たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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イソップ寓話
肩こり指数 ☆☆☆

今日も小雪舞い散るさっむーい一日だ。暖冬かと思っていた今年の冬だったのだがやはりそこは腐っても鯛、地球温暖化とはいっても冬、大寒前後にしておもいっきり寒くなることに文句をいうのは大罰当たりというものである。

てなわけで、粛々と事務ワークに励む一日なのであるが、休憩をかねてちびちび本を読んでいる。何を読んでいるかって言うと、ついこのあいだ社会科学の書籍が一切ない書店で発見したイソップ寓話集(岩波文庫)なのである。

こいつ1つの話が短いからいつでも中断できるので休憩に読むのにとても都合がよい。なにもこの歳になって読まんでもよかろうともおもったのだが、このあいだの「決めポーズ」という記事でとりあげた「ここがロドスだ ここで跳べ」に大いに感銘をうけそれがたまらなくイソップ寓話への興味をかきたてたのだ。

決して恐れ多くも、ヘーゲル大先生やマルクス尊師のようにイソップの言葉を使ってカッコイイ「決めポーズ」をしてやろうなどという下心ではない。そもそも、私の乏しい知恵が生み出す文章にそれはなじまないようだ。意味がわかったことが嬉しくて、つい調子に乗って一回二回つかってみはしたが、顔から火が出て煙草が吸えるくらい恥ずかしい文章にしかならないことがよ~くわかった。

なによりも、こいつを読んでいるとそういった己の主体的力量を無視した行為の愚かさを指摘した話が山のようにでてくるのである。つまり、凡人は自分に無理のない内容を素直に書けばよいということなのだろ。無理して背伸びをした文章はつま先立ちのように不安定で、後ろから人差し指でちょっと押されたくらいでも大転けして怪我をするものだ。
とはいえその一方で、背伸びしないとつかめないものもあるし、押されて大転けしてみて気づくこともあるものなので、まあ徳は中庸でということだろうか。

話はついで、このイソップ寓話に絡んでなのだが”イソップの言葉”という表現がある。それは、左の筋の人間にはちょっと特別な意味合いをもっている。

その昔の奴隷制社会で奴隷として生きたアイソーポスは、抑圧された身分において人生訓を鳥獣になぞり語らねばならなかった。それは、おそらく「奴隷の身分で生いってんじゃねーょ」と主人にヤキをいれられるような時代だったのだろう。そのことから、1つにはことの真意を遠回しな表現をもちいて書きしるすこと。もう1つには、我々一般庶民が「自由平等」のこの世にあって実は社会の主人たる資本家様の哀れなる賃金奴隷であることをアイソーポス自身に重ね合わせ、”イソップの言葉”で語るというふうにいうのである。

このことは私の乏しい知識のなかで知る限りでは、レーニンの帝国主義論の序文のなかで登場する。

この小冊子はツァーリズムの検閲を顧慮して書かれた。だから私はよぎなく、もっぱら理論的な――それもとくに経済学的な――分析にごく厳重に局限しなければならなかったばかりでなく、政治について少数の欠くことのできない意見を述べるときには、最大の慎重さをもって、ほのめかしで、あのイソップ的な--のろわしいイソップ的な――ことばで、定式化しなければならなかった。ツァーリズムのもとでは、「合法的」な著述のためにペンをとろうとすれば、あらゆる革命家がそれにたよることをよぎなくされたのである。
 いま、自由の日に、ツァーリズムの検閲を考慮してゆがめられ、鉄の万力によって圧しつぶされ締めつけられたこれらの箇所を読みなおすことは、苦痛である。帝国主義は社会主義革命の前夜であること、社会排外主義(口さきでは社会主義、行動では排外主義)は社会主義にたいする完全な裏切りであり、ブルジョアジーの側への完全な移行であること、労働運動のこの分裂は帝国主義の客観的条件と関連するものであること等々を、私は「奴隷の」ことばで語らなければならなかった。

