用)

世に天才とよばれる先哲はしばしば故事を引き、その溢れんばかりのパトスをさりげなく表現するようだ。それに裏打ちされたロゴスをうけとる凡人は努力を惜しんではならないということなのだろう。すべてを受けとろうと思うのであれば。
学問に王道無しという言葉の重さをあらためて感じさせる「決めポーズ」のような言葉 「ここがロドスだ、ここで跳べ! ここにバラがある、ここで踊れ!」なのであった。


寝しなに睡眠薬がわりにちびちび読み返す資本論 前回は大月のもの 今回は岩波
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しほんろん

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追随「肩のこる話」
難しい話は苦手ですので、肩のこらない話を。(笑)
①「貨幣の資本への転化」の項
昔学習会で、価値を価格と間違えて、流通過程でこそ価値増殖があると強固に主張された人がいました。
まあ、利潤を増加させるというくらいの意味だったのですけれど。
後で、分かる人と大笑いしました。
今では、「資本論」を読む人は、クロマニヨン人くらいしかいないかなぁ~?

たまに読み返すと、それは噛んでも噛んでも一向に減らないスルメのようです。顎は疲れますが、咀嚼を繰り返すことで脳には刺激となります。
偉大な人物の著作とは、そのようなものでしょう。

②「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」
あの本を読むのは、少々苦痛でした。
今、思い浮かぶことはそれくらいですわ。
完全に落ち目です。(笑)

③「暴力」
暴力=人間(たち)の間で、意思的合意が果たせない時に、発動される強制力と、私は概念規定しています。
と、言うことは、暴力の止揚を目指すことが、人間の一つの歴史的使命と措定されるのではないかと、考える次第です。

ただ、その疎外された合意をつくりだすために発動される暴力によって、人間は文化的にも発展を遂げることは確かなことなので、一概に否定することも出来ません。
実例。
イタリアでは100年以上の内戦が戦われたことがありますが、それはミケランジェロやダビンチを生み出し、文芸復興を準備したことに連なったとか。
一方スイスでは、何百年も平和を続けたが、生み出されたものは「鳩時計」くらいしかないと。

書き留めておいたノートを紛失してしまったので、ソースがいかなる著述だったのかを確かめることができませんが、実に含蓄のある指摘だと思わされた次第です
その価値的な判断は、未だに下せません。

そこがロドウス島なのですが、このロドウス島の地面は堅くて、人間的思考が地下にしみ込んで行ってくれません。
それは私が愚かであることの証左なのか、それともそこをロドウス島と考え違いしている所為なのかは不明です。
いや、いや、その双方である可能性が、ずっと大きいか。(笑)

失礼しました。m(_ _)m
土岐幸一 | URL | 2008/01/08/Tue 00:17[EDIT]
年改まって初コメありがとうございます
肩こり話としたものの、すでにおわかりのことでしょうが、引用ばっかりで実は、「ここがロドスだ、ここで跳べ」の意味もわからないまま、それらを一度よんでわかった気になっていた浅はかさへの反省話であります。

資本論は寝しなの酒がわりというか、脳がたちどころに疲労し3ページも読めば熟睡に至ります。

「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」は、学生のときの講義で一年かけてやってました。講義初日の例の下りを聞きながら寝たのが始まりで、その後もこれまた睡眠学習でありました。どうも私の場合、マルクスの著作は睡眠が条件付けされているような・・

太古の昔映画「まにあ」であった園芸家も「スイスの鳩時計」知っております。映画「第三の男」の名セリフであります。飯田橋の法政のお向かいにあった佳作座で見たような気がするのですがそのあたりはちょっと不明。まあ、それはさておき全共闘運動のさなか学生は猛然と学習したとのこと。そんな先輩同志に、いまの学生は学習してないな~と言われまくった私たちなのでありました。またのおこしをお待ちしております。

追伸、地デジテレビいっすね。接続も苦しみながらも勝利!おめでとうございます。
薩摩長州 | URL | 2008/01/08/Tue 01:36[EDIT]
暴力
 暴力は、正当防衛の問題ですね。例えば、搾取されている労働者が労働運動で合意を得られないからといって、会社の財産を「盗む」行為は正当防衛と言えるか、どうか、戦後の日本において社会合意を得られなかったテロリスト死刑囚を救出するために政治テロを敢行することは正当防衛と言えるかどうか、。

