たわいもない日々の雑感を綴ってみたいと思いまする。

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革命的祖国敗北主義をちょっとだけ・・・
肩のこる話 ☆☆☆

最近おじゃましている愚樵さまのブログで「平和のために市民をやめる」という記事があがっていた。おもうところあってコメントをさせていただこうかと思いなるべく簡潔に書いてみたのだがどうも中途半端な長さと内容となった。てなわけで、愚樵さまあてのコメントとして記事をあげTBさせていただくことにしたものである。


革命的左翼は自国帝国主義国家のなす侵略戦争にたいして一貫した明確な方針を持っている。それは、革命的祖国敗北主義とよばれるものだ。

資本と労働の対立と国際的危機の時代にあって、資本は他国からの軍事的危機をあおり、愛国心と社会排外主義をもって、労働との幻想的共同体国家イデオロギーを生み出し、祖国防衛の「大儀」をもって労働を侵略戦争へと動員することによって自らの経済的破綻とそれにともなう政治的危機を突破するものである。

格差社会の進展は中間的な層を解体し資本と労働の矛盾をより明確にする。その過程で生じるストレスを資本は差別排外主義へと転化する。ひととき巷をにぎわした「希望は戦争」とはまさにそうした過程の生み出したイデの具現である。

革命的左翼は「希望は戦争」という言葉には「希望は革命」という言葉を対置する。
反動的祖国防衛主義にたいしては革命的祖国敗北主義を明確に対置するものである。
それは、表裏一体の過程である。社会に蔓延するストレスの源が資本による搾取によるものであること、国策のなのもとに民衆を抑圧しなされる戦争への準備をつぶさに暴露し、民衆の怒りを革命へと組織するならば、侵略は内乱へと転化され民衆のはるか頭上に君臨する内なる敵、資本を打倒しうるものとなろう。

自国帝国主義国家のなさんとする戦争が敗北するように行動する。これが革命的祖国敗北主義であり、それは「非国民」をなによりの誇りとして主体的にうけとめることであり、平和のために市民をやめることである。


Comment

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主義と主義
主義から問題を立てる考え方をやめました。
そして主義から問題を立てないという、主義を打ち立てました。
同じ様ですが、そこには天と地ほど、モノゴトに対する考え方の差が、あるように思っています。

「平和のために市民をやめる」を辞めるですか、含蓄に富んでいる言葉ですね。
「ここがロドウス島だ。ここで跳べ」とか「ルビコン河」を渡るとも、言い換えることが出来ると。
しかし、今の時代にはこちらの方が、ピッタリくるなぁ~~~
土岐幸一 | URL | 2008/02/11/Mon 10:41[EDIT]
いらっしゃいませ土岐さま
「平和のために市民をやめる」たしかに含蓄に富んだことばであります。
ちょっとビビとくるものがございました。平和のために市民をやめ続けるにはそれなりの大事もありましょう。やめた者同士が集い助け合い支え合って、やめ続け、さらにやめようと訴える。いつしかそうした状況をみて、あれは、その昔の昔遠い異国で聞いた「革命的祖国敗北主義」とかいうものではないのか。な~んて、いきなり「革命的祖国敗北主義」なんていわれたら民衆はドン引きしてしまう今の時代なのでありますね。
薩摩長州 | URL | 2008/02/11/Mon 21:43[EDIT]
怒りではなく
薩摩長州さん、こんにちは。せっかくTBいただいたのに、コメント遅れまして申し訳ありません。早くに目を通してはいて、思うところはあったのですが、それがなかなか言語化できなくて。

確かに「市民をやめる」は「希望は戦争」の対置であり、そうした意味で「希望は革命」=革命的祖国敗北主義と同じではありますが、それを支える心情には異なるものがあります。革命の原動力は権力への怒りにありますが、「戦争は希望」および「市民をやめる」のなかにある心情は、権力への諦めとでもいうべきものなのです。