こうした時代の諸事情がこのての著作を読むものにとって難解なものにしている要因の1つなのである。

さて、インターネットはウエッブサイトから、より簡便に個々人が自由に情報を発信し意見を交わすことのできるブログへとその軸足を移し花盛りの感がある。いろんなジャンルでさまざまな方々が情報を発信しておられ、コメントをよせることも出来る。それを読み巡り、時にコメントをさせていただけることはとても楽しい。

いつまでもいつまでも自由な、素直な言葉で皆が語れるように、「最大の慎重さをもって、ほのめかしで、あのイソップ的な--のろわしいイソップ的な――ことばで」語らねばならぬ日の到来を断固として拒絶するために、「日本国憲法第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」ということを忘れてはならない。そう感じさせずにはおかない橋下新府知事の満面の笑顔とマックの店長さんの裁判であった。 といういいまわしは「イソップの言葉」だったりする(自爆)。今日はちょっと謙虚にリベラルかな。


世間の人々は小学生くらいで読んでんだろうな きっと ちょっと恥ずかしかったりする

イソップ

Comment

 秘密にする

肩はこらなかったですよ
ほっとさせられる文章でした。
数日前ただ一人味方していただいて救われる思いがしました。
ただ、テロについての薩摩長州さんの考えにはどうしてもうなずけず…。
もちろんおっしゃりたいことはわかりますが、現実にテロの犠牲になったり、恐怖に怯える人々は、時に一般庶民だったりしますから。
無視するつもりはなかったのですが、返事が遅れました。
では、また。
naoko | URL | 2008/01/30/Wed 00:48[EDIT]
いらっしゃいませnaokoさま
>ほっとさせられる文章でした。
ありがとうございます。そう言っていただけると、ほっとする私です。

肩こり話もたまにはするのですが、基本路線は「お気楽系」です。肩こり指数は☆☆☆から★★★★の4ランクございます。べつにたいした意味はございませんが、大衆蔑視にもとづく読者の選別基準などでは断じてありません。書き手の気合いのこもり度、自己満度程度のものでございます。ただ、一応は3★あたりは、革命的左翼の内輪話のようなものとなりますが。

さて、ようこそおこしくださいました。無視などとはとんでもございません。「あるエチオピア人から聞いた話」のなかに私はご返事を読み取ることが十分に可能でした。

それよりも、いきなり名指しにて「自爆テロ」は違うんだからね!と切り出した私こそ非礼を詫びねばなりません。ただ、10行程度で語ることは不可能なことなのはご理解いただけたらと。また、そうであるがゆえに、私もその申し出をストレートにうなずいていただけないであろうことを理解するものであります。

てなわけで、能力不足ゆえおいおいの小出しとなりますが「テロとの戦い」の虚構性を明らかにしてゆくことの意味はとても大きいとかんがえております。。なぜならこのスローガンがふたたび世界大戦に道を開きうる危ない論理をはらんでいるとおもうからです。

まずは、自らの命を捨てても「自爆テロ」をなぜしなくてはならないのか、そのこと自体をじっくりと考えてみたいと思っております。

もし、よろしければhttp://kangun.blog123.fc2.com/blog-entry-41.html#comment
「トランスコミック発見!」という拙い記事ではございますがお読みいただけましたら幸いでございます。

ご訪問いただきありがとうございました。またのおこしをお待ちしております。
薩摩長州 | URL | 2008/01/30/Wed 11:00[EDIT]
あるエチオピア人の話から…
それなんですよおお。
あとから読み返すと、貴方があれをわたしの痛烈な皮肉と受け取っていらっしゃるのではないかと、別の意味で真っ青…。
あれを書く前にあなた宛に直接自分なりの考えを伝えておくのが筋だったのに、と思っては見たものの後の祭り。書いてしまったものは消せません。
とはいうものの、中東アラブにおける自爆テロについて、わたしはどうしても肯定する気にはなれないのです。あれを肯定してしまったら、同様に、eat the rich.とかburn the rich.という自分の感情も、肯定してしまうことになる。
それでは魂の平和は生まれない。
そう思うのです。
naoko | URL | 2008/01/30/Wed 12:15[EDIT]
いらっしゃいませnaokoさま
いえいえ、「あるエチオピア人から聞いた話」は素直に読み素直にその内容をうけとりました。良心的な市民の意見であると。それは、新植民地体制下に生きる民衆の心情をストレートに表現している。
「中国もアメリカも大国は自分の利益のためにわれわれを利用しているだけだ」と言う記述にもその通りだとおもいます。それは中国が共産主義ではないと私は考えているからであります。その考えはけっしてnaokoさまのことばに迎合してではありません。
中国は共産主義ではなくその疎外形態のスターリン主義であると思っております。
スターリン主義の説明はコメントでは十分にはできませんのでいずれ記事にしたいと思っております。