 労働価値説と貨幣の関係を認識しないと、ギャンブル経済、不労所得を批判する足場を失いますね。

 ただし、資本論の本質は労働所得、不労所得の関係、すなわち、労働価値説と貨幣に関係にあるのではなく、資本主義(労働力商品としての労働者の存在)段階における階級社会での剰余価値生産にありますね。ゆえに、階級社会をなくせば、労働力商品としての労働者も剰余価値も存在しなくなります。では、階級社会を無くすとは何か?ここに民主主義が出てきるわけですね。企業は誰の物か?自治体は誰のものか、国家は誰のものか?これが民主主義の経済的な基礎ですね。
 
東西南北 | URL | 2008/01/08/Tue 05:56[EDIT]
年改まっての初コメありがとうございます
いらっしゃい、東西氏。お玉おばさんのところへすっかりはまっている今日この頃です。
さて、故本多書記長は、前回紹介した中で「暴力とは、じつは、共同性の対立的表現、いいかえるならば、他者への対立を媒介として表現されたところの共同性とみなすことができるであろう。本質的に人間の類的生活を他者(他共同体)との関係において極限的に表現するものであるからして、暴力は組織的な有機性として究極的な表現様式をもつわけなのである。」といっております。

そして、東西氏の問題意識に符合するものとして、故本多書記長は「本当は議会的コースをとって合法的に革命が達成されるのが望ましいのだが、国家暴力が不法にもその道をとざしたからやむをえず暴力革命という非常な手段をとるのだ、と考えた方がよいのではなかろうか、と。

この疑問は、考慮すべきいくつかの問題をもっていることはいうまでもない、トロツキーもいうように、軍事問題は大衆獲得の論理としては防衛的に提起されるという政治科学的法則をわれわれは徹底的に重視しなければならない。また、防御優位の軍事科学的教訓を無視するならば、われわれはしかるべき制裁をうけることになろう。だが、階級闘争の基本理念にかんするかぎり、われわれは同時に、革命その内的性格に規定されたものとして、暴力として表現されることを公然と宣言しなくてはならないのである。

もともと共産主義とは、プロレタリアートによる資本の積極的止揚として実現されるものであり、それゆえ、それは、法理念的にはブルジョア的私有財産への専制的侵害を前提とせざるをえないのである。たしかに、プロレタリア階級闘争は、究極的には暴力の止揚をめざすものであることはいうまでもないが、しかし、同時に善意や宣言によって暴力は克服されうるわけのものでもないことを直視しなくてはならない。

いなむしろ、非和解的な階級闘争や社会矛盾の存在にもかかわらず、暴力の排除を論ずるものは、客観的にも主観的にも支配階級の暴力性を擁護するものなのである。なぜならば、それは、けっして国家によるブルジョア暴力を排除するものではないからである。」(改行は薩摩長州によるもの 本多延嘉著作選第二巻より引用)といっております。

民主主義はブルジョアとプロレタリアがともに手をたずさえて、旧封建勢力に暴力をもって立ち向かい勝利することをとおして勝ち取られたもの。にもかかわらず革命の途上でブルジョアはプロレタリアをあっさりと裏切り、ときに封建勢力とも結び、プロレタリアを抑圧する道を選んだ。民主主義は精神世界においてのみしか達成されず不完全なものとしてこんにちにいたっております。そこらへんのお話が「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」という著作には描かれております。

こうした認識を前提として、お玉おばさんの日共のビラまきと死刑存廃へよせられるコメントをながめている私なのであります。新春特別コメントかえしという気持ちで思いっきり引用をしてみました。本年も眼前の真っ暗を明々と照らすような理性の光を得るべくともに学んでまいりましょう。今年もよろしく。
薩摩長州 | URL | 2008/01/08/Tue 14:51[EDIT]
よきひと東西氏へ追伸
そういえばベーダー卿は捨てハンつかって、津久井先生のところへまた足繁くコメントをしているようだな。彼にとって反省書き込み禁は一週間ほどの拘束力も自己にないらしい。

「うない」の熱烈ファンとして、更新がとどこおりがちなのがなんとも残念な次第である。まあ、それはさておき東西氏にはまったくの筋違いで、越権行為で、さしでがましいようなことをお願いするようで心苦しい限りなのだが、かの卿の挑発的コメントにのって、自爆テロを敢行するようなことはやめようね。正直私も少なからずそんな衝動をおさえつつ先生の記事を読ませていただいているものであるのだが。なにより先生が気の毒だし、迷惑だろうから。