「戦争は希望」は権力に諦めるばかりでなく、積極的にそこへ服従しよう、権力と寄り添って自分の居場所を確認しようという心情があります。対して市民運動および革命と呼ばれるものは、反権力であると同時に反権力のなかに自分の居場所を見出す。逆に言うと、“反”の元となる権力がなければ自分の居場所を見出せない、そうした場所に立っている。「戦争は希望」と発言したフリーターは、もしかしたら、そうした反権力の立ち位置に胡散臭さを見出したのかもしれない。それが“お前ら左翼だって持つべきものは持ってるだろ、でも、オレには何にもない!”という妬みともいうべき論説に繋がっていったのかもしれない、と思うのです。

「市民をやめる」というのは、権力を諦め、権力とは別の場所で自分の居場所をみつけよう、ということでもあります。日本に限って言えば、明治維新以前の庶民は、庶民自身のなかに自分の居場所を見つけ、暮らしていた。それが明治維新で「忠孝一如」などといった道徳観を植えつけられた所為で、自分たちの居場所が権力と不可分になってしまった。戦後、民主主義の思想が敷衍しましたが、これもある意味「忠孝一如」です。民主主義は基本的人権なる原理をもとに権力を組み立てますが、これは社会の統治原理である「忠」と人命はかけがえがないんだという心情的な「孝」とが一緒くたにされたもの。ゆえに基本的人権を信奉する市民たちは、そもそもからして権力志向ですが、「市民をやめる」ということは、その権力志向をやめてみないか、ということなのです。

市民たちは、そんなことをしたら権力者のいいようにされてしまう、というでしょう。けれど、ほんとうにそうか? 現在、権力者が強大な権力者たりえているのは、国民が主権者と認定されて権力志向になってしまっているからではないのか? 皆がカネを欲しがるから金持ちが大きな権力を持つことになったように。市民をやめ、カネをほしがらなくなり権力志向であることをやめれば、その権力の源泉を枯渇させることができるのではないか? 少なくとも人間は、市民でなくともちゃんと居場所を見つけ、暮らしていけるはずなのです。
愚樵 | URL | 2008/02/12/Tue 09:58[EDIT]
こんばんわ愚樵さま
いただきましたコメントの内容は大旨記事の中で展開しておられた内容とあわせて理解させていただきました。実のところを申し上げますと、本記事は愚樵さまの記事にとあるかたがよせられたコメントに相対するものとしてコメントさせていただこうとおもって書きかけたものなのであります。一知半解なレーニン国家論とまったくの革命的左翼理論への無知に全面的な反論をたてようかとも思ったのですが、人様のブログを燃やすは本意にあらず、あっさりとボツにして、一点「希望は戦争」に関して記述したものであります。
書いている途上にてビビときた「平和のために市民をやめる」という記事の見出しへの関心が、今日的ないいまわしとしての革命的祖国敗北主義として思考のなかで結びついたのでかくのごとき記事の結びとなったものであります。

てなわけで、本記事は愚樵さまへの批判も同意も基本的には含んではございません。判断を保留したというほうが適切かも知れません。もちろん揚げ足をとって持論を導いたということではございませんのでご理解をいただきたくございます。

でも、せっかくコメントをいただきましたので、有り難く頂戴いたしましたついでにと言ってはなんでございますが、以前お読みいただきました私の拙い明治維新考でありますがおおむね内容は同じなのですが、より一段ほりさげ、且つ簡潔にNKさまがコメントしておられます。アッテンボローの雑記帳で「G7閉幕。サブプライムローン問題に打つ手無し」という記事についたコメントであります。ぜひご一読ねがえましたら幸いでございます。

そうしたうえで、一言申し上げるならば、資本主義社会は封建社会にはもどれないということでございます。 熟慮されたコメント有り難うございました。またのお越しをおまちしております。
薩摩長州 | URL | 2008/02/13/Wed 22:21[EDIT]
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