そして、これまた少々玉虫色に聞こえるかも知れませんが、「自爆テロ」を私も積極的には肯定するつもりは毛頭ありません。ただ、否定はいたしません。「自爆テロ」のようなとても悲しい闘争形態をとらざるおえない、民衆の闘いの指導者とその組織の不在か力量不足をとても悲しく思うものであります。「自爆テロ」だけでは民衆は幸福はつかめないと。でも、そんな混乱と困苦をかならず民衆はつきやぶって民主主義をつかむと。

まあ、そんなことを言う人もいるんだくらいに気にとめていただけたら。というのが本意なのであります。再度のご訪問ありがとうございました。よろしければまたのお越しをおまちしております。
薩摩長州 | URL | 2008/01/30/Wed 20:41[EDIT]
ちょっと水を差すようですが
わたしの触れた限りでは、アジアアフリカ民衆は、その貧しさを差し引いて考えても、たいていの日本人より、何かが欠けているように感じることが多いのです。
もちろん尊敬すべき人々もいます。でも…。
こう書くと蔑視的な表現になっているかと心配ですが、それでも思い切って言ってしまうと、魂に響く厚みのある文化的教育を受けてきていない気がするのです。
それじゃあお前は受けてきたのか、と言われそうなのは重々承知してはおります。ただ、やはりこの国の持つ濃密な文化的空間は、稀有のものであるという気がしてなりません。
たとえば、世界中の人に子どもをどこで育てたいですかと聞いたら、もし日本をよく知っている人ならば、かなりの確率で日本で!と答える気がするのです。
わたしたちが守るべきもの、形のない文化、それはひょっとしたら世界の宝になりうるものなのではないか、そう思っています。
naoko | URL | 2008/01/31/Thu 06:45[EDIT]
イソップの言葉
 レーニンの「帝国主義論」で使われていましたね。今でも時折読み返したりしています。イソップ寓話その物も読んでいれば、レーニンへの理解もより深まるかも知れませんね。
 短い時間で読める本としては「論語」を読んでいたりなんかします。一つ一つの文が短いので暇つぶしにはよいです。尤も孔子は批判の対象だからあまりのめり込んではいけないでしょうけどね。
アッテンボロー | URL | 2008/01/31/Thu 22:45[EDIT]
アッテンさんいらっしゃいませ
そうですね、マルクスにしてもレーニンにしてもその時代の背景とか登場人物や党派などの下地がある程度ないとちんぷんかんぷんなところがその時代に生きた者でない辛さですね。もっもそんな時代だったら楽々よめるかっていうと、FもISTもいまではすらすら読めないことを考えたらはたして自分の主体的力量が不足しているのか、書いている党に問題があるのか、たぶん両方のような気もしますが、理解しようと努力しない者は永遠に理解することは出来ないということなのかもしれませんね。

私もすこしづつですが古典や著作選を読み返しています。以前にも書きましたが当時とはくらべものにならないほどの亀の歩みではありますが、確実に理解は深化されていると。あの頃に比べたら時間がないはずはないのだから、すこしづつでも学習して思想的核心を打ち固めていかないとこれから先、10年20年のスパンでは道を誤ってしまいそうであります。できるところから、ぼちぼちとすすんでまいりましょう。またのお越しをおまちしております。
薩摩長州 | URL | 2008/02/01/Fri 00:54[EDIT]
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