捨てハンで登場してくることからして、論の正当性はすでに失われる。とはいえ、おちゃらけで私も「サッツーマ・チョーシュー・イリイッチ」というセカンドネームを持っているが(自爆)たわいもない戯れ言として聞いてくださいな。お願いいたします。m(_ _)m
薩摩長州 | URL | 2008/01/08/Tue 15:49[EDIT]
サンクス。
「まあ、それはさておき東西氏にはまったくの筋違いで、越権行為で、さしでがましいようなことをお願いするようで心苦しい限りなのだが、かの卿の挑発的コメントにのって、自爆テロを敢行するようなことはやめようね。正直私も少なからずそんな衝動をおさえつつ先生の記事を読ませていただいているものであるのだが。なにより先生が気の毒だし、迷惑だろうから。 」

 ありがとうございます。理解者がいてくれると嬉しいです。津久井さんもまいさんみたいにwakuwakuだけをアクセス禁にすれば、コメント欄に平和が戻るんですが、東西もろともアク禁にすることが理解不能なのですね。原因はwakuwakuにあるんだから、彼を除去すればいいわけです。

 それにしても1ヶ月間のアク禁はwakuwakuも同じはずですが、HNとアドレスを変えて、書き込むとは完全に異常者ですね。それを容認している津久井さんも何を考えてるのか不明ですが、記事内容とwakwakuへの返信を見る限り、「東西さんはwakuwakuに絡まないで、コメントしてください。彼はこちらで対処します」ってメッセージかなって思っています。ですから、津久井さんの所では今後は完全にwakuwakuは無視してコメントすることにします。それにしても東西が自爆テロ(笑)
東西南北 | URL | 2008/01/08/Tue 17:57[EDIT]
Reそれにしても東西が自爆テロ(笑)
いやいや、失礼つかまつった。私(達)はテロを(ブルジョア)社会一般でいわれるように絶対悪とはとらえてはいないので。良いテロと悪いテロがある。これは、さきに「暴力の復権のために」と直接に結びついての話ですが。テロは他でもない暴力ですが、電車の中で執拗に女性にからみまくる男がしている行為はテロであるし、それに周りの市民が数人で立ち上がりその卑劣な行為を実力行使で止めさせるのもテロです。前者は悪の暴力としての白色テロ、後者は正義の暴力としての赤色テロ。ちょっとたとえが貧弱な例ですが、そういうことです。私(達)はそんな正義の暴力を讃えるもので、どちらも暴力として忌み嫌う事を退けるものであります。

ブルジョアイデオロギーの忠実なる代弁者にたいして、自らの書き込み禁をもろともせず真っ正面から対峙する東西氏のスタンスはそうした暴力論に立脚したものにとってはそう理解に苦労はいらないのだが、(ブルジョア)社会一般のイデーはそれを双方の言葉という暴力のぶつかり合いととらえ、喧嘩両成敗としてどちらも忌み嫌うものであります。

そういった意味合いから、相手とともにアク禁となることをも本望と腹を据えきって事をなすはワタシ的には理解の範囲内ではありますが、ブログ主さまやそこに集われる一般市民の方々からは理解を得ることは難しいものであります。「トロツキーもいうように、軍事問題は大衆獲得の論理としては防衛的に提起されるという政治科学的法則をわれわれは徹底的に重視しなければならない」というのはこういうことであります。

昨年わんばらんすでそこに集う方々がまさに一斉武装蜂起のように言葉をひとつにしたからこそ、なしえたものがあったのではないでしょうか。ブログ主さまにたいして私たちコメントをする側はあくまでゲストであります。私はコメントの基本は同意であると考えております。なぜならゲストにとって同意できない記事にははなっからスルーする権利があるからであります。であればこそ民主主義と法を尊ぶ津久井先生は、積極的排除はしかねておられるのだろうと。だが、同時に全く卿のコメントを読むべき必要もないとも心得ておられるのではないでしょうか。ちょっとたわいもない私見をのべさせていただきましたが、最後にかさねてもういちど自爆テロとは失礼いたしました。
薩摩長州 | URL | 2008/01/08/Tue 20:35[EDIT]
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